第37話『受け継がれた命』
「あ、あいつが…あいつが悪いんだ。知香子を…裏切ったりするから……」
仁は、おろおろしながら言った。
「…許さない」
知永子は、そう言って和彦の腹部に刺さっていたナイフを引き抜く。血まみれになったナイフを握り締め、仁に踊りかかって行った。
「や、止めろ…」
仁は、しっかりと知永子の手首を掴む。
しかし、知永子も負けてはいなかった。徐々に、ナイフの切っ先が仁へと近づいていく。
「許さない…。和彦に…和彦に何てことを。…あなたも、今この場で殺してやるわ!」
言いながら、知永子は更に力を強めた。和彦の血にまみれ、まさに鬼の形相で仁を睨む。
「お、お願いだ…許してくれ…。俺も、本当にあいつを殺すつもりなんてなかったんだ……」
「絶対に許さない!和彦を殺めた報いを、受けるがいいわ!!」
仁は涙ながらに懇願したが、知香子はそう叫びながら渾身の力でナイフを押し出した。ナイフが肉の中にめり込んでいく、嫌な感触が掌から伝わってくる。
ふいに、仁の手から力が抜けた。そのまま、ゆっくりと仰向けに倒れ込む。
知永子は仁の体に馬乗りになって、尚もナイフを振り下ろした。何度も繰り返す。
甲高い女の悲鳴がして、やがて遠くからパトカーの音が聞こえた。
この日のために誂えた仕立てのいい黒のパンツスーツに身を包んだ知香子は、会議室の前で大きく深呼吸した。それから、ドアを開ける。
会議室に揃った役員達の視線が、一斉に知香子へと注がれた。知香子は背すじを伸ばしながら、その視線の中を進んで行く。
「皆様、初めまして。この度、倉内コーポレーションの代表取締役に就任致しました、倉内知香子です」
正面に立った知香子は、そう言って深々と頭を下げた。
突然の発表に、役員達の間からざわめきが起こる。
「…社長は、つい最近滝さんに変わったばかりじゃ……」
知香子の目の前に座っていた男が、口を挟んできた。
「滝さんには、これからは専務として勤めて頂きます」
知香子は、滝に向かってにっこりと微笑みかける。滝は、苦虫を噛み潰したような表情で押し黙ったままだ。
ざわめきが、より一層広がっていく。
「…いきなりの社長交代に、皆様が不安を感じるのも致し方のないことだとは思います。ただ…私は亡き父の遺志を引き継ぎ、この倉内コーポレーションのより一層の発展に、この身を捧げていきたいと考えております。どうか皆様方のお力を、若輩者の私にお貸し頂けませんでしょうか」
役員ひとりひとりの顔を順繰りに見回しながら、知香子は熱く語った。知香子の迫力に押されたように、まばらな拍手が起こる。
知香子は、勝ち誇ったように笑った。
すんなりと歓迎されないことは、端から解っている。まばらな拍手だとしても、もらえるだけ上出来だ。
後は、自らの力でその輪を押し広げていけばいい。
その時、再びドアが開いた。会社の会議室にはおよそ相応しくない、制服姿の少女が立っている。
少女は、ゆっくりと室内に足を踏み入れてきた。
滝は、はっとする。あの時の少女に、間違いなかった。
当然のように滝の元へと歩み寄り、少女は、こう言った。
「…あたし、このおじさんに売春を強要されました。強引にラブホテルに連れ込まれて…それで……」
滝を指差し、涙混じりに訴える。
「な、何を…!?」
滝は、思わず立ち上がった。室内のざわめきが、最高潮に高まる。
「ありがとう。なかなかの名演技だったわ」
会社近くの喫茶店で少女と待ち合わせた知香子は、そう言って封筒を手渡した。中には、十万円ほど入っている。
「ちょっと緊張したけど…何か、楽しかったわ」
少女は封筒の中味を確認しながら、ペロリと舌を出した。
全ては、あの会社から滝を追いやるために知香子が企てた策略だったのである。
「でも…あのおじさんって、やっぱりクビになっちゃうわけ?」
「そうね。役員達全員の前で、未成年への売春強要が発覚したんだもの…それは免れないわ」
「そっかぁ…」
少女が、溜め息をついた。
「何?まさか、あの男に同情でもしてるって言うの?」
知香子は、嘲るような口調で言った。
「…別に、そんなわけじゃないけど。ただ…本当はホテル行って寝ちゃっただけなのに…ちょっとやり過ぎな感じがしたの」
「いい?覚えておきなさい」
少女の言葉を遮るように、知香子が言葉を強める。少女が、驚いて目を見開いた。
「本当に欲しいものを手に入れるためには、徹底的にやらなきゃいけないの。ほんの少しでも情けをかけたりしたら、絶対に後で寝首をかかれるわ。相手の息の根が止まるまで…追い詰めてやるのよ」
鬼気迫る知香子の表情に、少女の顔が蒼醒める。
静まり返ったふたりの耳に、ニュース番組のキャスターの声が入ってきた。
「昨夜未明、東京都港区の路上で、傷害致死事件が発生しました。現在判明しているところによりますと、死亡したのは荒井仁さん三十才、伊原和彦さん二十九才のふたりで、警察は同現場にいた女性が詳しい事情を知っているものと見て、女性から話を聞いている模様です」
「何ですって!?」
和彦の名前に気が動転した知香子は、思わずテレビに向かって叫ぶ。しかし、画面に映し出された写真は、確かに和彦と仁のものだった。
知永子は、取調室の中にいた。昨夜から、取り調べを受けている。
「…で、あんたは仕返しに相手の男を刺し殺したってわけね」
知永子の向かいに座った刑事は、知永子に確認した。
知永子は、力なく頷く。目の前のことに、全く現実味がない。まるで、悪い夢でも見続けているようだった。
「あの男が…わたしの目の前で和彦を……」
知永子は、譫言のように呟く。両手で顔を覆い、言葉を詰まらせながら泣いた。
「まあ、あんたの心情も解らなくはないけど…」
刑事は、言いながら仁の死に様を思い出す。今思い返してみても、寒気がした。
仁は、まさにめった刺しの状態で殺されていた。
とても今自分の目の前にいる、このか細い女が行った犯行とは信じられない。しかし、目撃証言や現場に残った状況証拠も彼女の自供を裏づけていた。
刑事は、溜め息をつく。
「…全く、女って生き物は見かけじゃ解らないもんだな。本当に…恐ろしいよ」
ひとり呟いた。
ふいにこの世の終わりのように泣いていた知永子が、口元を押さえる。吐き気を催しているのか、その場にしゃがみ込んで苦し気に咳き込んだ。
「おい、どうしたんだ!?」
驚いた刑事は知永子の背中を擦ったが、知永子の吐き気はいっこうに収まらない。
「あんた、まさか…」
ふと思い当たった刑事が呟く。知永子は、無意識に自らの腹部へと手を当てた。
〈この時、知永子は和彦の子供を身籠っていた。死んだ和彦の命は、知永子の子宮を通してこの世に受け継がれたのである。
しかしこの運命の子供こそが、姉妹の骨肉の争いの最大の火種になるのであった。〉
つづく




