はじめてのお誘い③
指示された時間の少し前には着いていられるように、クリスティーナは玄関ホールに向かった。まだ余裕はあるけれども、何となく気が急いてしまう。
少しくらい遅れたところでマクシミリアンが怒ることはないだろうと判っていても、彼を待たせるようなことはできなかった。
ドレスの裾に気を付けながら階段を下りていた彼女は、ホールに佇む人に気付いて立ち止まる。
後姿だけれども、スラリとした背中の形の良さにクリスティーナは一瞬目を奪われた。
盛装したマクシミリアンの姿を目にするのは、結婚式以来だ。未だに、クリスティーナはこれほど完璧な男性が自分の夫であるということに馴染めていなくて、何となく気後れしてしまう。
クリスティーナの気配に気付いたのか、マクシミリアンが微笑みを浮かべながら振り返った。けれど、まだ階段の途中にいる彼女を視界に捉えた途端、ふっとその笑顔を消す。
(マクシミリアンさま?)
どことなく、冷ややかな――
(いいえ、そうではなくて……でも……)
どう表現したらよいのか判らないけれど、とにかく、いつもとは何かが違う。
(このドレスでは、ご不満なのかしら?)
そんな不安に駆られたクリスティーナは、思わず自分の身体を見下ろした。
選んだドレスは、嫁いだ時にマクシミリアンが用意してくれた衣装の中では一番大人っぽいものだ。
ヴィヴィエの家で父から与えられていたドレスとは段違いだけれども、それでも襟ぐりは深めでほんの少しだけ胸の谷間が覗いている。色もいつもの淡色系ではなく濃い薔薇色だ。
化粧は少し濃いめにして、普段はマクシミリアンの希望で少女のように下ろしっ放しにしている淡い金髪も、首筋が出るように高く結い上げている。
(これ以上、胸元が開いているドレスはなかったのだけれど……)
クリスティーナはそっと襟に手を添えた。
洗練されたマクシミリアンの隣に立っても彼の足を引っ張ることのないようにと、モニクと二人でできるだけ頑張ってみたのだけれど、まだ、足りないのだろうか。
「ティナ?」
足を止めたままのクリスティーナに、マクシミリアンの声が呼びかける。ハッと我に返って彼に目を向けると、もういつもの笑みが浮かんでいた。いつもの、柔らかで温かそうだけれどもどこかよそよそしい笑みが。
クリスティーナは、この笑顔は、あまり好きではなかった。
こんなふうに微笑まれるくらいなら、いっそ笑っていない方がいいとすら思ってしまう。
「ティナ、どうかしたの?」
もう一度声をかけられて、クリスティーナは一瞬の逡巡の後、マクシミリアンの許へと向かった。
すぐ近くに行って見上げると、その笑顔はいつにもまして取って付けたようなもののように感じられてしまう。彼はその顔のまま、クリスティーナに手を差し伸べた。
「馬車の準備はできているよ」
彼女の装いには一言も触れず、彼が促す。
その声も、まるで初めて会う見知らぬ人からかけられているかのようだ。
そう、まるで、今マクシミリアンの前にいるのは彼の妻であるクリスティーナではなく、彼にとって何の意味もない存在であるかのように感じられて。
何かが、マクシミリアンを不快にさせているのだ。
クリスティーナを一目見た瞬間からこうなったのだから、彼女の外見が、やっぱり問題なのかもしれない。
彼の手を取ろうとしたクリスティーナはためらい、両手を胸の前で握り合わせた。
「ティナ?」
眉をひそめたマクシミリアンが、目でどうしたのだと訊いてくる。そこに心配の色が浮かんでいるように見えるのは、クリスティーナの願望だろうか。自分は、彼に心配してもらえる、存在なのだろうか。
心許なく見上げると、彼の笑みは窺うようなものになった。
たとえクリスティーナがそう思っているだけかもしれなくてもさっきよりは彼の雰囲気が緩んだ気がして、彼女は口ごもりながら震える声で問い返す。
「あの……あの、着替えてきた方が良いでしょうか?」
訝しげにマクシミリアンの眉根が寄った。
「どうして?」
「マクシミリアンさまが……そう思っていらっしゃるような気がして……」
「貴女が自分でその衣装を選んだのだろう? だったらそれでいいんだよ」
「はい……」
頷きながらも、クリスティーナは、それならばなぜそんなに不満そうなのだろうと思ってしまう。好きなようにしろと言いながら顔は不機嫌だなんて、どちらを信じたらいいのか判らなくなる。
そんな心の内が、漏れてしまったのかもしれない。
不意に、マクシミリアンが微笑んだ。今度は、本当の温もりが込められている笑みで。
(わたくしが、好きな笑顔……)
ホッと肩の力が抜けたクリスティーナの手を取り、彼は自分の腕に掛けさせた。
「本当に、その格好でいいんだよ。とても良く似合っている。似合い過ぎていて、ちょっと自分の愚かさに腹が立っただけだから」
後半、意味が良く判らないことを言いながら、彼はしげしげとクリスティーナを見下ろしてくる。
「……肩に何か羽織りたくないかい?」
問いかけられて、クリスティーナは束の間首をかしげた。
今日招いてくれた人は、マクシミリアンの知り合いというからには、仕事関係の相手でもあるに違いない。
クリスティーナを仕事仲間と会わせるとき、コデルロスはできるだけ肌を露出させるように指示してきた。どういう理由なのかは彼女には解からなかったけれど、その方が仕事の話が有利に進むから、と父は言っていた。
コデルロスにとってその方が良いのなら、マクシミリアンにとっても同じに違いない。
「いえ、寒くはありませんので」
「…………そう?」
クリスティーナの返事にマクシミリアンは顎を引くように頷き、玄関の扉へと歩き出した。
馬車の中での彼はいつも通りの穏やかさを取り戻していて、道すがら、今日の演奏会で会うことになっている知り合いについてもう少し詳しく教えてくれた。
名前はアシュレイ・バートンと言って、マクシミリアンよりも五つ年下の三十歳らしい。彼のことを説明する口調から、その年下の実業家のことを相当買っているということが伝わってきた。
何となく、仕事仲間というよりももっと親しい間柄のように感じられる。
コデルロスが取引相手のことを話すときには、どこか相手のことを下に見ているような響きが声ににじみ出ていたけれど、バートンという男性のことを語るマクシミリアンからはそれが全く感じられなかった。
(いつもと同じように接して、良いのかしら……)
マクシミリアンの声に耳を傾けながら、クリスティーナは、迷う。
時折相手に触れさせつつ、絶えず微笑みを浮かべ、どんな話にも笑顔のまま感心した声で頷く。
それが、コデルロスから教え込まれた『知人』への対処法だ。
クリスティーナはチラリと隣を窺った。
彼も、彼女がそうすることを望むだろうか。
――どうだろう。
結局、どんな態度を取ったら良いのかクリスティーナが決められないうちに、馬車は演奏会の会場に着いてしまう。
開演を待つ人で混み合うホールに入って、マクシミリアンが辺りを一望する。
「席は二階の個室を取ってくれているんだよ。始まるまでに少し時間があるけど……どうする、しばらくここにいるかい? 誰か知っている人でも探す?」
「え、あ、の……」
クリスティーナの『知っている人』は父関係の者くらいだ。
むしろ、あまり会いたくない。
クリスティーナとしてはできたらすぐに席に行ってしまいたい。
でも、マクシミリアンはここで仕事相手と話をしたりしたいのではないだろうか――そう思って隣を見上げると、にっこりと微笑まれた。その笑顔で、彼女は決断を迫られる。
「貴女は、どうしたい?」
「わたくし、は、――……席へ、行きたいです」
おずおずと小さな声でそう言うクリスティーナに、マクシミリアンは「判った」というように頷いた。そうして、彼女の腰に腕を回し、彼の身体にぴったりと引き寄せて歩き出す。人がたくさんいるところに来るといつも訳もなく不安になってしまうクリスティーナだったけれど、こんなふうに彼の腕の中に閉じ込められるようにされると不思議と気持ちが落ち着いた。
誰かとすれ違いそうになる度に、クリスティーナの腰に置かれたマクシミリアンの手に力がこもる。そうすると、彼と触れ合っている彼女の右半身が、スラリとしている見た目に反して力強く揺るぎない身体にいっそう強く押し付けられる。
それはまるで、大切な宝物でも抱え込んでいるかのようで。
(もう少しだけ、このままでいたい)
不意に、クリスティーナの胸に今まで感じたことのないような渇望がこみ上げる。
一瞬とは言え、そんな考えが頭をよぎったことに戸惑って、思わず彼女は身体を引いた。
わずかだけれどもマクシミリアンから離れようとしたクリスティーナの動きに気が付いたのか、彼が物問いたげな眼差しで見下ろしてきた。
自分の中に沸いた分不相応な想いを悟られたくなくて、彼女は意識して身体の力を抜いて彼の腕に身を委ねた。
マクシミリアンがどんな表情をしているのかが気になって、クリスティーナはチラリと彼の顔に目を走らせる。と、真っ直ぐに彼女を見下ろしていた眼差しとしっかり目が合ってしまった。
一瞬、彼の目に面白がるような光が走る。
そして、足を止めずに自然な動作で頭を下げると、クリスティーナの生え際の辺りにキスを落としてきた。
こんなに、人がいるのに。
カッとクリスティーナの頬が熱くなる。
思わず深く顔を伏せると、触れ合う場所から彼の忍び笑いが伝わってきた。
(面白がっていらっしゃる)
ムッとしてマクシミリアンの腕から逃れようとしたら、いっそうきつく抱き寄せられた。
クリスティーナは、これ以上はないというほど、彼の存在を強く感じる。
刹那、早く離れたいような、ずっとこのままでいたいような、矛盾した思いがクリスティーナの胸の中に渦巻いた。
混乱しながらマクシミリアンが促すままに足を運んでいると、あっという間に予約の個室に着いてしまった。十人ほどが入っても余裕がありそうな広さに、座り心地の良さそうな椅子が四脚置かれている。
そのうちの一つにクリスティーナを座らせると、マクシミリアンは彼女の前に膝を突いた。まだ火照りの残る顔を覗き込まれるのは居心地が悪かったけれども、ずっとうつむいているわけにもいかない。
クリスティーナは下がりそうになる視線を持ち上げて、マクシミリアンと目を合わせた。すると、彼がにっこりと笑って。
どことなく嬉しそうに見えるその笑顔に、クリスティーナの肩からフッと力が抜ける。自然と、彼女の唇にも笑みが浮かんだ。
微笑みを返したクリスティーナに、マクシミリアンの目が強い光を帯びる。一度の瞬きで消え失せたその光に、何故か彼女の胸がざわついた。
落ち着きなく身じろぎをした彼女の手が、そっと取られる。
「私はバートンを探してくるよ。すぐに戻るから少しここで待っていてくれるかな」
「わかりました」
クリスティーナがこくりと頷くと、ふと、彼の眼差しが揺れる。
「何なら一緒に――いや、人込みを連れ回すと疲れてしまうね。私が戻るまで、ドアは絶対に開けないように。本当は、鍵があったらいいのだけれど……」
眉をひそめたマクシミリアンに、クリスティーナは少しムッとする。閉じ込めておかないとフラフラ出歩くとでも思っているのだろうか。
「わたくしは、ちゃんとここにいますよ?」
心持ち唇を尖らせてそう言うと、彼は一瞬目を丸くし、そして小さく笑った。
包み込んだクリスティーナの手を持ち上げ、指先にそっと唇を当てる。
「そうだろうけど、別の心配があるんだよ。ああ、私は何でそのドレスを買ってしまったんだろう。たぶん一人でこっそり鑑賞したかったんだろうな。貴女のクローゼットではなく、別のところに取っておけば良かった――誰も入れさせない秘密の小部屋とかね。時々、屋敷に高い塔でも作ってしまいたくなるよ。そうして、天辺に、私だけが鍵を持つ部屋を作るんだ」
どういう意味だろう。
少なくとも、マクシミリアンがこのドレスを嫌っているわけではないようだというところは判ったけれど、クリスティーナが身に着けていることには何某かの不満があるように聞こえる。
どう答えたらいいのか判らずに彼女が戸惑いの眼差しで見つめていると、マクシミリアンは彼一人だけが納得しているような笑顔を返してきた。
「できるだけ早く戻るよ」
立ち上がったマクシミリアンは、クリスティーナの頬に手を伸ばしてくる。両の頬をすっぽりと包んでくる彼の手のひらは、とても優しい。
こういうふうに触れられると、ついつい、クリスティーナは自分が彼にとってほんの少しだけでも特別な存在になっているのではないかと、勘違いしそうになってしまう。
きっと彼は、どんな女性に対しても同じようにするに違いないのに。
諦め半分寂しさ半分で彼女が視線を落とした、その時。
「やっぱり、着替えさせれば良かった」
「え?」
マクシミリアンの温もりに浸っていたクリスティーナはすぐには意味を掴めなくて、首をかしげて眉をひそめた。そんな彼女に、彼はどこか謎めいた微笑みを浮かべる。
「何でもないよ。じゃあ、行ってくるとしよう。ああ、座っていていいから。私が戻るまでいい子にしておいで」
最後に、彼の指先がクリスティーナの頬をそっと撫でていく。
一人残されたクリスティーナはマクシミリアンを見送った目を膝の上へと落とした。そうして、ついさっきまで彼の手があった、まだその温もりが残っているような気がする場所に、自分の手を重ねる。
目を閉じて、束の間の遣り取りを思い返した。
いつでも優しい、彼の所作。
いつでも――誰に対しても。
出逢う前のマクシミリアンのことは、知らない。
婚約してからの一ヶ月間、コデルロスに連れられてパーティーに出た時には、いつも何となしにマクシミリアンの姿を探していた。そんな時、彼はたいていたくさんの女性に囲まれていて。
クリスティーナに気付けばすぐに彼女の隣に来て、寄ってくる女性たちに笑顔で「婚約者だ」と紹介してくれていたけれど、その女性たちに対する態度と自分に対する態度との違いが、彼女にはよく判らなかった。
マクシミリアンに優しくされると、他の人に対してもそうなのだろうかと考えてしまって、何となく複雑な気分になる。
「夫婦、だけど……」
夫婦となってひと月にもなるのに、いまだに、二人の間に特別な何かがあるように思えない。
出逢った当初よりは彼のことが解かるようになっているとは思うけれど、それでもまだまだ不可解なところばかりだ。
ふう、とクリスティーナが小さなため息をこぼした時だった。
カチャリと扉が開く音がして、おや、と思う。
マクシミリアンが出ていって、まだほとんど時間が経っていない。
「何か忘れものでも――」
クリスティーナは扉の方へ振り返りながらそう言いかけて、目にした相手に身を強張らせた。