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はじめてのお誘い①

 朝目覚めると、クリスティーナは一番に隣を見る。


 そこには何もない。

 あるのは、確かに誰かがいた証である、枕の凹みだけ。

 指先でそっとそこに触れても、もう温もりの名残も残っていない。


(また、駄目でした)

 胸の中でそうこぼして、クリスティーナはため息をつく。


 マクシミリアンにせめて目覚めてすぐに『おはようございます』の一言くらいは掛けたいのに、その望みは彼とベッドを共にするようになってから、まだ一度も叶っていない。

 いつも、クリスティーナが起きた時にはもう隣はもぬけの殻。

 この屋敷における自分の役割は何なのだろうと、クリスティーナは膝の上に置いた両手を見つめた。


 ヴィヴィエの家では、お客をもてなすのが一番大きな彼女の存在意義だった。コデルロスは週に一度は客を招いたりどこかに招かれたりしていたから、クリスティーナにもすることがあった。


 けれど、嫁いですでに一ヶ月。

 その一ヶ月の間に、ストレイフ家ではまだ一度もパーティーは開かれていない。

 出かけたことはあるけれど、数日かけて港町へ遠出したのと、チョコチョコ公園に行くのと、くらいだ。それだって、クリスティーナが楽しむばかりで、マクシミリアンの役にはこれっぽっちも立っていない。むしろ、余計な時間を取らせてしまっただけで、役に立つどころか迷惑をかけているのではないだろうか。


 それに。


(わたくしと、マクシミリアンさまは、まだ……)

 クリスティーナは落ち着かない気分で身じろぎをする。


 もう一ヶ月が経つけれど、モニクに教えられた『夫婦の契り』はまだ結んでいない。

 マクシミリアンは毎晩このベッドでクリスティーナを抱き締めながら眠るけれど、それだけ、なのだ。

 頬や額にはよくキスをくれても、ナイトドレスに包まれている範囲の素肌に直接触れてくることはない。

 いくら男女のことに疎いクリスティーナでも、ただ一緒に眠るだけで子どもを宿すことがないことは、もう知っている。子どもを作るには、その為の行為が必要なのだ。

 マクシミリアンにとっては跡継ぎをもうけることも結婚の理由の一つのはず。

 初めのうちこそ、ベッドで誰かと一緒にいる、触れられるということに彼女も緊張を覚えていたけれど、さすがにもう覚悟もできた。

 それなのに、いまだに彼はただクリスティーナを抱き締めるだけ。

 何故なのかはわからないけれど、きっとマクシミリアンなりの何か理由があるのだろう。

 とにかく、このヴィヴィエ家での自分の役割を何一つ果たせていないことは、確かだ。


 何もできることがないのだから、せめて、朝送り出すときの挨拶と晩眠る前に労いの言葉を、と思ったのだけれども。


 マクシミリアンは、いつもクリスティーナがぐっすりと眠り込んでいる時刻にベッドにやって来て、朝はどんなに彼女が頑張っても目覚めることができない時刻に出ていってしまう。夜中に夢うつつの中で温かな腕がクリスティーナを引き寄せるのを感じても、夜明けにそのぬくもりが離れて行ってしまうのを寂しく思っても、どうしても眠気に勝てず彼に何か声をかけることすらできなかった。


「クリスティーナ様がお寝坊なわけではありませんよ」

 毎朝後れを取って落ち込むクリスティーナに、モニクはそう言って慰めてくれるけれど、やっぱり朝の挨拶くらいはしたい。


「お忙しいのは、判るけれど……」

 クリスティーナは、はあ、とため息をついた。


 朝にマクシミリアンの顔を見て声を聴きたいと思うのは、もう一つ理由がある。それは、彼のことが心配だからだ。

 多分、マクシミリアンは毎日五時間も眠っていないのではないだろうか。


 彼の身体のことを思って、クリスティーナは眉をひそめる。

 結婚式の日から一ヶ月間彼と過ごしてみて、その生活ぶりが良く見えてきた。

 マクシミリアンはまだ暗いうちに起きて仕事を始め、夜中を超えるまでほとんどずっと書斎や街にある彼の仕事場にいる。食事の時間はクリスティーナに合わせてくれるけれど、裏を返せば彼と顔を合わせることができるのはその時間くらいだった。週に数度の公園の散策も、彼の息抜きの為ではなく、あくまでもクリスティーナを楽しませるという『業務』の一環なのではないかと思う。

 仕事一辺倒だったコデルロスよりも、更に仕事尽くめだ。父ですら少なくとも夕食の後は酒を楽しんだりしていたものなのに。


 一度、マクシミリアンがベッドから離れる前にクリスティーナのことも起こして欲しいとお願いしたことがある。

 すると、彼は言ったのだ。

「でも、私に付き合って同じような生活をしていたら身体を壊してしまうだろう」

 と。

 そして笑って続けた。

「貴女はゆっくりしていなさい。私は朝食の席で貴女を眺めていられたら、それで充分嬉しいよ」


 ――そして結局、この状況だ。


「したいことはしたいと言えとおっしゃったのは、マクシミリアンさまなのに」

 ふう、と、またクリスティーナは膝の上にため息をこぼす。


 彼女には「身体に悪いから」と言うくせに、自分は変えようという気は微塵もないなんて。


 あまりに心配になったから、少し前に、クリスティーナはこのことについてアルマンに相談してみた。

 そうしたら、彼は困ったように微笑んで肩をすくめただけだった。


「でも、僕が何か申し上げても聞く耳なんて持ってらっしゃいませんよ? それに大丈夫ですよ、あの方は外見の数倍は頑丈ですから。たぶん、地獄に落ちてもニコニコ笑ってさっくり戻ってこられちゃうんじゃないかなぁ……」


 後半は、冗談だったのだろうか。

 気弱そうなアルマンの言葉とは思えなくてクリスティーナが思わず目を丸くしてしまうと、彼は「何でしょう?」というように、いつもの少し眉尻の下がった笑顔を返してきた。


 ――きっと、冗談だったのだろう。


 そう自分を納得させたクリスティーナに、アルマンはふと思いついたというふうに付け加えた。

「クリスティーナ様がおっしゃったら改めるんじゃないですかねぇ。もう少し一緒にベッドで過ごしたいな、とか、おねだりしてみませんか?」

「わたくしが、ですか?」

 ためらいがちに問い返すと、アルマンは満面の笑みを返してきた。

「はい。週末は一緒にどこかへ行きたいな、とかもいいですね」

 そう言ってから、彼はやれやれと言わんばかりにかぶりを振って見せる。


「もう人員も育ってきてるので、マクシミリアン様がそんなにバリバリ働かなくても、社は充分やっていけるんですよ。後はふんぞり返って彼らのやることを眺めてればいいんですけどねぇ」

「人員?」

「ええ。それぞれの部門の責任者たちはもう一人立ちできてますから、それぞれに任せたらいいんですよ。なので、ここは是非ともクリスティーナ様から休暇のお誘いを」

「でも、マクシミリアンさまのお仕事の邪魔をするなんて……」

「クリスティーナ様のことを邪魔だなんて思うわけがないですよ。大丈夫、僕の言うことなんて笑顔で却下、ですが、クリスティーナ様のおっしゃることなら『お願い』の『お』の字が出る前に何でも頷かれます」

「アルマンが駄目なら、わたくしでもお役に立てないのではありませんか?」

「とんでもないです! 僕とクリスティーナ様を同列にするなんてどうかしてます。とにかく、試してみてください。そして僕にもお休みをください」


 何となく、最後の言葉に特に力が入っていたような気がするのは、気のせいだろうか。


 ――とにかく、そんな遣り取りからかれこれもう二週間が過ぎて。


(今日こそ、お誘いしてみよう)


 朝起きた時に自分自身に発破をかけるこの心の中での呟きも、もう三度目になる。

 一週間ほど前からそれを試みて、毎日、食事の席で話を切り出そうとして成し遂げられず、再度挑戦すべく昼食が終わるとマクシミリアンがいる書斎の前に赴いた。けれど、扉を叩こうとすると、どうしても固まってしまう。


(無下にはされないのは、判っているのだけど)


 マクシミリアンはいつでも笑顔でクリスティーナの言葉を聴いてくれる。この世で一番の関心ごとだ、と言わんばかりの様子なのだけれども、いつもそんなふうだから本当にそうなのか自信が持てない。

 いつも笑顔だからこそ、余計な気を遣わせてしまっているのではないかとクリスティーナは心配になってしまうのだ。


(でも、わたくしたちは夫婦なのですもの)

 気を遣い合っていつまでも距離を縮められずにいるのは、良くないことだ。


「がんばろう」

 自分自身に言い聞かせ、上掛けの上に置いていた両手をギュッと握ってみる。

 と、そこへ静かなノックの音が響いた。


「おはようございます、ティナ様――?」

 入ってきたモニクが、淑女らしからぬ握り拳を作っているクリスティーナを目にして立ち止まる。

「あ……おはよう、モニク」

 こそこそと両手を上掛けの下に隠し、照れ隠しで微笑んで見せた。


「なんだか朝から元気がよろしいですね?」

 くすくす笑いながらモニクはクローゼットに向かい、クリスティーナを肩越しに振り返る。

「今日はどのドレスにしましょうか?」


 マクシミリアンが用意してくれたドレスはどれも品が良く、クリスティーナにもよく似合うものばかりなので、あまり迷う余地がない。


 どれでもいいと答えかけ、彼女はやめた。

「あの、今日はマクシミリアンさまをお出かけに誘ってみようと思うの」

「まあ」

 くるりと振り向いたモニクが目を丸くする。

 あまりに驚いたような彼女のその素振りに、クリスティーナの決心が鈍った。


「マクシミリアンさまはお嫌だと思う……?」

 おずおずと尋ねると、モニクは大きく瞬きをしてから慌てた様子でかぶりを振った。

「いいえ、まさか! 是非ともそうなさってください。でも、そうですね、それなら念入りに用意しないと」

 やにわに張り切りだしたモニクを、クリスティーナは慌てて制する。


「待って、モニク。今日とは限らないし、だいいち、お受けしてくれるかどうかも判らないのよ?」

「何をおっしゃいますか。ティナ様からどこかへ行きたいだなんて、お屋敷にいた頃には一度もおっしゃったことがないじゃないですか。そこは、旦那様には何が何でも頷いていただくんです」

 そう言って、またモニクはクローゼットに頭を突っ込んで、ああでもないこうでもないと始めてしまう。


(やっぱり無理、とか、もう言えない、わよね……)


 これで「誘えませんでした」となったら、彼女をとてもがっかりさせてしまうに違いない。


 期せずして背水の陣を敷いてしまった――あるいは墓穴を掘ってしまったとも言う――クリスティーナは、計画を公言してしまったことにほんの少し後悔を覚えていた。


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