第49話『果たされなかった約束』
「何だって!?」
知永子の言葉に、フキは声を裏返らせた。
「いきなり店を辞めたいって…どうしたって言うのさ。せっかく、この店にも馴染んできたって言うのに」
「…はい。フキママには何から何までお世話になっておいて本当に心苦しいんですけど…ここを去ることにしたんです」
知永子は、深々と頭を下げる。
「別に、あたしのことなんかどうでもいいのさ。全部、あたしが勝手にやったことなんだから。それより…近くに住んでるっていう、娘さんのことはいいのかい?そのために、わざわざあんなボロ屋にまで拘っていたんだろうに……」
「実は…そのことで、あそこにはもう住めなくなってしまって……」
知永子は、フキに事の成り行きを説明した。知永子の話に、フキは黙って耳を傾ける。
「…そんなことが、あっただなんて……」
全てを聞き終えたフキは、溜め息をついた。
「あんたは、つくづく辛い運命の元に生まれて来たんだね…可哀想に……」
「いえ…全ては自分が招いたことなんです」
知永子は、かぶりを振る。
「本当に…短い間でしたけど、お世話になりました」
そう言って、再び頭を下げた。
「そんな…止めとくれよ。あたしゃ、湿っぽいのは苦手なんだからさ」
フキは、ひらひらと手を振りながら言った。
「でも…あんたがいなくなると、この店もまた寂しくなっちまうねぇ……」
天井を見上げながら、ひとりごとのように呟く。開店前の店内を、重い空気が包んだ。
「じゃあ、ママはもうこれからお仕事に行くけど…おばあちゃんと、ちゃんとお留守番していてね」
日曜日、玄関先に立った知香子は、愛実と澄江からの見送りを受けている。
「うん…。お夕飯までには帰って来れる?」
愛実は、知香子に向かって問いかけた。
「えぇ、愛実のために頑張って早めに仕事を終わらせるから。愛実の好きなショートケーキを、お土産に買ってきてあげるわ」
知香子は、愛実の髪を撫でながら笑う。愛実は、無邪気に喜んだ。
「わぁい。絶対に、お約束よ」
そう言って、愛実は指切りをせがむ。知香子は、愛実の細い小指に自らの小指を絡ませた。
「ママにもお願いするわね。きちんと、愛実の面倒を見てやってちょうだい」
愛実の後ろに控えていた澄江に託ける。
「え、えぇ…もちろんよ。ねぇ、愛実はお利口にしていられるわよね?」
知香子からの無言の圧力に、澄江は凝縮しながら愛実に同意を求めた。しかし、愛実は澄江の言葉を無視して、知香子に手を振る。
「ママ、行ってらっしゃい」
「えぇ。行ってくるわね」
愛実に手を振り返して、知香子は家を出る。知香子を見送った愛実は、その場から逃げ去るように澄江に背を向けた。
「ねぇ愛実、おやつは何がいいかしら」
猫撫で声で機嫌を伺う澄江を一瞥だけして、階段を駆け上がって行く。そのまま、自分の部屋のドアを開けた閉じてしまった。
「…本当に、可愛いげのない娘。日に日に母親に似ていくわね。やっぱり……血は争えないんだわ」
愛実が昇った階段を見上げ、澄江は苦々しげに呟く。
「社長、大変です!!」
仕事を終え、帰り支度をしていた知香子の元に、血相を変えた重田が転がり込んできた。
「何よ、騒々しいわね。今日は、娘との約束があるのよ。悪いけど、仕事は明日にしてくれないかしら」
「それどころじゃありません!これを見て下さい!!」
知香子の言葉を振り切り、重田は手に持っていた雑誌を広げる。知香子に見せつけた。
「…一体、何だって言うのよ」
重田の剣幕に押され、渋々雑誌に目を落とした知香子は愕然とする。思わず重田から雑誌をもぎ取った。
それは、他社から発売されるコスメの新商品の広告ページだった。もちろん、驚いたのはそこにではない。
それか、知香子が現在発表を目前に控えていた新商品とパッケージからコンセプトまで瓜ふたつのものだったからだ。社員の誰かが、内部情報を漏らしたとしか考えられない。
「…どういうことなの」
ようやくと、そう口にした。
知香子は雑誌を握り締めたまま、怒りに打ち震える。大きく舌打ちをした。
「愛実、早くお夕飯食べちゃいなさい!」
澄江は言うことを聞かない愛実に、思わず声を荒げる。
「嫌だ!ママが帰ってくるまでは待ってるの!」
しかし、愛実はきっぱりと言い返した。
「だから…急なお仕事が入っちゃって帰りが遅くなるって、ママからお電話があったの。何度も言っているでしょう」
「…だって、ちゃんとお約束したのに。一緒に、お夕飯食べようって……」
「ママはお電話で謝っていたわ。今度こそ、絶対に守るからって……」
「そんなこと言って…ママはいっつもお仕事じゃない!もう二度と…お約束なんてしないんだから!」
愛実は、頬を膨らませてぷいと顔を背ける。
澄江は、粟立ちそうになる気持ちをぐっと堪えた。
「…お願いだから、ちゃんと言うことを聞いてちょうだい。愛実が悪い子にしていたら、ママから叱られるのはおばあちゃんなのよ」
「そんなの知らない。…悪いのは、お約束を破ったママじゃない!」
頑なな愛実の態度に、澄江の中の何かが壊れる。
「ちゃんと言うことを聞きなさい!!」
突然、叫び出した。
「口を開けば憎まれ口ばっかり…。愛実は、本当に悪い子ね。そんな悪いお口は…切り取ってしまえばいいんだわ」
言いながらキッチンに姿を消し、包丁を手に戻ってくる。怯える愛実に、包丁を突きつけた。
「ほら、口を出してご覧なさい。おばあちゃんが、愛実の態度にお口を直してあげるわ」
常軌を逸した瞳で、愛実に問いかける。愛実はきっぱりと小さな悲鳴を上げ、裸足のまま外へと逃げて行った。乾いた澄江の笑い声が、室内に響く。
引っ越しを翌日に控えた知永子は、更にがらんとしたその部屋で最後の夜を過ごしていた。
愛実との日々に、思いを馳せる。ほんの僅かな期間だったが、その輝かしい思い出を胸に、残りの人生を生きていこうと心に決めていた。
その時、玄関のドアがノックされる。
最後にフキが会いに来てくれたのかと思いドアを開けた知永子は、いきなり愛実から抱きつかれた。もう二度と会えないと諦めていた愛実とのとつぜんの再会に、知永子は戸惑う。
「愛実ちゃん…どうしてここに?」
「もう嫌!あんな家になんていたくないよ…。愛実、おばちゃんと一緒に暮らしたい!!」
知永子の胸にしがみつき、愛実は泣きじゃくった。涙で顔に貼りついた柔らかい髪を撫でながら、知永子は愛実をひしと抱き締める。
〈果たして、愛実に何があったのかは解らなかったが、知永子はその胸に誓った。たとえこの先にどんな辛い試練が待ち受けていようと、愛実の傍で生きていこうと。
愛する娘を巡るふたりの母の争いは、こうしてだんだんと激化していくのであった。〉
「悪いけど、今日はもう暖簾なんだ。帰っておくれ」
流しで洗い物をしていたフキは、目線を下げたまま言った。
「フキママ…」
その声に、驚いて顔を上げる。
案の定、そこには知永子が立っていた。脇に、小学生くらいの女児を連れている。
「…一体、どうしたって言うんだよ……」
いつも以上に思い詰めた表情の知永子に、フキが問いかけた。
つづく




