第35話『母の反対』
「和彦、どうしたの?」
知永子は、半分以上も夕食を残した和彦に問いかける。
「あの日以来、何か様子がおかしいわよ」
「いや…最近夏バテらしくて、食欲がないだけだよ」
和彦は笑ってごまかしたが、それだけではないことは明らかだった。
「…そう?なら別にいいんだけど。何か悩みごとがあったら、ちゃんと打ち明けてね」
「あぁ…」
和彦は、そう言って黙り込んでしまう。それ以上、彼にかけるべき言葉が見つからない知永子は、和彦の俯き顔をただ見つめた。
気まずい沈黙が、ふたりを包む。
〈和彦は苦しんでいた。知永子との結婚を決めた矢先に発覚した知香子の妊娠。
しかし、和彦のその優柔不断さこそが、姉妹の愛憎劇の元凶なのである。〉
「ママ、体調はどう?」
知香子は、出勤前に澄江が入院している病院へと出向いていた。
「あぁ…、知香子ちゃん」
知香子からの問いかけに、澄江は力なく答える。ベッドの上にいる母は、ひと回りもふた回りも小さく見えた。
「何、気の抜けた声を出してるのよ。ママらしくもない。もっと元気を出しなさいよ」
知香子は、澄江の肩を揺する。
「…だって、これからあたしはどうやって生活していけばいいって言うのよ。倉内が代々引き継いできたあの家まで奪われて……もう、どうすればいいのか解らないわ」
澄江は、そう言ってさめざめと泣いた。
滝の裏切り以来、澄江は一気に弱くなった。態度にも言葉にも、今までの高慢さが見受けられない。
「心配しなくていいわ」
澄江の顔を見据え、知香子はにんまりと笑った。
「…えっ!?」
「あたしは…いつまでもあのちんけな小悪党を、のさばらせておくつもりはないわ。あの男を、社長の座から引き摺り下ろしてやるの。あたし達母娘をこけにした報いとして…地獄の谷底でたっぷりと辛酸を舐めてもらうわ」
「で、でも…そんなことが出来るのかしら……」
「当たり前じゃない。このあたしを、誰だと思ってるの。あたしに任せておいて。あの会社も、和彦も…全てを手に入れて見せるわ」
弱気な澄江に渇を入れるように、知香子は力強く言い放つ。
「知香子ちゃん…」
知香子は、澄江の手を握った。
「だから、ママは以前のママに戻ってちょうだい!こんな気弱なママなんて…あたしが知ってるママじゃないわ!!」
「えぇ…」
澄江は、知香子の手を握り返す。その瞳には、僅かながら以前の獰猛さが戻っていた。
ふたりは、ひしと抱き合う。燃えるような夕焼けの朱が、ふたりの影を染め上げていた。
翌日、知香子は伊原家の近くにある喫茶店にいた。どうやったら、和彦の母那与子に上手く取り入れるかを画策している。
和彦には、たっぷりと発破をかけておいた。後は、じわじわと外堀を埋めて行けばいい。そのためにも、那与子を丸め込むのは必要不可欠だった。
ふいに、目の前を両手に買い物袋を下げた那与子が通り過ぎる。
知香子は慌てて会計を済ませ、那与子の後をつけ始めた。ふいに、那与子の買い物袋の中から林檎が零れ落ちる。
「あの、これ…」
知香子は、拾い上げた林檎を那与子へと差し出した。
「あら、どうもご親切に。ありがとう」
礼を言いながら、那与子は受け取る。
「もしよろしかったら、荷物をおひとつお持ちしましょうか?両手が塞がっていたら、何かとご不便でしょう」
「そんな…ご迷惑でしょう。悪いわ…」
「いえ、ご遠慮なさらずに」
恐縮する那与子を押し切るように、知香子は半ば強引に荷物のひとつを手に取った。
「お宅まで、お持ちしますわ」
那与子の警戒心を解くように、にっこりと笑う。
「…そう?じゃあ、お言葉に甘えてお願いしちゃおうかしら」
「えぇ…」
知香子は、那与子に連れられて伊原家に向かった。
「本当に助かったわ。ぜひ、お茶でも飲んでらして」
伊原家に荷物を届けた知香子は、那与子から訪問を許される。
リビングへと通された知香子は、さりげなく室内を見回した。テレビの横にあるサイドボードには、いくつか写真立てが飾られている。その中には当然、和彦の写真もあった。
「あら、これ…」
知香子は、言いながら写真立てを持ち上げる。
「あたしの長男よ。もしかして、和彦とお知り合いだったの?」
「…はい。と言うか、あたしの知り合いが、彼の婚約者なんです」
「あら、あなた知永子さんのお知り合いだったの。すごい偶然ね」
「えぇ。だから、あたしも驚いてしまって…」
「つい先日、初めてお会いしたんだけど、本当に綺麗で上品なお嬢さんで…あたしもふたりの結婚を楽しみにしているのよ」
那与子は、嬉しそうに目を細めた。知香子が、目頭を熱くする。
「…あら、どうかしたの?」
「いえ。彼女が…ついに幸せを掴めるかと思ったらつい……」
「あなたは…本当に心の優しいお嬢さんなのね」
知香子に釣られるように、那与子が目を潤ませた。
「いいえ…けしてそんなことは。ただ…彼女の辛い境遇を思えば、彼女の幸せが我がことのように嬉しくて……」
「…本当にそうよね。お母様が、最近お亡くなりになったそうね。可哀想に…」
「えぇ。しかも、あんな亡くなり方をされて…」
「あんな…!?」
知香子の言葉に、那与子の表情が曇る。
「…まさか、お母様が妻子ある男性と無理心中をしただなんて……」
「な、何ですって!?そんな…破廉恥極まりないこと、あたしは聞いてないわ!!」
思わず、那与子が声を裏返らせた。
「あら、嫌だ。あたしったら、告げ口みたいなことをしてしまって…。てっきり、知永子さんが告げているとばかり思っていたから。本当に、すいません…」
知香子は、白々しく口元を押さえる。那与子に向かって、頭を下げた。
「いいのよ。あなたは、何も悪くないわ。それより…一体どういうことなの!?教えてちょうだい!!」
「実は…彼女のお母様は、長年家庭のある男性とお付き合いをしていたそうなんです。詳しくはあたしも解らないんですが、何でもその痴情の縺れから…」
「…知永子さんが、そんな重大な秘密を隠していただなんて…。まさか…あの知永子さんが、そんなふしだらな血を引いていただなんて……」
那与子は、あまりの衝撃に言葉尻を震わせる。
「白紙よ!そんな汚らわしい女との結婚なんて…あたしには、けして認められないわ!!」
立ち上がり叫んだ。
「そんな…。あたしったら、何てことを……」
知香子はそう言ったが、その実、那与子の視線の外でほくそ笑む。
その夜、和彦は那与子からの電話を受けた。那与子はひどい興奮状態で、言葉が聞き取り辛い。
「母さん…一体、何だって言うんだ?」
「破談よ、破談!あたしは、絶対に認めないわ!!」
「…えっ!?」
「知永子さんとの結婚のことよ。あんな女との結婚だなんて…誰が認めるもんですか!!」
受話器越しに、那与子が喚き散らした。突然の母からの反対に、和彦は途方に暮れる。
つづく




