第34話『知香子の逆襲』
「ねぇ、おじさん。今暇?」
渋谷の道玄坂にあるホテル街を歩いていた滝は、ふいに後ろから声をかけられる。
振り返ると、制服姿の少女が立っていた。もはや金色に近い茶髪に黒い肌、短いスカートから伸びる足を、当然のようにルーズソックスが包んでいる。
いわゆる、今時のコギャルだ。
「一体、何の用だい?」
「…いいことしたくない?」
少女は、言いながら滝の肩に手を置く。耳たぶに、軽く息を吹きかけてくきた。
「…君は、いくつなのかな?」
「十六。ねぇ、いいでしょ。エッチなことさせてあげるから、お小遣いちょうだい」
少女の言葉に、滝の鼻の下がだらしなく伸びる。奇抜なメイクをしていたためすぐには解らなかったが、なかなかの美少女だ。
「いくら欲しいんだい?」
滝は、単刀直入に尋ねる。少女は、笑って三本指を立てた。
「そんなもんでいいのかい?一緒にホテルに行ってくれたら、もっとお小遣いあげるよ。おじさん、こう見えても社長なんだ。お金はいっぱい持ってるんだよ」
相好を崩しながら、滝は少女の肩を抱く。
渋谷や新宿などの繁華街に赴き、女子中高生との交際を楽しむのは、滝の密かな趣味だった。いつもなら自分から声をかけて回るのだが、こんな上玉が自ら寄って来てくれるだなんて、今日はついている。
「え~!?マジでぇ。超ラッキーなんだけど。どこでも着いてっちゃうよ」
少女は、そう言って滝に腕を絡ませる。少女がつけている甘ったるい香水の匂いが、滝の鼻孔をくすぐった。
舌ったらずな少女の口調に、滝はますます鼻の下を伸ばす。
打算的な大人の女達とは大違いだ。これだから、十代の少女達は扱い易い。
少女の肩を抱いたまま、滝はラブホテルのネオンの中へ吸い込まれていった。
まさかその様子を知香子が撮影しているとは、夢にも思わずに。
「…どうかしら?」
更衣室の中から、ウェディングドレス姿の知永子が姿を現す。
「まぁ!お綺麗!まるで、お客様のために誂えたかのようにピッタリですわ」
店員は、大げさなほどに知永子を褒めそやした。
「いいんじゃないかな。すごい、似合ってるよ」
「そうかしら…ちょっと派手じゃない?」
知永子は、恥じらいながら和彦に問いかける。
「そうかな。俺は、別にそんな風に思わないけど…」
「そうですよ!何たって、結婚式の主役は花嫁様なんですもの。これくらい普通ですわ。それにお客様はお上品なお顔立ちをしていらっしゃるので、多少肌の露出が多いデザインをお召しになられても、けしてお品は損なわれません。さあ!もっと大きな鏡でご自分をご覧になって」
饒舌な店員は知永子の手を引き、鏡の前へと促した。
「ほら!お綺麗でしょう。まるで、ドレス姿のカタログのモデルさんみたいだわ。私も長年この仕事をしておりますが、ここまでドレス姿が様になる花嫁様はそうそういらっしゃいませんわ」
「…本当に、似合ってると思う?」
知永子は、声を潜めて和彦に尋ねる。
「あぁ…綺麗だよ」
和彦は、鏡越しに知永子を見つめ答えた。知永子は、鏡の中に映った自分を見つめる。
確かに、悪くはなかった。デコルテから背中にかけてが大胆に露出しているのに多少の気後れはしたものの、マーメイドラインのすっきりとしたドレスは、知永子の楚々とした美貌を引き立ててくれている。
「わたし、決めました。このドレスにします」
「もう決めちゃっていいの?もう少し、試着させてもらえば」
「ううん…いいの。最初は、ちょっとだけ恥ずかしい気がしたけど…このドレスが気に入ったわ」
「そうか…」
「ありがとうございます!では、さっそくドレスの手配にかかりますわね」
店員は、甲高い声をまくし立ててバックルームへと姿を消した。
ほっとしたように、和彦がソファに座り込む。
「ごめんなさいね、長い間付き合わせたりして。疲れたでしょう?」
知永子は、和彦を気遣った。
「いや、いいんだ…」
和彦は、手を振り笑う。
先週末に和彦の母那与子との顔合わせを済ませて以来、知永子と和彦の結婚話は、一気に現実味を帯び始めた。ふたりは沢山の準備に追われ、目まぐるしい日々を過ごしていた。
ふいに、和彦の携帯が鳴る。和彦は、知永子に詫びを言ってから店の外へ出て行った。
「…ごめん。今からちょっと、行かなきゃいけなくなった」
戻って来た和彦は、申し訳なさそうに言った。心無しか、顔が蒼醒めている。
「いいのよ、別に。後はもう、家に帰るだけなんだし。今日は、付き合ってくれてありがとう」
恐らく知香子のことだろうとピンと来たが、知永子は、そんなことはおくびにも出さず了承した。
「あぁ…済まない。なるべく早く帰るようにするから」
「解ったわ。和彦の好きなもの用意して待っているわ」
そう言って、和彦を送り出した。
しかし和彦を待ち受けていたものは、知永子の想像を遥かに越えていた。
「こ、これは…」
あまりの衝撃に、和彦は言葉を失う。目の前に出された母子手帳。表紙には、確かに伊原知香子と記されていた。
「もちろん、母子手帳よ。あたし、あなたの子供を身籠ったの」
知香子は、微笑みながら答える。何の膨らみもない腹部に、手をやって見せた。
「まだ八周目に入ったばかりらしいから、見た目には何も解らないけど、この中に…和彦の赤ちゃんがいるのよ」
「そ、そんな…」
和彦は、ようやっと声を絞り出す。
「あたし達は、あんなに激しく愛し合っていたのよ。それこそ…互いの境目がなくなって、蕩けてしまうくらいに。赤ちゃんを授かったって、何の疑問もないわ」
知香子は、歌うように続けた。
「もちろん、あたしはこの子を始末するつもりなんて毛頭ないわ。あなたは…どうするつもり?」
「俺は、知永子と…彼女と結婚するって決めたんだ……」
和彦は、掠れた声で呟く。知香子は、和彦の言葉を鼻で笑った。
「散々あたしの体を玩具にしておいて、子供が出来たらトン面かまそうだなんて…。そんな非道が許されるとでも思ってるわけ?」
「君には…本当に、一体何と詫びたらいいのか解らないが…どうか、その子のことは諦めてくれないか……」
「ふざけんなよ!この子を…殺せって言うわけ?よくも…よくも、そんな残酷で恐ろしいことが言えるわね」
知香子は、声を荒げた。
ふいに、九年前に照矢の子供を永遠に失ってしまったと知った時の圧倒的な喪失感と絶望が蘇ってくる。実際に、自分が和彦の子供を孕んでいるかのような錯覚に陥った。知香子の背すじが、ぞわぞわと粟立つ。
「…ち、知香子……」
知らず、知香子は涙を流していた。
「と…とにかく、考えておいて。あたしは……たとえ何があつったとしても、この子を諦めはしないから」
自らの感情の波に飲まれそうになった知香子は、そう言って店を出て行く。
残された和彦は、頭を抱えた。
「ありがとう。面倒をかけたわね」
言いながら、知香子は少女に封筒を差し出す。滝に迫り、ラブホテルへと連れ込まれたあの少女だ。
「別に~。お姉さんからもらった睡眠薬飲ませたら速攻で寝ちゃったし…。チョロいバイトだったよ」
少女は、笑いながら知香子から手渡された封筒の中味を確認する。
「頼んでおいた写真も、撮ってきてくれたわよね」
「もちろん」
少女は鞄を漁って、現像された写真とそのネガを知香子に渡した。写真の中では、ホテルのガウンをはだけさせた滝がベッドの上で寝息を掻いている。
「でも…あんな写真が、一体何の役に立つってわけ?」
少女は、興味深げに聞いてきた。知香子は、笑顔でそれを受け流す。
「とにかく、これさえあれば…あいつを破滅に追いやれるわ」
知香子は、にんまりと笑った。その壮絶な笑顔に、少女はぞっとする。
「これからもよろしくね。あなたにはもうひとつ、大事な大仕事が残っているんだから」
知香子は、恐れをなす少女に向かって、笑顔のままそう告げた。
〈ついに、知香子の本格的な逆襲が始まった。全てを手に入れるため、文字通り彼女は鬼に変わったのである。
姉妹の骨肉の争いは、今まさにひとつの佳境を迎えようとしていた。〉
つづく




