プロローグ
「ねえ、クリスティーナさま。わたくしにも弾かせていただける?」
難易度が高いといわれている曲を弾き終えてホッと一息ついたとき、舌足らずな声でそう話しかけられて、クリスティーナはピアノの鍵盤に手を置いたまま振り返った。
そこに立っていたのは、十歳をいくつか超えたくらいの少女だ。
レースをふんだんにあしらったピンク色の可愛らしいドレスを身に着けて、小さく首をかしげてクリスティーナを見つめている。
このパーティーの招待客の子どもには違いないけれど、あまりにたくさんの人が来ていて誰が連れてきたのかは思い出せない。
貴族の子どもらしい澄まし顔で、礼儀正しく両手を身体の前できちんと揃えている。
クリスティーナは微笑んで、二人掛けの椅子の上で身体をずらした。
「どうぞ、お掛けになって」
「ありがとう!」
少女は満面の笑みになっていそいそと椅子に座ると、喜び勇んで鍵盤の上に手をのせた。
けれど、どうやら、『弾ける』わけではなかったらしい。
小さな人差し指で、ポン、ポン、と音を出していく。
その度に鈴を転がすような笑い声をあげる少女に、クリスティーナも自然と笑顔になった。
今日は彼女の十五歳の誕生日を祝うための会だけれども、その趣旨を知っている者はどれほどいるのだろう。
祝われる側のクリスティーナがピアノを弾いていたのは、父に命じられたからだ。
パーティーの主役というよりもまるで何かの商品の性能をお披露目するかのように難しい曲をいくつも弾かされ、大勢の客の好奇の視線に延々と晒されていた。
クリスティーナは確かにピアノを奏でることが好きだけれども、大勢の前でそうすることは、好きではなかった。
そもそもパーティーも好きではないし、できたら静かなところで刺繍でもしていたい。
大勢の人の中にいるだけでも気が張るのに、あんなふうに注目の的になると居ても立ってもいられない気持ちになってしまう。
少女が声をかけてきたのは、そんなクリスティーナが頭痛すら覚え始めていた頃だった。
彼女の緊張を、あどけない笑顔が解してくれる。
少女はしばらく思うがままに鍵盤を弾いていたけれど、唐突にくるりとクリスティーナの方へと顔を向けた。
「わたくしも、クリスティーナさまみたいに弾きたいです……弾けるようになりますか?」
とても真剣な眼差しだった。クリスティーナは微笑んで肯く。
「ええ。練習をすれば、きっと」
そう言って、少女の手を取った。
「こんなふうに指を使うと、弾き易くなります」
手の形と指の置き方を指示すると、元々器用なのか、先ほどよりもはるかに流暢に音が流れるようになる。
「まあ、すごい」
驚きの声を上げた少女が、パッと破顔した。心の底から嬉しそうに。
「練習をすればするほど、上手になります。頑張って」
「はい!」
彼女と笑顔を交わしたクリスティーナだったけれど、ふいに、うなじの辺りにチクチクと何かで刺されるような違和感を覚える。
(何、かしら……?)
クリスティーナは顔を上げて、何気なく首を巡らせた。
本当に、何気なく。
何かを捜そうとも求めようとも、したわけではなかった。
ただ、ふわりと流した彼女の視線が、一点で止まった――捕らわれた。
クリスティーナに注がれている、一つの眼差し。
彼女と目が合ったことに気付くと、その人は手にしていたグラスを掲げて微笑んだ。
(きれいな人)
視線の主を目にしてクリスティーナがまず思ったことは、それだった。
男の人に対して適切な称賛の言葉ではないかもしれないけれど、そうとしか言い表せなかった。
(誰……?)
黒髪で、たぶん、黒い瞳。
年のころは三十かそこらだろうか。異母兄と同じか、いくつか上か。
柔らかな雰囲気の、まるで彫刻のように整った顔。
美しく着飾った女性たちに囲まれたその人はスラリと背が高く、取り巻く淑女よりも優に頭一つ分は飛び抜けている。話しかけてくる彼女たちに笑顔で応えながら、その目はクリスティーナに据えられたままだ。
こんなふうに殿方を見つめ続けるのは淑女の礼儀に反しているというのは判っていても、彼の視線がピクリとも動かないから、クリスティーナも目を逸らせない。
見えない糸に絡め捕られたような彼女を現実に引き戻したのは、隣からの朗らかな声だった。
「ねえ、クリスティーナさま?」
呼びかけられて、彼女はピクンと肩をはね上げる。
「! なんでしょう?」
「あのね、こうしようとしても、うまくいかないんです」
「ああ、それは……」
少女のつたない指運びを直しながら、クリスティーナは肩越しにそっと振り返ってみた。
(いらっしゃらない)
――あの人の姿は、消えていた。
(どちらの方なのでしょう)
少なくとも、今まで父が開いてきた数多のパーティーの中では、姿を目にしたことがなかったと思う。あれほど印象深い人だから、一度でも視界に入れたらきっとずっと忘れられないに違いない。
(また、いらっしゃるのかしら……?)
今まで、父の招待客に対してクリスティーナがそんなふうに思ったことはない。
そう思う自分が、彼のあの視線を二度と浴びたくないと思ったのか、それともまた彼の姿を目にすることがあればいいと思っているのか、彼女自身にも判らなかった。