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あなたの心に触れたくて  作者: トウリン


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14/55

はじめてのお誘い④

 その男のことは、父が開く食事会などでクリスティーナもしばしば見かけていた。コデルロスと同じくらいの年代で、父が携わる事業のうち、海運業関係でつながっていたはずだ。東の方の商品を仕入れるときに、彼が仲立ちをしたりしていたと思う。

 何人もいる常連のうち、特にクリスティーナによく近寄ってくる人だ。気さくなだけだと言ってしまえばそれだけなのかもしれないけれど、いつも少し距離が近過ぎるのではないかと思ってしまう。そのためか、外見は決して悪くないのに、クリスティーナは彼にあまり良い感情を抱けない。


(どうしよう)


 父の知り合いで、父ほどの年の人とは言っても、夫以外の男性と二人きりになるのは適切こととは思えない。

 今すぐマクシミリアンを探しに行った方が良いだろうか。


(でも、この部屋から出ないようにとおっしゃって……)


 彼とこの部屋にいるのは、何となく不安だ。

 けれど、言い付けられたことは守らなければならない。

 クリスティーナの感情でそれを破るわけにはいかない。


 そんなふうにクリスティーナがまごまごしているうちに、彼は部屋に足を踏み入れ、ゆっくりと後ろ手にドアを閉めた。


「こんなところで会えるなんてね」


 どことなく落ち着かない気持ちにさせる笑みを浮かべながら、男性が近づいてくる。

 クリスティーナは立ち上がり、椅子のわきに立った。なんとなく肘置きをきつく握りしめてしまう。

 マクシミリアンが早く戻ってくれることを祈りつつ、クリスティーナは記憶の中から彼の名前を探し出す。


「こんばんは、――ダクールさま」

 少し腰をかがめて挨拶すると、ダクールは顔の筋肉が溶けたように相好を崩した。


「結婚式の時以来だ」

 言いながら、彼はずかずかと近づいてくる。


 ダクールの足が止まったところでクリスティーナが数歩後ずさると、彼女の腰がバルコニーの手すりにぶつかった。

 一度は立ち止まった彼は、クリスティーナが距離を取ろうとしたことに気付いたのか、にやりと笑ってまた大股に一歩を詰めてくる。


「ストレイフは君を見事に隠していたな。まったく、これを見せびらかさないとはもったいないことを」

 そう言ったダクールの視線がクリスティーナの頭の天辺からドレスの裾まで行き来し、最後に彼女の胸元で止まった。


 なんだか、視線がべったりと張り付いてくるようで、気持ちが悪い。


(何か羽織るものを持ってくれば良かった)


 マクシミリアンが訊いてくれた時に、頷いていれば良かったのだ。

 彼女の胸に後悔が走る。


 クリスティーナのそんな胸中の思いはまったく彼には届いておらず、ダクールの手が彼女に向けて伸びてきて結い上げている淡い金髪のおくれ毛をすくった。その指先が首筋をかすめて、彼女は思わずビクリと身をすくめる。


 肌を粟立てたクリスティーナに、ダクールの目が粘つく光を持つ。

 嫌、だった。

 けれど、この人は、父の大事な取引相手なのだ。

 ならば、マクシミリアンにとっても何か意味のある相手なのかもしれない。

 そう思うから、クリスティーナは彼を遠くへ押しやってしまいたい、あるいはここから逃げ出してしまいたい気持ちをこらえて、かろうじて笑顔と見える表情を作った。


「あの、主人は今人を探しに行っております。もう少ししたら帰ってくると思うのですが」

 彼女の台詞と共に、ダクールの顔から薄ら笑いが掻き消えた。

「『主人』か」

 彼は苦々し気に、悔し気に、吐き捨てた。そうして、上げていた手をむき出しになっているクリスティーナの肩に置く。もう片方の手は、彼女の背後の手すりに。


 離れたくても離れられない。

 クリスティーナは檻の中にでも追い込まれた心持ちでダクールの肩越しにドアを見るけれど、いっこうにそれが開く気配はない。


 できる限り手すりに腰を押し付けるクリスティーナに、彼がまた少しにじり寄った。


「私も候補に名乗りを上げたのだがな。さすがにあの金は出せなかった」

「候補……?」


(お金……?)


 ダクールの言葉の意味が読み取れず、クリスティーナは眉根を寄せた。訝しげな彼女の表情には頓着せずに、彼はまた口元に薄い笑みを貼り付かせる。


「私の知る限り他に三人いたがな、誰もストレイフには敵わなかったよ。初っ端っからあんな値を出されたら競りになんかなるわけがないだろう。あれは奴の独り勝ちだったな」


 まるで通じない言葉を聞かされているようだ。

 まったく、会話に入れない。


「あの、ダクールさま、それはどういう……」

 呼びかけてはみたけれど、返ってきたのは答えとはいえないものだった。


「まったく、ヴィヴィエの奴は、見せびらかすだけ見せびらかして、ちょっとした味見も許してくれなかったからな。否が応でも欲しくなるというものだ。さすがに商売上手だよ」


 何か、取引の話であることには違いない。

 けれど、何故、今その話をしているのだろう。

 困惑するクリスティーナの前で、彼が嗤う。


「まあ、もっとも、跡継ぎがあれじゃ、先は見えているがな」


 言いながら、ダクールはどこか上の空な風情で彼女の肩に置いている手の親指を動かした。それが鎖骨の窪みをなぞり、今度こそ彼女の背筋に怖気おぞけが走る。耐えきれなくて思わず彼の胸を押しやろうとしたけれど、どんなに力を込めてもびくともしなかった。むしろその抵抗を楽しんでいるかのように、彼の喉の奥で笑いが響く。


 じりじりと、手は、更に下へと進みつつあった。

 クリスティーナの中にあるのは、もう、嫌悪を通り越して恐怖だ。


「ダクールさま……ッ」


 ダクールがわずかに残っていた距離を更に縮め、ピタリとクリスティーナに身を寄せてきた。高価なコロンの香りさえ不快で、彼女はギュッと硬く目を閉じる。


(マクシミリアンさま!)

 思わずクリスティーナが胸の中で彼を呼んだ時だった。


「邪魔してよろしいかな?」

 割り込んできた、愉快気な声。


 ダクールが火に触れたかのような素早さで振り返り、彼が身を引いたことでその向こうの様子がクリスティーナにも見えるようになる。


 部屋の真ん中に立っているのは、彼女の夫だった。


「これはこれは、ダクール。特にお呼びした覚えはないが、私の記憶違いだろうか」


 声は、愉しげ。

 けれど、その笑みは、その眼差しは――


(怖い)


 その一言に尽きる。

 クリスティーナは色々なマクシミリアンの笑顔を見分けられるようになったけれども、今彼が浮かべているような微笑みは、一度も見たことがなかった。


 一呼吸ごとに部屋の気温を下げてしまいそうなその顔のまま、マクシミリアンがクリスティーナの方へ近づいてくる。

 彼女がその冷ややかな笑みから感じ取ったものをダクールもしっかりと感じているようで、マクシミリアンの一歩ごとに彼は後ずさった。


「こ、これは、ストレイフ。」


 マクシミリアンがクリスティーナの許に着く頃にはダクールはぺたりと壁に背中を付けていて、引きつった愛想笑いを浮かべていた。


 マクシミリアンの手がクリスティーナの肩に置かれる。いつもは優しく触れてくるその手に、ギュッと力がこもった。彼はそのスラリとした見た目からは思いも寄らないほどの力でクリスティーナを引き寄せ、彼女を腕の中へと閉じ込める。


「待たせてすまなかったね、ティナ。でもダクールが相手をしてくれて、退屈はしなかったかな?」

 言いながら、マクシミリアンは彼女の頭の天辺にキスを落とし、そのままギュッと抱き締めてきた。


 震えるクリスティーナを包み込もうとするようなその温もりに、彼女の強張りも次第に解れてくる。頬に触れているマクシミリアンの広い胸に縋りついてしまいたいのをこらえて、そこに押し当てていた両手を握り締めた。


 このひと月あまりで馴染み深いものになった、彼の香り。

 ゆったりと規則正しく響いてくる、彼の鼓動。


 クリスティーナはそれらに意識を集中させる。


 マクシミリアンが与えてくれる安心感に思わずクリスティーナが身を摺り寄せると、彼女の身体に回されているしなやかな腕に、力がこめられた。


 こんなふうに、息が詰まってしまうほどのきつい抱擁を与えられたことがない。ダクールのことがなければ、戸惑っていただろう。

 けれど、今は、少し苦しいくらいの力が、心地良い。


 ほう、とクリスティーナが小さく息をついた時、しどろもどろな声が水を差す。


「やあ、その、久しぶりだな。えぇっと、ああ……彼女の結婚式の時以来だ」

「そうだね。私は君と取引がないからなぁ」

 そこでマクシミリアンはふと思い出した、というように微かに首を傾げた。

「ああ、そうそう。ダクール商会は、今度東の方の茶を扱い始めるんだったっけ? 私のところも手を出そうかと思っているところなんだよ。ほら、流通が少ないと希少価値でバカみたいに値が上がってしまうだろう? 私としては、誰もが気軽に手を出せるような値段にしたいと思っているんだ」


 マクシミリアンのその台詞に、ダクールの顔色がサッと変わる。


「そんな! あれはできるだけ高くして貴族の間だけで出回るようにしようと思ってるんだ!」

「おや、それは残念。まあ、確かに利益は上がらないけど、良いものは皆で楽しまないとね」

「もう仕入れちまったのに!」

 ダクールが上げたのは、ほとんど悲鳴といってもいいほどの声だった。


 今の遣り取りからすると、ダクールは希少価値を謳ってできるだけ値段を吊り上げ、利ザヤを稼ぐつもりだったようだ。


「クソ!」


 罵りの声を上げたダクールは、足をもつらせながら転がるようにして部屋を出ていった。

 彼の姿が完全に消え去ると同時に、マクシミリアンが腕を解く。彼は手をクリスティーナの肩に置いて、そっと彼女と距離を取った。


 急に苦しさから解放され、そして温もりからも引き離されて、ほんの一瞬、クリスティーナは何か大事なものを取り上げられたような心持ちになる。


「ティナ、大丈夫かい? 怪我はない?」


 気遣いに満ちたマクシミリアンの視線がクリスティーナの全身をサッと舐める。その仕草そのものは先ほどのダクールとよく似たものだったけれど、彼の時に感じた不快さは微塵も感じなかった。

 いつもの穏やかな微笑みを完全に消し去って、少し怖いくらいに真剣な眼差しを向けてくるマクシミリアンに、クリスティーナはかぶりを振る。


「何も。大丈夫です」


 両手を組んで抑えきれない震えを隠して微笑んで見せると、彼の眉間にしわが刻まれた。そんなふうに不快感を露わにする彼は見たことがなくて、クリスティーナは怯む。

 と、その怯えを即座に察したマクシミリアンが両手で彼女の頬を包んで真っ直ぐに目を覗き込んできた。


「クリスティーナ」

 思いがけず鋭い声で名前を呼ばれ、彼女は目をしばたたかせる。


 彼は少し声を和らげて、続けた。

「今は笑わなくてもいいんだよ。怖かったと泣いてもいいし、私が置いていったことを責めてもいい。でも、無理に笑うのだけはやめてくれ」

「マクシミリアンさま、そんな……」


 無理なんてしていない、そう言おうとした唇が、一瞬の優しいキスで塞がれる。それから彼は、クリスティーナを腕の中へと引き寄せた。

 大きいけれども繊細な手が、そっと彼女の背を撫でる。


「一人にして、すまなかった」


 硬い声でマクシミリアンが囁いた。

 きつく締め付けるのではなく、優しく包み込む抱擁で、クリスティーナの身体の震えが引いていく。


(もう、大丈夫)


 そう思った瞬間、彼女の目の奥が熱くなった。さっきまでとは別の震えがこみ上げてきて、目の前にあるマクシミリアンのシャツをギュッと握り締める。しわになってしまうと思ったけれど、手の力を抜くことができなかった。


 ヒクッと、喉が引きつる。


「怖かった、です」


 しわがれた声で一言漏らせば、堪えていたものが一気に溢れ出した。


 頬を濡らすものが、マクシミリアンのシャツにも滲みていく。

 落ち着いた、穏やかな声が、「大丈夫だよ」と繰り返し囁いてくる。何度もしゃくり上げる背中を、そのたびに、彼は宥めてくれた。

 これほど感情を露わにしても、冷ややかに突き放されるどころか優しく慰めてもらえるなんて。

 クリスティーナは小さく鼻をすする。

 こんなふうに泣いたのは、いつ以来だろう。こんなふうに泣いたことが、果たして今まであっただろうか。

 ふと気付けば涙もしゃくり上げるのも止まっていて、ただ、マクシミリアンの温もりに身を委ねているだけになっていた。


 しばらくそのままでいた後、マクシミリアンの方からそっと身体を離す。彼女の目を覗き込んで、微笑んだ。


「落ち着いた?」

「はい」


 クリスティーナは小さな声で頷いたけれど、涙でびしょ濡れの顔を見られるのは、恥ずかしい。

 その心の中の声が伝わったのか、マクシミリアンは胸ポケットからハンカチを取り出すと、彼女の顔を丁寧に拭い始めた。


「ほら、元通り、きれいになった」

 どこか冗談めかした声でそう言われ、クリスティーナはおずおずと微笑みを返す。

「せっかくのお化粧が、落ちてしまいました」


 きっと、もうほとんど残っていないに違いない。

 マクシミリアンはにっこりと笑うと、少し腫れぼったい感じがするクリスティーナの目蓋に優しくキスを落とした。


「貴女はどんな時でも愛らしいよ。正直なところを言うと、飾りたてない、そのままの貴女の方が私は好きなんだ」


 また冗談なのかどうなのか判らないことを言われ、クリスティーナの頬が熱くなる。


「マクシミリアンさま……」

「ティナには頬紅よりもこの紅さの方が似合うよ」

 そう言って、その紅くなっているであろう場所に、マクシミリアンが口づける。

 右と左、両方に。


 いっそう火照ってきた顔をどうしたらいいのだろうとクリスティーナが思った時、突然明るい声がそこに入り込んできた。


「そろそろ、奥方を紹介してくれてもいいんじゃないかな?」

「!?」


 とっさにクリスティーナはマクシミリアンの胸を突き放し、勢い余ってふらついた。すかさずマクシミリアンが腰を掴まえて支えてくれる。


「ありがとうございます」

「危ないなぁ」


 もごもごと礼を口にした彼女にクスクスと笑いながら、そっと彼は手を放した。

 クリスティーナがしっかり立ったことを確認して、マクシミリアンはゆっくりと振り返った。そうしながら彼が少し横に動いたから、広い背中に隠されていた光景がクリスティーナにも見えてくる。


 ダクールは、いない。


 代わりに、明るい赤毛と屈託のないこげ茶の目をした一人の青年が、この上なく楽しそうな満面の笑みを浮かべて佇んでいた。


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