第39話『再会の春』
平成二十年四月ー
知永子がここに来てから、十回目の春が訪れていた。
「今年も、桜が咲いたわね…」
刑務所の塀の中に植えられた桜の木を見上げながら、知永子は呟く。桜の花は今まさに盛りを迎え、満開に咲き誇っている。
「何感傷に浸っているのよ。あんた、もうすぐここからおさらばでしょ?そうなったら…桜なんて、いくらだって見られるじゃない」
作業の手を止めて桜を眺めていた知永子を、同部屋の女がからかった。
「そうね…。その日が、待ち遠しくて仕方がないわ。やっと…娘に会えるんですもの」
「そうか…あんたは、そう言えば塀の中で娘を産んだんだったね。いくつになるんだっけ?」
女が問いかけてくる。
「…もうすぐで、九才になるわ 」
知永子は、指折りながら答えた。
「九才か…」
知永子の返答に、女は表情を曇らせる。小さな溜め息をついた。
「どうかしたの?」
「…そろそろ自我も芽生えてくる頃だろうし、いきなり受け入れてくれるって言うのは、難しいかも知れないよ」
知永子は笑う。
「大丈夫よ。娘は、妹が引き取って育ててくれているんだもの。きちんと、説明してくれているはずよ」
「…妹ねぇ」
「えぇ。わたし達は、固い絆で結ばれた永遠の姉妹なの」
知永子はきっぱりと言い切ったが、女の表情は尚も晴れない。
「まあ、だったらいいんだけど…。でも、変な期待をしちゃいけないよ。塀の外は、あんたが思っている以上に厳しいんだから。事情はどうあれ、あんたは前科者なんだよ」
浮かれる知永子を諭すように、女は言った。女の言葉には、妙な説得力がある。
「愛実…大丈夫よね」
満開の桜を再び見遣り、知永子はまだ見ぬ愛実に向かって囁いた。
〈知永子は、ついに出所の時を迎えようとしていた。しかし、それは同時に姉妹の新たなる争いの始まりをも意味していたのである。
途切れることのない複雑に絡まり合った姉妹の因縁は、終わりを知らなかった。〉
「社長、お電話です」
社長室で打ち合わせをしていた知香子に、秘書の安藤多英が声をかける。
「今ここを抜けられないの。あなたが、受けておいてちょうだい」
知香子は、そう言って多英に向かって手を振った。多英は、頭を下げて部屋を出る。
知香子が手がけている新しいプロジェクトが、現在大詰めを迎えていた。そのため、知香子は忙しい毎日を送っている。
一時は滝に乗っ取られた会社を、知香子が引き継いでから早十年。倉内コーポレーションは、大きな変化を遂げていた。社名も『office C』に変わり、女性をターゲットにした美容関連の商品を、数多く取り扱っている。
美容業界の寵児として知香子がメディアに露出することも、今ではけして珍しいことではなかった。
「さすが、知香子社長!今回の商品も、大ヒット間違いなしですよ」
広告代理店の社員が、知香子のアイディアを褒めそやす。
「お世辞はいいから、仕事で結果を出してちょうだい。今回のプロジェクトの成功は、いかに上手く広告ビジュアルを打ち出すかにかかっているのよ」
知香子は、社員からの世辞をさらりと受け流した。
「はい、もちろんです。今回の商品にぴったりのモデルをご用意しております」
社員は、言いながら宣材写真のファイルを知香子へと差し出す。知香子はそれを一瞥し、突き返した。
「駄目よ。この子じゃ、綺麗過ぎるわ。あなた、何も解っていないのね」
きっぱりと言い放つ。
「…と、言いますと?」
「今回のコンセプトは、誰もがプリンセスになれるコスメなの。最初から綺麗なモデルを使っても、説得力がないじゃない。もっと平凡で、親近感のある子がいいわ。そうね…読者モデルなんかどうかしら?」
「しかし…化粧品の広告モデルに素人を起用すると言うのは…」
知香子の提案に、社員は言葉を濁した。
「違うわ。読者モデルよ。あたし自身も時々雑誌に載せてもらっているからこそ解るんだけど、消費者にとって、彼女達は身近な憧れの対象なの。端っから遠い存在でしかないプロのモデルよりも、よっぽどアピール能力が高いわ。もちろん、ギャラだってだいぶ安く押さえられるし…」
「確かに費用対効果を考えても、今回はその方がベターかも知れませんね」
宣材写真のファイルを眺めながら電卓を叩いていた知香子の片腕である重田いづみが、口を挟んでくる。
「それはそうですが…」
「この先、彼女達自らに商品のプロデュースを任せてみても面白いかもね。きっと…そこら辺の社員なんかよりもずっと、興味深い発想をしてくれるわ」
知香子の勢いに、社員が押し黙る。
「とにかく…あと三日くらいのうちに、原石になりそうな子を、何人か見繕っておいてちょうだい。いいわね!」
有無を言わせない口調で、知香子は言った。追いつめられた社員には、了承の言葉しか残されていない。
「社長、お疲れ様です」
言いながら、多英が知香子にティーカップを差し出した。
「ありがとう…」
知香子は、そう言ってひと口含む。
「…レモンバームね」
「はい。最近、社長はだいぶお疲れのようなので、アップルミントとブレンドしてみました。お口に合いましたでしょうか」
「えぇ。とっても…美味しいわ。あなたは、本当に気が利くわね。あの代理店の馬鹿に…爪の垢でも分けてやって欲しいものだわ」
唇の端を歪めながら、知香子は言った。
「いえ、滅相もございません。ただ…社長はご自分にも周りにも、完璧を求め過ぎるところがございます。もう少し、肩の力をお抜きになってもよろしいのでは?」
「…そうかも知れないわね。でも、あたしは何事も徹底的にやらないと気が済まない性格みたいなの。自分でも、時に疲れて仕様がないわ…」
知香子は、そう言って笑った。
「それより…さっきの電話は誰からだったの?」
「それが…」
多英は、声を潜めて知香子に耳打ちする。知香子の顔色が変わった。
「そう…。ついにこの時が、やって来たのね」
そうひとりごちる。知香子の瞳に、修羅の色が宿った。
「もう二度と、こんな所に戻って来たりするんじゃないよ」
「はい。長い間、お世話になりました」
知永子は、見送りの言葉をかけた刑務官に深々と頭を下げる。小さな紙袋を掲げ、刑務所の門を後にした。
深呼吸をして、胸いっぱいに空気を吸い込む。久しぶりに味わう塀の外は、春の陽気に満ちていた。
「これでやっと…愛実に会えるのね」
歩きながら呟く。知永子は、愛実に再会する瞬間を想像していた。
「久しぶりね、お姉ちゃん」
ふいに、背後から呼び止められる。振り返ると、知香子が立っていた。
「知香子!!わざわざ迎えに来てくれたのね」
知永子は、知香子の元へと駆け寄る。
「知香子…ますます綺麗になったみたい。女に、磨きがかかっているわ。さすが…美容会社の女社長は違うのね。わたしとは、大違いだわ」
知香子と自分を見比べながら、自虐的に笑った。
「そんなことないわよ。お姉ちゃんだって…まだまだ磨けば光るわ。それより、お姉ちゃんに話があるの…」
「えぇ。解っているわ、愛実のことでしょう?」
「えぇ。お姉ちゃんには悪いんだけど…愛実にはこの先一生、近づかないで欲しいの」
知香子は、真顔で言う。青天の霹靂に、知永子の表情が凍りついた。
「ど、どういうことなの!?」
知永子は、知香子の両肩を掴む。それを、強く揺さぶった。しかし、知香子は無表情のままである。
〈こうして、姉妹は十年ぶりに顔を合わせた。
愛実を巡る姉妹の争いは、早くも口火を切ったのである。〉
つづく




