第48話『ふたりの母』
「どういうこと!?とても、納得出来ないわ!」
多英は、思わず声を荒げる。
慎治に呼びつけられた喫茶店で、突然別れを切り出されたのだ。多英は、慎治にしがみつく。
「ねぇ、きちんと説明してちょうだい。いきなり別れたいだなんて…一体、何があったって言うの?」
涙混じりで懇願した。慎治は、多英の腕を振り払う。
「済まない…。でも…俺はもう、お前とは付き合えない」
「…社長。社長ね、そうなんでしょう?」
思い当たったように、多英が呟いた。
「あぁ…」
「あんな…獰猛な牝ライオンみたいな女に、本気で惚れたとでも言うつもり?」
多英は、尚も慎治にすがりつこうと手を伸ばす。慎治は、つれなくそれを交わした。
「違うよ。あの女は、そんなタマじゃない」
「じゃあ…じゃあ、どうして!?」
「…俺はあの女に会って生まれて初めて……自分よりも恐ろしい人間を知った。あの女の瞳に宿る執念の炎に、すっかりと灼かれてしまったんだ……」
慎治の言葉の意味が、多英には理解出来ない。
「……解らないわ。あたしには、慎治の言っていることが…少しも解らない」
慎治は笑った。
「そういうことだよ。多英と俺達とでは、所詮違う世界に生きているんだ」
言いながら、席を立つ。
「…とにかく、俺は見つけたんだよ。この世で唯一尊敬出来る…黒い太陽をな」
そう言って、喫茶店から姿を消してしまった。
「慎治…慎治ぃ~……」
ひとり残された多英は、慎治が口もつけなかったコーヒーの漆黒を眺めながら呟く。慎治の心を奪った、知香子に対する憎しみが渦巻いた。
「愛実、いい加減に出て来てちょうだい。ずっと部屋に籠りっ放しじゃあ…体を壊すわよ」
閉められたドアを隔て、知香子は愛実に話しかける。愛実からの返事はなかった。
「愛実…いるんでしょう?お願いだから、ママの話を聞いてちょうだい」
言いながら、ドアノブに手をかける。しかし、ドアに鍵はかかっていなかった。
「…愛実!?いい?開けるわよ」
言うが早いか、知香子はドアを開ける。
そこに、愛実の姿はなかった。知香子は、慌てて部屋に入る。
「愛実…どこにいるの!?愛実…ねぇ、愛実ったら!!」
半狂乱になって部屋中を漁った。しかしベッドの下にもクローゼットの奥にも、愛実の姿は見当たらない。
部屋は、もぬけの殻だった。
「お姉ちゃんね…。あんなにきつく言っておいたのに…絶対に許さない!…許さないわ!!」
知香子は、愛実の部屋の窓から見える知永子のアパートを睨み呻く。何度も、足で床を踏み鳴らした。
部屋の整理をしていた知永子は、チャイムの音に作業の手を止めた。
最近、ろくな訪問者がいない。知永子は、警戒しながらドアを開けた。
「…ま、愛実ちゃん!?」
玄関の前には、愛実が立っている。
「…おばあちゃんが言ってたわ。愛実の…本当のママはおばちゃんだって…本当なの?」
真っ直ぐに知永子を見上げ、問いかけてきた。
「…そ、それは……」
「ねぇ、教えてよ!おばちゃんは、愛実のママなの!?」
愛実は知永子にしがみつき、知永子の体を揺さぶる。
知永子は、何も言えなかった。一度口を開いてしまえば、全てを暴露してしまいそうな自分が怖かったのである。
「違うわ!!」
ふたりの背後から、知香子が叫んだ。髪を振り乱し、息を切らせた知香子の修羅のような形相に、思わず愛実は知永子の影に身を隠す。
「そのおばちゃんは…愛実のママなんかじゃないわ。愛実のママはあたし…世界でただひとり、このあたしだけなのよ!!」
言いながら、知香子は愛実の前まで駆け寄った。
「さあ、帰るわよ」
愛実の腕を掴んでは、強引に引っ張る。
「痛い…痛いよ、ママ。離して……」
「知香子!止めてちょうだい。愛実ちゃんが、痛がっているじゃない!」
「うるさいわね!あんたは、引っ込んでいなさいよ!!」
知香子を制止しようとふたりの間に入った知永子を、知香子が突き飛ばした。知永子は、玄関先に倒れ込む。
「元はと言えば…全てあんたが悪いのよ。あんたが、ストーカーみたいに愛実の周りをちょろちょろと彷徨いたりするから。あんたなんか…死んでしまえばいいんだわ」
知香子は、そう言って知永子の首に手をかけた。
「…いっそのこと……あたしが殺してあげるわ」
「ママ!止めて!!そんなことしたら、おばちゃんが死んじゃうじゃない!」
愛実は、知香子にしがみつく。しかし愛実の細い腕で、荒れ狂う知香子を止められるはずもなかった。
「こんな女…死んで同然なのよ。いつもいつも…あたしの大事な人を掠め取っていく、薄汚い泥棒猫なんだから……」
そう言って、徐々に知永子を首を締め上げていく。
「愛実、ちゃんとお家に帰るから。ママの言うこと、ちゃんと守るから…。だから、おばちゃんのことを許してあげて…。殺したりなんかしないで!」
愛実は知香子の背中にしがみついたまま、泣きながらせがんだ。ふいに、知永子の首を締めつけていた力が緩まる。
「ふんっ。愛実のおかげで、命拾いしたわね。あの娘がいなかったら…容赦していなかったわ」
知香子は、そう吐き捨てて愛実の手を握った。
「さあ愛実、帰るわよ」
愛実の腕を引いて、その場から立ち去る。
後ろ髪を引かれたように何度も振り返る愛実の顔を、知永子はただ見送ることしか出来なかった。
「愛実…愛実……」
視界から消えた愛実の名前を、譫言のように繰り返す。
〈知永子は、愛実に対する知香子の思いの激しさに圧倒されていた。そう言った意味では、知香子もまた愛実の母親に違いないのかも知れない。
産みの母と育ての母、愛実にはふたりの母がいた。〉
「…ママ、本当のことを教えてちょうだい」
家に連れ帰られた愛実は、知香子に問いかけた。真っ直ぐな愛実の眼差しに、知香子は決意を固める。
「えぇ…そうね。愛実に告げるのはまだ早いと思っていたけれど…ここまできたら、話さないわけにはいかないわよね」
知香子は、そこまで言ってひと息ついた。
「…確かに、愛実のことを産んだのは…あのおばちゃんよ」
「やっぱり…。何で…おばちゃんは愛実のことを育ててくれなかったの?おばちゃんは…愛実のことが嫌いだったの?」
愛実は、不安げに尋ねる。知香子は、微笑みながらかぶりを振った。
「…ううん。まさか、そんなことあるわけがないじゃないの。あのおばちゃんはね…愛実を産んだ時に、どうしても愛実とは一緒にいられない事情があったの。それで……ママが愛実を引き取って、育てることになったのよ」
言いながら、乱れた愛実の髪を撫でとかしてやる。
「…でも、ママはもう愛実がいないと生きていけないの。愛実は……ずっとママの傍にいてくれるでしょう?」
知香子は、愛実を抱き締めそう続けた。
「う、うん…」
知香子の迫力に押されたように、愛実は頷く。
「ありがとう。ママ、嬉しいわ。愛実は…いくつになってもママの娘よ。ママだけの娘なんだから……」
愛実に言い聞かせるように、知香子は言い募る。
つづく




