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はじめてのお誘い②

 ストレイフ家の食事の席は、とても和やかだ。しんと静まり返っていたヴィヴィエ家とは全く違って、話題豊富なマクシミリアンだけでなく、アルマンやメイドたちも何かとクリスティーナに声をかけてくれる。

 クリスティーナの三倍は会話に口を動かすのを費やしているというのに、マクシミリアンはいつも彼女の半分の時間で食事を終えてしまう。彼はクリスティーナが最後にお茶を飲み干すまで席を立たずにいるけれど、最初から最後までごくごく自然に微笑んでくれているから、彼女が気まずくなるようなことはない。


 今日も、いつもと変わらぬ朝だった。

 いつもと同じようにマクシミリアンは先に食べ終わり、次から次へと色々な話をしながらクリスティーナが食事を進めるのを楽しげに眺めている。


 そんなマクシミリアンの微笑みにちらちらと視線を送りながら、クリスティーナは自分の話を切り出そう、切り出そうと思うのだけれども、なかなか成し遂げられずにいる。

 失敗続きで日々を無駄にし、今日こそは――と、椅子に座った瞬間から身構えて、身構えたまま、どんどん貴重な時間が過ぎていく。

 このままでは、結局また何も言えずに終わってしまう。


 パンを食べ終わり、オムレツも最後の一口が消えてしまうと、それからは一秒ごとにじわりじわりとクリスティーナの中にも焦りが積もっていく。


(このお茶を一口飲んだら――)


 そう自分に言い聞かせ、彼女はチラリとマクシミリアンに目を走らせた。と、バチリと彼と視線が合って、とっさにまた目を伏せてしまう。

 そうしてまたクリスティーナはちびりちびりとカップの中身を減らしていき、ついに彼女のお茶の残りもなくなった。


 と、まるで彼女のカップの中身が見えているかのように。


「じゃあ、そろそろ私は行ってくるよ」

 そう言って、マクシミリアンが立ち上がる。


「あ、あの!」


 ちゃんと考える前に呼び止めてしまったクリスティーナは、動きを止めて彼女を見つめてきたマクシミリアンとまともに目が合ってしまって固まった。


「ティナ?」

 彼は訝しげに首をかしげている。


「あ、え、その……」


 何か、何か言わなければ。

 焦ったクリスティーナは頭の中で一番上にあることを口にする。


「お出かけ、しませんか?」


 返ってきたのは沈黙で、彼女は自分の言葉が唐突過ぎることに気が付かされた。

 出かけることそのものは、こんなふうに改めて口にしなくても普段しばしばしていることだ――マクシミリアンがクリスティーナのことを気遣って。


 クリスティーナの為ではなく、マクシミリアンの為の外出には、何と言って誘ったらいいのだろう。

 言葉を探すクリスティーナを、マクシミリアンは笑みを浮かべて見つめていた。その眼差しはゆったりとしていて彼女を包み込むようで、焦っていた気持ちがすぅっと消えていく。


 最近の彼の笑顔は、何だか少し、前とは違う気がする。

 いつもではないし、何がどうとは言えないけれど、時々、『少し違う』笑みを見せるのだ。

 あるいは、その微かな変化にクリスティーナが気付くようになっただけなのかもしれないが。

 とにかく、今の彼の微笑みは彼女を安心させてくれるもので。


 クリスティーナはこっそり深呼吸をして、口を開いた。


「いつもは、わたくしのためのお出かけでしょう? 今度は、どこか、マクシミリアンさまのお好きなところへ……」

「私の?」

「はい」


 こくんと頷いたクリスティーナに、マクシミリアンはクスリと笑った。


「貴女と共に時を過ごせれば、私はそれで充分満足なのだけれどね」


 これは、遠回しに断られているのだろうか。

 そんなふうに勘繰ってしまったクリスティーナが不安になる前に、彼が続ける。


「でも、せっかくのティナからの初めてのお誘いだし、大事にしないといけないな。そうだね、……近いうちに演奏会があるんだけど、どうかな?」

「演奏会、ですか?」

「そう。私の知り合いが後援をしている演奏家の会に誘われていてね」

「お知り合いの……」

「グランスの人間だけど手広い男で、フランジナでも色々やっているんだよ」


 つまり仕事関係の知り合いだということなのだろうけれど、グランス国の人というのはクリスティーナも初めてだった。コデルロスの手の内には、いなかったと思う。


 グランスは二年ほど前までここフランジナ国としばしば小競り合いを繰り返していた国で、いわゆる『敵国』になる。二年前にマルロゥ砦をグランスに制圧されて、停戦の条件の一つとして、王女のマリアンナがほとんど人質のようにグランスに渡った。

 それは事実上の敗戦だったけれども、フランジナ国内はむしろそれ以降の方が安定しているようで、コデルロスなどは公然と「負けて良かった」と口にする。実際、父が屋敷に招く取引相手も、数年前と比べて表情が明るくおおらかな雰囲気になっていた。事業の収益も、ここ数年でずいぶん上がってきているらしい。

 コデルロスの知り合いの中にもいなかった上に、滅多に屋敷の外に出ることもないクリスティーナには他の国のことなどまったく理解の及ばない話で、「グランスの人間」と言われてもピンとこない。


「グランスの、方……」

 呟いたきり口をつぐんだクリスティーナに、マクシミリアンが眉根を寄せた。


「嫌なのかい?」

 問われて、物思いにふけっていた彼女は我に返る。


「え?」

「行きたくないのなら――」

「あ、いえ、行きたくないなんて、そんなことは!」


 思わずマクシミリアンの台詞を遮ってしまったクリスティーナは、すぐに自分の行為に気付いていっそう慌てる。


「も、申し訳ありません。無作法なことを……」


 主人に口答えをするなんて。

 ましてや、彼が話しているのを邪魔するなんて、もっての外だ。

 クリスティーナはうつむき、緊張で震える両手を膝の上で硬く握り合わせた。


「どうして謝るんだい?」


 叱責の言葉を待つ彼女に掛けられたのは、苛立たしさなど微塵も感じさせない声で。

 そろそろと目を上げてみると、怪訝そうに首を傾げたマクシミリアンがいた。


「行きたくないなら、別にいいんだよ」


 どうやら彼が気にかけていることは『クリスティーナが音楽会を嫌がっていること』であって、『クリスティーナが彼の話を遮って口を挟んだこと』ではないようだ。彼女の不調法になど、気付いてすらいないように見える。


「あ、の……?」


 口ごもるクリスティーナに、マクシミリアンがまた問いかけてくる。

「行きたくないの?」


 クリスティーナからしてみれば、「音楽会に行く」ということはそこに拒否するという選択肢などない、単なる決定事項の伝達のようなものだと思っていた。


「いえ、行きます」


 戸惑いながらもそう答えれば、マクシミリアンがにっこり笑う。


「ティナは、演奏会に、行きたいんだよね?」


 行くと答えたのに念を押されて、クリスティーナは戸惑いを越えて困惑した。


(どうお返事したら、良いの――?)


 微笑みながら彼女の返事を待っているマクシミリアンの目を見つめたけれど、そこに答えは見つからない。


「はい、行きたい、です……」

 おずおずとそう言うと、マクシミリアンは何かを探るようにしばらく彼女を見つめた後、呟いた。

「まあ、ぎりぎり及第点をあげておこうかな」


(及第点?)


 つまり、自分は彼が望むような返事をできなかったということだろうか。

 マクシミリアンを失望させてしまったことが、そして、どうして彼を失望させているのかが判らなくて、クリスティーナは肩を落とす。


「ティナ?」


 静かに呼ぶ声に引かれて恐る恐るマクシミリアンに目を向けると、そこに苛立ちや不快そうな色は欠片もなかった――彼女が案じていた、失望の色さえも。


「ティナ」


 安堵で呆けているクリスティーナの注意を引こうとするように、もう一度彼が彼女の名前を口にした。その声にあるのは優しい響きだけだ。


 クリスティーナはうたたねから目覚めたような心持ちで、パチリと瞬きを一つする。

 そんなクリスティーナの素振りを束の間見つめ、マクシミリアンはぐるりとテーブルを回って彼女のところまでやってくると、流れるような自然な仕草でそこに片膝を突いた。

 いつもは見下ろしてくる視線を見上げる形にして、マクシミリアンはクリスティーナの目を覗き込んでくる。その眼差しにいつもの笑みは欠片もなく、彼女の動きを何一つ見逃すまいとしているかのように、真剣そのものだった。


 しばらくそうして見つめていてから、彼が口を開く。


「ねえ、クリスティーナ。私は貴女を怖がらせるようなことをしているかな?」

「え?」


 思いも寄らないその問いに、クリスティーナは困惑する。

 常に穏やかそのもののマクシミリアンが、彼女を怖がらせるようなことがあるはずがない。だから、彼がどうしてそんなことを訊いてくるのかが、クリスティーナには解からなかった。


「どうやら、大丈夫なようだね」


 ホッと表情を緩めたマクシミリアンがその形の良い手を伸ばしてクリスティーナの手を取った。冷たく強張っていた彼女の手に、彼の温もりがしみ込んでくる。


「たぶんね、私が貴女に対して腹を立てることはないよ。……まあ、やきもきして少し苛ついてしまうことはあるかもしれないけどね」

「マクシミリアンさま……」


 苛つく、という言葉に肩を強張らせると、やれやれというふうにマクシミリアンが苦笑する。


「ほら、またビクビクしている。貴女は、何もしていないのに」


 そう言って、彼は包み込んでいたクリスティーナの手を持ち上げ、冷えた指先を温めようとするかのように、そっと口付けた。


「私がティナに苛々するのはね、貴女が自分のことを否定してばかりいるからだよ。私はティナのことが好きなのに、貴女は私が好きなティナのことを認めようとしない。貴女だって自分の好きなもののことを否定されたら腹が立つだろう?」

「は、はい……」


 指先へのキスから続く『好き』の連呼に頭の中が飽和状態になっていたクリスティーナは、かろうじて、マクシミリアンの最後の台詞に頷いた。にっこり笑った彼は、クリスティーナの手をひっくり返し、今度は手のひらの真ん中に口付けを落とす。

 さっきまで冷え切っていた手は、今や温石を握らされているかのように火照っていた。

 その熱は手から腕へ、肩から首へ、そして顔から頭へと満ちていく。

 きっと、頬は真っ赤になっているに違いない。


 そう思うと、余計に熱くなってきて、クリスティーナは両手で顔を覆ってしまいたくなったけれど、片手はマクシミリアンに取られたままだしそもそもそんな失礼なことをするわけにはいかないしで、もうどうしたらよいのか判らない。


 そんなクリスティーナを見つめ、マクシミリアンが目を煌めかせた。


「それにね、好きな人には喜んで欲しいものだろう? だから、したい時には『したい』と、はっきり言ってくれると嬉しいな」

「わたくし、さっきはそう申し上げました」

「言ったけど、あれでは私が無理やり言わせたみたいじゃないか?」


 眉を下げたマクシミリアンにそう言われて、クリスティーナは慌ててかぶりを振る。

「そんなことありません! わたくしは、本当に行きたいと思って――」


 せき込むように言い募ったクリスティーナに、カラリとマクシミリアンが笑顔になる。


「それなら良かった」


 あまりに急に表情が変わるから、クリスティーナはなんだか騙されたような気がしてしまう。

 釈然としない気持ちだったから、少しムッとしたような顔になっていたかもしれない。

 そんな彼女を見てマクシミリアンはクスリと笑い、立ち上がる。


「彼に席を用意してもらうよ」

 そう言って身体を屈め、クリスティーナの頬に触れるだけのキスをした。


 離れる前にマクシミリアンは彼女の耳元に唇を寄せる。耳たぶに触れんばかりのその距離にドキリとすると、まるでその鼓動が聞こえたかのように彼がクスリと笑った。

 その吐息が耳をくすぐるから、また、いっそう胸が苦しくなる。


「昼食までには機嫌を直しておいて欲しいな」


 からかうような響きを持たせてそう囁き、マクシミリアンはまた小さく笑うと、愉し気な足取りで食堂を出ていった。


「わたくしは、別に……」

 機嫌を損ねてなんか、いないのに。


 心の中でそう呟いたクリスティーナは、そんなふうにぼやいた自分に気付いてムッと唇を噛む。


「わたくしは、機嫌を損ねてなんていません」


 改めてそう声に出したところで、ガチャリと食堂の扉が開いた。入ってきたのはアルマンで、クリスティーナの声が聞こえてしまったようで首を傾げられた。


「今、何かおっしゃいましたか?」

 尋ねられても、答えられるわけがない。


「いえ、何も……」

 気まずくごまかしたクリスティーナは、そそくさと立ち上がる。


「ああ、そうですね。お庭をお散歩でもしたら、気持ちがすっきりしますよ」


 食堂を後にしようとした彼女の背中を、アルマンの声が追いかけてきた。そして続く、クスクスという忍び笑い。


 主従揃ってからかわれたような気がして、思わず「もう」と呟いてしまったクリスティーナだった。


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