第52話『あてのない旅路』
「おばちゃん…何があったの?」
階下の異変を聞きつけたのか、階段を下りてきた愛実が知永子に問いかける。知永子は、愛実を抱き止めた。
「こっちに来ちゃ駄目!!」
「でも…」
「逃げるのよ!!早く!勝手口から逃げるの!!」
愛実を抱き締めたまま、早口で言い聞かせる。知永子の表情にたでならない気迫を感じた愛実は、小刻みに首を揺らした。
「行くわよ!」
知永子は、言いながら愛実の手を握る。愛実は、知永子の手を強く握り返してきた。
ふたり手に手を取り合って、夜の闇へと駆け出していく。
「どうやら…行ったようだね」
フキは笑いながら言って、力を抜いた。とうにフキの体力は、限界を超えていたのである。
「絶対に逃がすもんか。この世の果てまでだって追いかけて…愛実を取り戻して見せるわ」
フキを突き飛ばした知香子は、入ってきた入口へと取って返そうとした。
「…あんたも、哀れな女だね」
知香子の背中に、フキが呼びかける。知香子は、鬼の形相で振り返った。
「何ですって!?」
そう口走って、フキに詰め寄る。知香子の動揺を、フキは鼻で笑った。
「ふんっ。哀れな女って言ったんだよ。あんたは…永遠に報われない片想いをしているのさ。あんたは結局、知永子には勝てない。あのふたりには、あんたにはけして踏み込めない強い絆があるんだ。互いに血を分けた……母娘の絆がね!!」
「ちくしょう!!」
激昂した知香子は、手近にあったグラスを叩き割る。グラスの破片で傷ついた手から血を流しながら、知永子達の後を追った。
「知永子…あんたは、愛実ちゃんと幸せになるんだよ。そうじゃなかったら…ただじゃ置かないからね……」
フキは、疲れてぐったりとしながら呟く。僅かな期間をひとつ屋根の下で共にした知永子と愛実の幸せを、心から願った。
外に出た知香子は左右に首を振り、知永子と愛実を探す。しかし、ふたりの姿はどこにもなかった。
「どこに、行ったのよ…」
そう呟いた知香子の脇腹に、鋭い痛みが走る。
振り返ると、鼻先の距離まで多英の顔が迫っていた。
「あ、安藤!?あんた…何でここに……!?」
言いながら、自分の脇腹に視線を向ける。多英が握り締めているナイフが、深々と突き刺さっていた。
ふいに、視界が霞み始める。
「…あんたが、悪いのよ。慎治を…あたしの愛する男を……たぶらかしたりするから。あんたなんか…死んでしまえばいいんだわ」
遠くなる意識の中、知香子は多英からの呪詛の言葉を聞いた。
「…ねぇ、おばちゃん……」
「何?」
「あたし達…どこに行くの?」
愛実は、知永子に問いかける。
着の身着のままフキのところから逃げ出したふたりは、新宿発の夜行バスに揺られていた。行き先は、山梨である。
「今から行く山梨はね…おばちゃんのお母さんの故郷なの。おばちゃんも一度行ったことがあるんだけど…とてもいいところだったのよ」
「そこで…あたし達は一緒に暮らすの?」
「…ううん。解らないわ。もしかしたらそこで暮らすかも知れないし、もしかしたらまた別の場所に行くかも知れないわ…」
知永子は、素直に答えた。愛実は、知永子の服の裾をぎゅっと握り締める。
知永子は、愛実の小さな体で手を包み込んだ。
「ねぇ、愛実ちゃん…」
逆に、愛実に問いかける。
「何?」
「愛実ちゃんは…おばちゃんと一緒に来たこと、後悔してる?」
知永子の質問に、愛実は少しの間考え込んでから
「う~ん…解んない」
と答えた。
「…でも、愛実はおばちゃんと一緒に暮らしたいよ。フキママと三人で住んでる時も楽しかったし…あの家にいた時よりも、ずっと良かったもん」
そうつけ加えてきた。
「…ありがとう。そう言ってもらえて、おばちゃん嬉しいわ」
言いながら、知永子は愛実の髪を撫でる。
「…おばちゃんのこと、ママって呼んでもいい?」
愛実は、意を決したように切り出した。愛実の言葉に、知永子は我が耳を疑う。
「…えっ!?」
「だって…おばちゃんが、愛実の本当のママなんでしょう?」
愛実は、知永子の顔を見上げながら聞いてきた。愛実のふたつの瞳には、涙が並々と湛えられている。
「えぇ、そうよ。わたしが…愛実の本当のママなのよ!!」
ついにそう言って、知永子は愛実を抱き締めた。
「ママ!!」
愛実は、知永子の胸にしがみつく。
「たとえ…この先にどんな過酷な運命が待ち受けていたとしても…ママは、愛実のことを離さないわ」
愛実を胸に抱き、知永子は誓った。
夜行バスは山梨を目指し、暗い山道をひた走っている。知永子は、より一層強く愛実を抱き締めた。
〈母娘して肩を寄せ合いながら、知永子はやがて来る夜明けを待ちわびていた。
しかし知永子の切なる願いを嘲笑うかのように、姉妹の因縁は尽き果てることがなかった。〉
数日後、知香子は病室のベッドの上で目を覚ました。
「知香子ちゃん!?起きたのね!」
澄江が、知香子に呼びかける。
「あぁ…良かった……。このまま一生目を覚まさなかったら、どうしようかと思っていたのよ…」
ぽろぽろと涙を溢しながら、澄江は知香子を抱き締めた。
「…ママ?あたし…何でこんなところに……」
ぼんやりとした頭のまま、知香子は問いかける。一体、自分に何が起こったのか解らなかった。
「知香子ちゃん…あなた、刺されたのよ。かなり傷が深かったらしくて、一時は命も危うかったんだから……」
澄江の言葉に、次第知香子の記憶が戻り始める。
そうだ。自分は、路上で多英からの襲撃を受けたのだ。その時、自分は知永子と愛実を追っていた…。
「愛実!!」
全てを思い出した知香子は、声を荒げてベッドから飛び降りる。まだ傷の癒えない脇腹が痛んだ。
「無理をしたら駄目よ!まだ、傷が塞がっていないんだから…」
脇腹を押さえ屈み込んだ知香子を、澄江が宥める。
「愛実は…愛実はどうしたの!?」
知香子は、顔をしかめながら尋ねた。澄江は、無言で首を振る。
知香子は、がっくりとうなだれた。
「…愛実。こんなにも、愛しているのに……」
狂おしい声を漏らす。自然と溢れ出した涙が、頬を濡らした。
「あのふたりには、あんたにはけして踏み込めない強い絆があるんだ。互いに血を分けた……母娘の絆がね!!」
フキの言葉が、知香子の脳裏に蘇る。
つづく




