第42話『初めての会話』
「お嬢ちゃん、どうしたの?」
倉内家の近くに越してきてから一週間。
知永子は、ついに愛実に話しかける。最初のうちは遠目から眺めているだけで満足だったのに、徐々に近くまで足を運ぶようになり、今日はとうとう声までかけてしまった。
「…おばあちゃんが、お家にいないの。愛実、鍵を持ってないから待ってるの…」
玄関の前で座り込んでいた愛実は、知永子を見上げ答えた。
初めて至近距離で見る愛実の顔に、知永子は言葉に出来ない感動を覚える。
輪郭と鼻すじには、確かに和彦の面影があった。目元は、自分に似ているだろうか。ついつい、そんなことを考えてしまう。
自分の顔を凝視する中年女性を気味悪がったのか、愛実は立ち上がり、その場から立ち去ろうとした。
「お、お嬢ちゃん。ママは…ママはいないの?」
慌てて、愛実に問いかける。
「…ママは、お仕事が忙しいから、夜遅くにならないと帰って来ないの。愛実のお家にはパパがいないから…ママがいっぱい頑張ってるの……」
知香子の話題を振られ、母恋しさが募ったのか、愛実の瞳が潤んだ。
知永子は、自らも涙ぐみそうになるのをぐっと堪える。今すぐにでも、愛実を抱き締めてやりたかった。しかし、それはけして叶わない願いだった。
「そう…。じゃあ、おばあちゃんが帰ってくるまで、おばちゃんのお家に行かない?」
「えっ…でも……」
愛実は、知永子に対して疑惑の目を向けてくる。
「大丈夫よ。おばちゃんは、とっても近くに住んでるの。おばあちゃんが帰ってきたらすぐに解るから、心配はいらないわ」
愛実の疑念を解すように、丁寧に説得した。
「それに…ここにずっといたら喉も渇くだろうし、お腹も空いちゃうでしょう?ケーキ、食べたくない?」
「食べたいけど…ママにはいつも、知らない人には着いて行っちゃ駄目って言われてるから……」
「そう…。そうよね。ごめんなさいね。じゃあ…」
これ以上誘うのは、得策ではない。そう判断した知永子は、話を切り上げた。
「バイバイ。おばちゃん」
そう言って手を振る愛実に見送られ、知永子は身を切られるような思いでその場を後にする。しかし、知永子の胸には初めて愛実と言葉を交わせた感動に満ちていた。
〈日に日に昂まる、愛実への思い。知永子は、いつかその感情に押し流されてしまいそうになる自分を恐れていた。
しかし、愛実に触れたい。そして、この手で愛実を抱き締めてやりたいという衝動は、知永子の体を突き破り、溢れ出しそうなほどに募っていた。〉
「澄江さん、いらっしゃい!会いたかったよ」
ホスト達の甘い囁きが、澄江を出迎えた。澄江は、彼らに抱き抱えられるようにして、席まで案内される。
あの夜、生まれて初めて夜の盛り場を経験した澄江は、すっかりその魅力に嵌まり込んでしまった。吸い寄せられるようにして入ったここ『キングダム』には、あれからほぼ毎日入り浸っている。
ここに来れば、澄江はそれこそ女王様のような扱いを受けることが出来た。一度その恍惚を味わってしまうと、知香子からどんな叱責を受けようと、ついつい足が向いてしまう。
浩二郎の死から十年、久しぶりに女に目覚めた澄江は、完全にたがが外れた状態だった。
「寂しかったよ。澄江さん」
澄江のお気に入りホストである龍牙が、澄江に甘えて見せる。
澄江の髪を、細く伸びた自らの指に絡ませた。その手首に光る腕時計は、澄江が先日、彼に買い与えたものである。
「あたしも、会いたかったわ…」
澄江は、龍牙にしなだれかかった。
「ボトル、昨日で飲み切っちゃったけど、どうする?」
龍牙は、空になったブランデーのボトルを持ち上げて振った。追加ボトルの催促である。
「何言ってるのよ。新しいボトルを入れてちょうだい。龍牙くんが、好きなお酒でいいわ」
支払いは全て、知香子名義のカードだ。澄江は、龍牙から肩を抱かれたまま言った。
「ママ、愛実を放ったらかしにして…一体何をやっているのよ!!」
その時、澄江はふいに背後から声をかけられる。
自分でも、血の気が引いていくのが解った。澄江は、恐る恐る後ろを振り返る。そこには案の定、鬼のような形相の知香子が立っていた。
「ち、知香子ちゃん…」
澄江は、声を震わせる。
「さあ、立ちなさい!」
知香子は、強引に澄江の腕を取り立ち上がらせた。
「最近、ママの様子がおかしかったから…社員にママの行動を見張らせていたのよ。信じたくなかったわ。ママが、こんな…色情狂の遣り手婆みたいな恥知らずなことしているだなんてね」
知香子は、澄江の頬を思い切り張る。澄江は、ソファに倒れ込んだ。
「ま、まぁ…落ち着きなよ。澄江さんだって……」
「うるさいわね。あんたは黙ってなさい!!」
ふたりの仲裁に入ろうとした龍牙を、知香子は突き飛ばす。
「てめえ、いきなり何すんだよ!」
龍牙は立ち上がり知香子に掴みかかろうとしたが、所詮知香子の敵ではなかった。
知香子は無表情のまま、龍牙の股間を蹴り上げる。龍牙は股間を押さえながら、その場にへたり込んだ。
「色狂いの婆をたらし込むしか脳のない三流の男妾は、引っ込んでてちょうだい!」
知香子は龍牙のネクタイをねじ上げ、強引に持ち上げる。
「な、何だと…」
「ママがあんたにいくらつぎ込んだのかは知らないし、それを返せなんてケチ臭いことは言わないわ。その代わり…金輪際、ママには近づかない子とね。もし、今度ママに近づいたりしたら…」
言いながら、知香子はアイスペールの中にあったアイスピックを思い切り龍牙の太ももに突き立てた。近くにいた客の女が、悲鳴を上げる。
「足なんかじゃ済まさないわよ。あんたのご自慢のその顔に…たっぷりとぶち込んであげるわ」
血のついたアイスピックに舌を這わせながら、にっこりと笑った。
あまりの迫力に、『キングダム』は静まり返る。
「ママ、帰るわよ」
知香子は泣きじゃくる澄江を強引に引き摺り、出口へと向かった。知香子の進路は人が避け、自然と道になる。
「迷惑かけたわね」
そう言って、帰り際に帯封がついたままの札束を放り投げた。
「あの女…なかなかやるじゃん」
店の奥で一部始終を目撃していた慎治が、そう言って口笛を吹く。
仕事を終え帰宅した知永子は、毎日の日課として倉内家を眺めた。明かりは全て消えていて、ひっそりと静まり帰っている。
時刻は、もうすでに一時を過ぎていた。
愛実は今、どんな夢を見ているのだろうか。先日、生まれて初めて言葉を交わした愛実に思いを馳せる。
この声が、けして愛実に届かないことは解っていた。しかし、呟かずにはいられない。
「愛実、おやすみなさい…」
知永子は、そう言って窓を閉めた。ろくな家具もない、小さな四畳半の擦り切れた畳の上で、知永子は膝を抱えすすり泣く。
つづく




