第31話『宣戦布告』
「悪いな。いきなり呼び出して」
和彦は、待ち合わせのバーに現れた知香子に声をかけた。知香子は、和彦の隣りのスツールに腰かける。
「いいのよ。それより何の用かしら?」
「実は…彼女と一緒に暮らし始めたんだ」
和彦が、知香子から目を逸らしながら告げた。
「…どういうこと?」
「最近、彼女の唯一の身内に不幸があってね…彼女を独りにはしておけないと思って、俺のマンションに呼び寄せたんだ」
「それで…」
「正式に、結婚しようと思ってる。だから…」
「…別れてくれって言いたいの?」
知香子は、和彦の言葉を引き継ぐ。
「あぁ…。知香子、君には本当に済まないことをした」
「嫌よ!」
知香子は、きっぱりと言い切った。カウンターに、グラスを打ちつける。
「あたしは絶対に嫌!別れないわ!!」
「知香子…」
「さんざんあたしの体を抱いて弄んでおいて、彼女と結婚したいから別れてくれだなんて…そんな都合のいい話がどこにあるって言うのよ!!」
知香子は、大声で喚き散らした。周りの客達が、ふたりに好奇の目を向ける。
「…本当に済まない。君には詫びのしようもないが、どうか許して欲しい」
和彦は、知香子に向かって深々と頭を下げた。
「絶対に、許さないわ。たとえこの身が骨と皮だけになったって…あなたにしがみついてやる!!」
「知香子…お願いだから俺と別れてくれ!」
「あたし…和彦を手に入れるためだったら何だってする。けして、脅しなんかじゃないんだから!!」
知香子は和彦にすがりつき叫んだが、和彦はそれを振り払い
「本当に済まない…」
と言い残してバーを出た。
「…絶対に、和彦は渡さない。お姉ちゃんになんか、渡すもんですか。和彦も、あの会社も…あたしのものにして見せるわ」
ひとり残された知香子は、低い声で呻く。強く噛み締めた唇から、血が滲んだ。
「おめでとうございます」
知永子と和彦は、同僚達からの祝福を受けていた。後輩OLから、花束を渡される。
「倉内さん、婚約指輪、よく見せてもらってもいいですか?」
別の後輩OLの言葉に、知永子は頬を染めながら手をかざした。
「素敵!主任、だいぶ頑張ったんじゃないですか?」
後輩OLは、笑いながら和彦を茶化す。
「それで…式はいつになるんだい?」
課長が、和彦の脇を小突いた。
「まだ未定ですが、なるべく近いうちにと思ってます」
「そうかそうか。いやぁ、楽しみだね。スピーチは俺に任せてくれたまえよ」
「そんなこと言って…スピーチの途中で泣き出しちゃうんじゃないんですか?何たって、倉内さんは課長のお気に入りなんですから」
「それもそうだな。伊原くん、我が課のマドンナを射止めたんだ。倉内くんを悲しませたりしたら、この俺が許さないからな」
「もちろんです。知永子は、俺が世界中の誰よりも幸せにして見せます」
「いやぁ、こりゃあ堪らんなぁ。全く、ご馳走様だよ」
オフィスに、皆の笑い声が響いた。
暖かい祝福の中、知永子は和彦と微笑み合う。知永子は密かにある決意を固めていた。
その夜、知永子は和彦がいない隙を見計らって知香子に電話をかける。何度目かのコール音の後、知香子が出た。
「何よ」
知香子の声は、鋭く尖っている。
「その声からすると…すでに、知っているようね」
「…昨日、和彦から別れを切り出されたわ。お姉ちゃんと、結婚したいって。もちろん、あたしは別れるつもりなんて微塵もないけど。何よ、そんなことを確認するために、わざわざ電話をかけてきたってわけ?」
「違うわ」
「だったら何だって言うのよ。あたしを…憐れんでいるとでも言うつもり?」
知香子は、鼻で笑った。
「それも違うわ。ただ…知香子に言っておきたかったの」
「…何だって言うのよ」
「わたしは…もう知香子に遠慮したりはしない。和彦との愛を貫く決意を固めたの」
宣言するような知永子の口調に、知香子は面喰らう。
「…せ、宣戦布告ってわけ?悪いけど、あたしは躊躇なんかしないわよ。知ってるでしょう。あたしが…欲しいものを手に入れるためなら、手段を選ばない女だってこと。和彦は、絶対に諦めないわ」
「解っているわ。でも、わたしは負けない。知香子が、どんなに卑劣な手段を使ってきたとしても、わたしと和彦の絆は壊させないわ。和彦が選んだのは、知香子じゃなくてこのわたしなの」
知永子は、きっぱりと断言した。知永子の迫力に、知香子は思わず電話を切る。
「くそっ!!」
言いながら、知香子は手にしていた携帯を放り投げ、手近にあったグラスを思い切り床に叩きつける。グラスが、激しい音を立てて砕けた。
「…お姉ちゃんの分際で、ずいぶんと図太くなったものね。このあたしを本気にさせたらどうなるか…たっぷりと思い知らせてやるわ」
そう言って再び携帯を手にする。憎悪の炎をたぎらせた瞳で、ある男へと電話をかけた。
〈知香子は、焦っていた。知永子を追いつめるために自らが取った行動が、逆に知永子と和彦の絆を強める結果を招いたことに。
ひとりの男を巡る姉妹の愛憎劇は、更なる混迷へとのめり込んで行くのである。〉
「この前も言ったでしょう。俺は、あなたに協力するつもりなんかないって」
強引に知香子から呼び出された和明は、開口一番にそう言い放った。
「何を言ってるの。このままじゃ、あの女とあんたのお兄ちゃんが結婚してしまうのよ!!」
「俺は…知永子さんが幸せになるんだったら、それで、構わない」
「綺麗事なんか言わないで!あんた、あの女のことが好きなんでしょう?」
知香子は、和彦に詰め寄る。
「確かに…俺は知永子さんのことを愛してる。でも、それと同じくらい…知永子さんの幸せを願っているんだ。知永子さんを幸せに出来るのは…悔しいけど、俺じゃない」
「解らないわ…」
知香子は、呟いた。
目の前にいる男の言葉が、心底理解できない。愛する男が自分以外の女と幸せになること以上の苦しみが、この世のどこにあるのだろうか。
「あなたには…確かに解らないだろうね。結局、あなたは愛されない自分自身に苛立ってるだけだ。玩具屋の店先で愚図ってる、駄々っ子と同じなんだよ」
「ふん。そんなこと言ったって、結局は負け犬の遠吠えじゃない。あんたは、意気地無しの腑抜け野郎なのよ」
「そうかも知れないな。でも、俺はそれでいいんだ」
知香子の精一杯の皮肉に対しても、和彦はさらりと笑顔で返す。
「とにかく、俺はあなたと手を組むつもりなんてないし、むしろ…あなたがあのふたりの仲を引き裂こうとするのなら、徹底的に抗戦するつもりだ。俺は全身全霊かけて、ふたりの愛を応援していくよ」
和彦は、そう言って知香子の前から去っていった。
知香子は、その場に立ち尽くす。怒りに、わなわなと体を震わせながら。
つづく




