第58話『娘を巡る争い』
知永子は、ゆっくりと目を開いた。
「倉内さん!解りますか?」
看護婦が知永子の顔を覗き込み、尋ねてくる。瞬間、知永子は飛び起きた。
「愛実…。愛実を、連れ戻しに行かなくちゃ……」
譫言のように呟く知永子を、看護婦が必死に制止する。
「倉内さん、落ち着いて下さい。しばらくは安静にして頂かないと困ります!」
「でも、でも…」
知永子は必死に看護婦を振り切ろうとするが、体に力が入らなかった。その場にへたり込む。
「倉内さんを連れてこられた男性が、愛実ちゃんは自分が必ず連れ帰ると仰っていました。事情はよく解りませんが、今はご自分の体調を一番に考えて頂かないと…。栄養失調寸前だったんですよ」
看護婦の言葉に、知永子は泣き崩れた。
〈知永子は、自らの無力さに涙を禁じ得なかった。愛する娘を失った辛さが、胸を締めつける。
しかし、この時の知永子には明生の帰りを待つ他なかったのだった。〉
「捜していた娘さんが、ついに見つかったそうで…本当に、おめでとうございます」
社長室のソファに座る知香子を前に、景子が言う。知香子は景子を見上げながら、唇の端だけを上げた。
「えぇ、お陰様で。ある意味では、あなたに感謝しているわ」
「…えっ!?」
思わず、景子は口ごもる。知香子が言っていることの意味が、解らなかった。
「カリスマ社長の裏の顔、血塗られた黒い履歴書…。あの記事を書いたのは、本当はあなたなんでしょう?」
知香子は、顔色を変えずに景子に問いかける。
「…ど、どうして…それを!?」
「あなたが以前、あたしを取材した時の目よ。まるで深手を受けてプライドを追われたライオンが、再びその座を狙うような…飢えた目だったわ。その直後に、あんな暴露記事が出てきたんだもの。すぐに、解ったわ」
言いながら、知香子は立ち上がった。ゆっくりと、景子に近づく。
「そ、そんな…」
「悪いけど、あなたのことを調べさせてもらったわ。一年前にある政治家の不正疑惑を暴き損なって左遷させられた、東大出身の元敏腕記者。業界内では悲劇のヒロインとして、なかなかの有名人らしいじゃないの」
笑いながら、じわじわと景子を追い詰めた。
「え、えぇ…」
言いかけた景子の頬に鋭い痛みが走る。口の中を切ったのか、鉄の味がした。
「あんたの記事のお陰で愛実が見つかったことには感謝してる。でも…あの娘の出生の秘密を暴き立てたことだけは、絶対に許せないわ」
景子の髪を乱暴に掴み上げる。
「あんたのせいで、愛実は知らなくても良かった自らの業を知ってしまったのよ。あの娘は…一生殺人犯の娘と言う十字架を背負っていかなければいけないの!その落とし前は、きっちりと取ってもらうわ」
知香子は、言いながら景子のスーツの内ポケットに手を忍ばせた。ICレコーダーを取り上げる。
「な、何をするんですか!?」
緊張と恐怖に、景子は声を裏返らせた。
知香子は、無言でICレコーダーを床に打ちつける。更に、それをヒールで踏みつけた。ICレコーダーが、無惨に砕け散る。
「あんたからの取材なんて…もう二度と受けるつもりはないわ!」
「そ、そんな…」
「金輪際、あたしの目の前に姿を現さないでちょうだい!」
涙を流す景子に、知香子は吐き捨てた。景子は、がっくりと項垂れる。
「それと…あんたがここに向かっている間に、全てをお宅の編集長に伝えさせてもらったわ。あんたなんか…クビだそうよ。元いた雑誌への復帰を画策していたらしいけど…これでおじゃんね」
打ちひしがれる景子の頭上から、知香子の宣告が降り注がれた。社長室に、知香子の高笑いが響く。
倉内の家に戻った愛実は、部屋の中にいた。報道の余波が収まるでは外出を控えた方がいいと言う知香子の判断から、半ば軟禁状態にされている。
愛実はベッドの上で膝を抱えながら、知永子への思いを馳せていた。
知永子のことは、今でも許せないと思う。しかし、自分のために骨身を惜しまず働き通しだった知永子の姿を思い出すと、心が揺れた。
果たして、知香子から言われるままに倉内の家へと戻ってしまった、自分の判断は正しかったのか。答えの出ない問いに、愛実は小さな胸を痛めていた。
その時、部屋の窓が鳴った。
不思議に思い、窓から下を見下ろすと、明生が路上から手を振っていた。愛実の部屋の窓に、小石を投げつけていたらしい。
「明生おじちゃん!?」
愛実は窓を開け、明生に声をかけた。明生は、人差し指を唇に当てる。
「…何で、明生おじちゃんが東京にいるの?」
知香子が雇った家政婦の目を盗んで外に出た愛実は、明生に尋ねた。
「知永子が、ママが倒れた…」
「えっ!?」
明生の言葉に、愛実は驚いて明生を見上げる。
「だから、愛実を迎えに来たんだ。俺と一緒に、ママのところに帰ろう」
明生は、きっぱりと言い切った。愛実は、明生から目を逸らし首を振る。
「…まだ、ママを許せないのか?」
明生は、愛実の頭上から問いかける。
「…解んない。でも…今はママには会いたくない。だって、あの人はずっと愛実のことを騙していたんでしょ?」
「それは違うな…」
「だって…あんな大事なことを愛実に黙っていたんだよ」
愛実は、明生を問い詰める。
「ママは…愛実のことを思っていたからこそ、言い出せなかったんだ。それを、騙すとは言わないんじゃないかな?」
「…でも、ママは人殺しなんでしょう。やっぱり、一緒には暮らせないよ」
「…確かに、ママが人を殺めてしまったことは事実だ。でも、それは死んだ愛実のパパのためだったんだよ」
しばらくの沈黙の後、明生はぼそりと答えた。
「…えっ!?」
「愛実にはまだ、ちゃんと解らないかも知れないけど…あの時のママには、そんな道しか残されていなかったんだ。愛を貫くための…辛い選択だったんだよ」
「そ、そんなこと言われても…愛実には解らないわ」
愛実は、ただただ戸惑う。
「今は理解出来なくても、いつかきっと…ママの気持ちを解る日が来るよ。それにこの二年間…ママが、愛実のためだけに頑張っていたのを誰よりも目の当たりにしてきたのはでも愛実だろう」
明生は、愛実を優しく説き伏せた。
「…うん」
「今、ママは心の底から愛実のことを求めているんだよ…」
「……解ったわ。愛実、ママに会いたい。愛実を…ママのところに連れて行ってちょうだい!」
意を決した愛実は、明生にせがんだ。明生は、しっかりと頷く。
「一体どういうことなのよ!!」
帰宅した知香子は、家政婦を問いつめた。
「すいません!ほんの少し、目を離した隙に…」
家政婦は萎縮して知香子に詫びたが、知香子の怒りは収まらない。息を荒げて、手近にあったものを次々と家政婦に投げつけた。
ふいに、知香子が血を吐きながらその場に倒れ込む。知香子が振り上げようとしてた花瓶が、床で砕け散った。
「ち、知香子ちゃん!?大丈夫?」
おろおろする家政婦を押しのけ、澄江が駆け寄る。知香子は、腹部を押さえながらうずくまったままだ。
「愛実はてあたしの娘よ。誰にも、渡したりなんかしないわ……」
唇から流れる血をそのままに、譫言のように呻く。
つづく




