第50話『執念の炎』
「…そ、そんな…そんな恐ろしいことが!?全く…とんでもない鬼婆がいたもんだねぇ」
事情を聞いたフキは、しみじみと呟きながら愛実を見遣る。
さすがに疲れたのか、愛実は知永子の膝の上で小さな寝息を立てていた。知永子は、愛実の頭を撫でる。
「えぇ。昔から…気性の激しい人ではあったんですけど。まさか、そんなことまでするだなんて……」
「…で、これからどうするつもりなんだい?」
天使のような愛実の寝顔を眺めながら、フキが尋ねた。
「…何にも、決めていません。でも、いても立ってもいられなくて…気がつけばこの店の前に立っていました」
知永子は、言いながら途方に暮れる。まだ幼い愛実を抱え、一体どうすればいいのか解らなかった。
「とりあえず、しばらくはうちにいなよ」
フキは、そう言って知永子の手を握る。
「…えっ!?」
「ここは知っての通り、あたしの独り住まいだろ?広かないけど、あんた達母娘が寝起きするくらいの場所はあるさ」
「本当に…いいんですか?」
知永子は、フキの優しさに言葉を震わせた。
「あぁ。何せあんたは今、職も住むところもないんだ。このままあたしがおん出せば、野垂れ死にが関の山だろう。そんなの寝覚めが悪いじゃないか」
フキは、愛実を見つめたまま言う。
フキの手の甲を、知永子の涙が濡らした。知永子は、フキの手を強く握り返す。
「…本当に、フキママには何から何までお世話してもらって……どんなお礼をすればいいのか…」
そう言って、フキに頭を下げた。
「まあ、乗りかかった船さ。気にしなくていいよ。その代わり…あんたには明日からまた、店に出てもらうからね」
フキが、知永子の顔に視線を寄越す。知永子は、涙を拭いながら頷いた。
「…はい、もちろんです。また、明日からよろしくお願いします」
「よろしく頼むよ。まあ、こんな婆がポツンといるより、あんたがいてくれるだけで、よっぽど華があるからね」
フキは、からからと笑う。
フキの懐の深さに、知永子は言葉では言い尽くせない感謝を感じていた。ふたりは、まるで母娘のように笑い合う。
〈フキの家に身を寄せた知永子突然愛実。共に孤独を抱えた三人での平穏な生活が、訪れようとしていた。
しかし、それは浜辺に築かれた砂の城のように脆く、儚いものだったのである。〉
「君には、本当に感謝するよ」
多英の向かいに座った恰幅のいい男が、封筒を差し出した。多英は軽く会釈して、それをバッグに仕舞い込む。
高級レストランの個室の中、ふたりは例の雑誌を挟んで向かい合っていた。知香子の怒りを買った広告ページが開かれている。
「わたしも、そちらのお力になれて光栄ですわ」
「いやぁ、最近『office C』にはやられっ放しだったからね。あの高慢女の鼻をあかせて…俺も気分がいいよ」
男は、心底愉快そうにグラスを飲み干した。多英は、空になった男のグラスにワインを注ぎ足す。
「えぇ。きっと、いい薬になりますわ。あの人は、人を人とも思わない鬼のような女なんですもの…」
多英は、そう言って笑った。自らも、勝利の美酒に酔う。
『office C』の内部情報を漏らした犯人は、多英だった。慎治に捨てられた腹いせから、多英は同業他者の重役に今回の話を持ちかけたのである。
「それにしても…皮肉な話だが、お宅の社長のセンスは抜群だね。おかげで、凄い反響らしいよ」
「ぜひ、これからもそちらのお力になりたいですわ」
「…ということは、この先もお宅の情報を、売ってくれると言うことかな?」
男は、にやりと笑った。
「えぇ、もちろんですわ」
「そんなことは許さないわ!!」
多英の言葉を遮るように、知香子の怒号が響く。
驚いて振り返った多英の頬が、鋭い音を立てた。知香子が、思い切り多英を殴りつけたのである。
多英は、衝撃で椅子から転げ落ちた。
「しゃ、社長…」
多英は、打たれた頬を押さえながら知香子を見上げる。
「全く…飼い犬に手を噛まれるとは、まさにこのことね。あたしも、見くびられたもんだわ」
言いながら多英の髪を掴み上げ、顔に唾を吐きかけた。
「あんたは、クビよ!!」
多英の耳元でがなり立てる。
知香子の迫力に、多英は力無くその場にくず折れた。
「あんたも…随分と薄汚い真似をしてくれたものね」
多英を見限った知香子は、奥に座って動揺していた男に標的を移す。テーブルの上に腰を滑らせ、おもむろに脚を組んだ。
「…な、何が悪いって言うんだ。この取り引きは、あの女の方から持ちかけて来たんだぞ。社員に不信を抱かれる、お前が悪いんじゃないか…」
男は、上擦った声を絞り出す。
「盗作を…認めるのね」
「…そ、それが何だって言うんだよ!?」
男の言葉に、知香子はにやりと笑った。テーブルの下へと、手を忍ばせる。小さな黒い箱のような物を取り上げた。
「あたしの知り合いと知り合いにあんたの会社の社員がいてね…あんたの動きを探らせていたのよ。ここの店員に金を掴ませて、盗聴器を仕込ませてもらったわ」
「なっ……」
男は、言葉を失う。
「これを公表したら、どうなるかしら。歴史も名誉もある老舗企業が盗作騒動だなんて…とんだ醜聞よね」
知香子は男に顔を寄せ、囁いた。
「な、何が望みなんだ…。大々的に発表してしまったんだ。今さら…なかったことになんて出来ないぞ」
「もちろんよ。あたしだって…今さらあんたの小汚ない手垢にまみれた商品なんて、もう興味はないもの。その代わり…今回はアイディア料を頂かせてもらうことにするわ」
そう言って、男の前に片手を広げて見せる。
「五億よ」
知香子は、きっぱりと言い切った。
「そ、そんな……」
「あら、売り上げを考えたら、けして法外な金額じゃないはずよ。むしろ…由緒ある会社の看板に泥を塗ることを思えば、安い買い物じゃないかしら」
有無を言わせない口調で、じりじりと男を追いつめる。
「よりよい返事を期待してるわね。期限は一週間。一円だって、まけるつもりはないから」
言いながら、知香子はボトルに残っていたワインを男の頭から注いだ。仕立てのいい男のスーツが、赤く染まる。
男が何も言い返せないのを確認してから、知香子は颯爽と個室を出ていった。
「どうだったんだ?」
店の外で知香子を待っていた慎治が、聞いてくる。
「もちろん、上手くいったに決まってるじゃない。一週間後に、五億円がキャッシュで手に入るわ」
知香子は、さらりと答えた。手持ちのバッグから剥き出しの札束を取り出し、慎治に投げ渡す。
「これは、あなたへのお礼よ。気にせず取って置いて」
「俺も…知香子の役に立てて嬉しいよ」
「さすが…ホストクラブの代表の人脈は頼りになるわね。これからも、よろしく頼むわ」
そう言って、目の前に差し出された慎治の手の甲に軽く口づけてやった。
「あぁ。俺はもう…お前の虜だ」
知香子に誓いを立てるように、慎治が呟いた。知香子は、満足そうに笑う。
「何ですって!?」
帰宅した知香子は、玄関で声を張り上げた。おろおろする澄江を、思い切り睨みつける。
「本当にごめんなさい!あたしが…どうかしていたの。すぐに正気に戻って知永子さんの荒ら屋に行ってみたんだけど、もうもぬけの殻で……」
「ふざけないで!!」
言い訳を繰り返す澄江の胸ぐらを、乱暴に掴んだ。澄江は半狂乱になって、謝罪の言葉を繰り返す。ふいに、知香子が力を抜いた。
「…ゆ、許してくれるの!?」
「違うわ。そもそも…あんたなんかを頼ったあたしが馬鹿だったのよ。つくづくと、それを痛感させられたわ」
そう言って、澄江を解放する。
「お願い!それだけは…勘弁してちょうだい。知香子ちゃんに見捨てられたら、もうどうすればいいか解らないわ。あたし…生きてさえいけないのよ。罵ってくれてもいい、それで気が済むなら殴ってくれてもいいわ…。だからお願い、あたしのことを見捨てないでちょうだい!」
譫言のように呟きながら自分にすがりついてくる澄江を、知香子は力任せに跳ね退けた。澄江は、嗚咽しながら玄関先に倒れ込む。
「絶対に…草の根を灼き尽くしてでも、地獄の果てまでだって追いかけてでも、愛実を見つけ出して…取り返して見せるわ。愛実は…あたしだけのものよ!!」
知香子は、激しい執念の炎をたぎらせた瞳で呻いた。
つづく




