戸惑い③
部屋に一人残されて、ぼんやりと、見るともなしに窓から外の景色を眺めていたクリスティーナは、扉を叩く微かな音に我に返った。
マクシミリアンが、戻ってきたのだろうか。
けれど、まだ先ほどの会話がクリスティーナの頭の中を飽和状態にしていて、彼の顔を見ることすらできそうにない。
まごまごしているうちに、また、ノックの音が。
待たせるわけにも逃げ出すわけにもいかず、クリスティーナはおどおどと答える。
「どうぞ」
肩を強張らせて身構えていたけれど、現れた相手に思わずホッと息をついた。
入ってきたのは、モニクだ。
「こちらにいらっしゃるとうかがって……お茶でもお持ちしましょうか?」
「ありがとう。でも、今はいいわ」
微笑みながら答えて、また窓へと目を向けた。
そこから見渡せるのは、整然とした庭園。
色とりどりの花々は計算された美しさで植えられ、トピアリーは少しの乱れもなくきれいに刈り込まれている。
(マクシミリアンさまみたい)
眺めながら、クリスティーナは胸の中で呟く。
この屋敷からも庭からも、初めて言葉を交わした時から今日までずっと、マクシミリアンに覚えていたものとよく似た印象を彼女は受けていた。
整っていて、どこか、よそよそしい。
優しくしてくれていても、どこか、距離がある。
人当たりは良いけれど、その心の内はチラリとも見通せない。
クリスティーナは、夫となった人に対して、どうしても、そんなふうに感じてしまっていた。
(でも……)
彼女の脳裏に少し前までのマクシミリアンがよみがえる。
優しくして、からかって、そして真剣な眼差しを向けてきた、彼が。
(マクシミリアンさまは、いつもと違っていらした)
さっきの彼は、クリスティーナの表面だけでなく、もっと内側まで触れてこようとしているような、そんな感じがした。最初のうちは、いつものように、からかっているのかそれが彼の普通の言動なのか判らないようなことを言っていたけれど、言葉を交わすうちに、いつの間にか、暗緑色の瞳の中にはとても真摯な光が宿っていることに気が付いた。
彼は、何て言っていただろうか。
(わたくしの行動は、わたくし自身で、選んで、決める……?)
そんなこと、今まで許されてこなかった。
そうすることを考えたことなど――そんな考えが頭の片隅をよぎることさえ、なかった。
「良く、判らないわ」
クリスティーナは、呟く。
「ティナ様?」
「え?」
「今、何かおっしゃいましたか?」
モニクにそう問いかけられて、彼女は自分の口から声が漏れていたことを知る。
「何でもない――」
ごまかすような微笑みとともにかぶりを振りかけたクリスティーナは、そこで動きを止める。
忠実な侍女をジッと見つめると、彼女は微かに眉をひそめて見返してきた。
「何か? お加減がよろしくないのですか? 寝室でお休みになりますか?」
足早に歩み寄ってきたモニクが熱を確かめようと手を伸ばしてクリスティーナの額に触れる。いつもと変わらず甲斐甲斐しい彼女に、クリスティーナはふと安堵に近い吐息を漏らした。
モニクの行動は、とても解かりやすい。簡単に予測できて、安心できる――マクシミリアンと違って。
夫のことは、よく解からない。
クリスティーナに優しく微笑んでくれるけれども、それはどんな時でも誰に対しても与えられるものだから、もしも彼女に対して不満があってもやっぱり笑顔のままなのかもしれないと勘ぐってしまう。
その上、「もっと主張しろ」などと、今まで言われ続けてきたこととは真逆のことを言われて、クリスティーナには何もかもが解からないこと尽くしだった。
(したくないことをしたくない、したいことをしたいと言うなんて、わがままではないの?)
わがままを言われたら、人は不快になるものではないのだろうか。
「ティナ様?」
いっそう顔を曇らせたクリスティーナに、モニクが心配そうに眉をひそめる。クリスティーナはそんな彼女を見るともなしに見つめた。
(モニクなら、マクシミリアンさまが何を望んでいらっしゃるのか、解かるかしら)
賢明な彼女なら、クリスティーナには解からないことへの答えをくれるかもしれない。
「あのね、モニク――」
クリスティーナはマクシミリアンと交わした会話を、できるだけ詳細に思い出してモニクに語った。そうして、彼女を窺うように見る。
「モニクはどう思う? マクシミリアンさまは、わたくしに何を望んでいらっしゃるの?」
モニクは束の間黙り込み、それからクリスティーナを窓際に置かれた白くて華奢な揺り椅子へといざなった。そこに腰を下ろした彼女の前にひざまずき、ジッとクリスティーナを見つめてくる。
その顔には、クリスティーナの問いに対して悩む様子も怪訝そうな素振りもない。
至極当然、明白な事実を告げる声で、言う。
「旦那様のお言葉の通りだと思いますが」
それがどうしても理解できないクリスティーナは、口ごもりながら問いを重ねる。
「でも、それはわがままを言えということでしょう?」
そんなことを望むなんて、有り得ない。
かぶりを振ったクリスティーナに、小さな笑い声が届く。
「モニク?」
「ああ、いえ。ちょっと、リゼ様がお小さかった頃のことを思い出して」
モニクは今でもエリーゼ――クリスティーナの母のことをリゼと呼ぶ。唐突に、一度も会ったことのない母のことを持ち出されて、クリスティーナは小さく首を傾げた。
「お母さまのことを?」
「はい。小さな頃のリゼ様はチョコチョコとわがままをおっしゃって、私を困らせてくださいました」
その言葉の内容とは裏腹に、モニクは嬉しそうだ。
「モニクは、いやじゃなかったの?」
「嫌だなんて。楽しくて、嬉しゅうございましたよ」
意外な返事に、クリスティーナは目を丸くする。
「どうして?」
「私はリゼ様のことを大好きでしたから。何かして差し上げたい、望みを叶えて差し上げたいと思ったのです。大事な人のご希望に沿うことができて、嬉しそうに笑ってくださったときには、とても幸せな気持ちになれるんですよ」
それは、クリスティーナにも解かる。
いつも、コデルロスに対してそう思っていたのだから。
少し納得顔になった彼女に、モニクは続ける。
「それに、わがままは信頼の証でもあるのですよ」
「……信頼……?」
「そう。わがままは、『この人なら大丈夫』――そう思えて初めて言えるものですから」
「この人なら、大丈夫……」
「ええ。ですから、ティナ様が私に対してもわがままをおっしゃってくださらないのは、少し寂しいことです。きっと、マクシミリアン様もそう思っておられると思いますよ」
信頼していれば、この人ならば許してくれると思っていればこそ。
(マクシミリアンさまに対して、そんなふうに思える?)
クリスティーナは自問したけれど、答えは『否』だ。
何か間違ったことをしてしまうのが怖い。
彼を失望させて侮蔑や嫌悪の眼差しを投げられるのが、怖い。
(この人なら大丈夫だなんて、とてもではないけれど思えない)
それは、彼のことを信頼していないということになるのだろうか。
気付いてしまうとマクシミリアンに対して申し訳ないような気持ちになる。悄然と肩を下げた彼女の手が、柔らかく包まれた。
「ティナ様」
呼ばれて膝の上に落としていた視線を上げると、真っ直ぐなモニクの眼差しと行き合った。
「ほんの少し、勇気を出してみませんか?」
「え?」
「ティナ様は、マクシミリアン様を怒らせたらどうしよう、嫌われたらどうしよう――そんなことばかり考えていませんか?」
図星だった。
返す言葉のないクリスティーナに、モニクが微笑む。
「ほんの少しだけ勇気を出して、この方は大丈夫、そう思ってみましょうよ」
励まされても、怯んでしまう自分が情けない。
「……わたくしは、弱虫ね」
自嘲の笑みと共に呟いたクリスティーナの手を、モニクがギュッと握り締める。
「弱虫と思ってそこに閉じこもったままであれば、それこそ弱虫というものです」
叱咤の言葉は、ちょっと厳しい口調で。
それからまた、彼女は温かく微笑んだ。
「ティナ様は、私の自慢のお嬢様です」
「モニク……」
不意打ちのモニクの言葉に、クリスティーナの目の奥が熱くなる。
「ありがとう」
少し歪んでしまっているに違いない笑顔をかろうじて作って答えたクリスティーナの手を、モニクは励ますように軽く叩いた。
「きっと、マクシミリアン様の自慢の奥様にもなれますよ。なれないはずがありません」
「そう? 本当に?」
「ええ、絶対」
きっぱりと断言したモニクに、クリスティーナは思う。
いつかマクシミリアンが誇れる妻に、彼にとって特別な存在になれたなら、それはどんなに幸せなことだろう。
そうなれればいい、と。
そうなりたい、と。
(いいえ、願うだけでは駄目でしょう? そうなるように、努力しなければ)
まだ、何をどうすれば良いのか、正直言ってさっぱり見当もつかない。
けれど、クリスティーナが一歩を踏み出さないと何も変わらない。
失敗してマクシミリアンを失望させてしまうのは怖いけれど、だからといってただ与えられるものを受け取るだけでは何も変わらないのだ。
(頑張って、みよう)
誓いを込めて、クリスティーナはモニクの手をきつく握り返した。