第30話『プロポーズの朝』
病室のベッドに横たわる澄江の手を握ったまま、知香子は一睡もせずに朝を迎えた。
昨夜、かなりの錯乱状態にあった澄江が病院に運ばれてから、かなりの時間が経過している。しかし鎮静剤を打たれた澄江は、依然眠りについたままだ。
「おはようございます」
白衣に身を包んだ医師が、姿を現した。
「お母様のご容態は?」
医師の言葉に、知香子は首を振る。
「先生、母は一体…」
「詳しい事情は意識がはっきりするまで解りかねますが…恐らくは、何か強いショックを受けたことによる一時的なヒステリー状態だと思われます」
「そう…」
知香子は、医師の言葉に溜め息をついた。
その時、澄江の指がかすかに動いた。ゆっくりと、瞼を開く。
「ママ!!」
知香子は、澄江に呼びかけた。
「…ち、知香子ちゃん?ここは…あたし……?」
頭を押さえながら、澄江は気だるげに上半身を起こす。
「昨夜、あなたはひどい錯乱状態に合ったんですよ。何も覚えていませんか?」
状況を掴めず戸惑った様子の澄江に、医師が問いかけた。
「…夜のことは、よく覚えていないわ。あたし、あたし……」
言いながら、澄江は小刻みに肩を震わせる。
「ねぇ、ママ。一体、昨日何があったって言うのよ。あたしの携帯に、何度も電話をかけてきたじゃない」
知香子は医師を押しのけ、澄江に詰め寄る。澄江は恥辱に打ち震えながら、昨日の顛末を語り始めた。
時を同じくして、知永子は和彦のマンションのベッドの上で目を覚ました。
隣りでは、和彦が小さく寝息を立てている。窓から射し込む朝陽が、彼の裸の胸を照らしていた。
わたしは昨日、和彦に抱かれたのだ。
ついに陵辱の夜の記憶に打ち勝ち、和彦を受け入れられた昨夜の自分を、知永子は誇らしく思う。朝陽に洗い流されるように、長年知永子を苛み続けていた苦しみは、どこかに姿を消していた。
清々しい気分で枕元の時計に目をやると、すでに六時半を回っていた。着替えを取りに帰ることを考えると、そろそろこの部屋を後にしなければいけない。
名残惜しかったが、知永子は和彦を起こさないよう静かにベッドから下りた。
ふいに、和彦から腕を掴まれる。
「…帰るのか?」
「…服を着替えなくちゃ。まさか、昨日と同じ服なんて着ていけないでしょう?」
知永子は笑って和彦の手を払おうとしたが、強引に引き寄せられた。
「嬉しいよ、知永子…。ついに、俺を受け入れてくれて。俺達は…やっとひとつになれたんだね」
知永子の肩ごしに、和彦は囁く。伸びかけの髭が、知永子の肩をくすぐった。
「えぇ…」
知永子は、和彦の背中に手を回す。
「なぁ…」
「…ここで、一緒に暮らさないか?」
「えっ!?」
「…知永子を、あの家に独りきりになんてしておけないよ」
「和彦…、本当にいいの?」
知永子の問いかけに、和彦はゆっくりと頷いた。
「それから…正式に俺にも籍にも入って欲しい」
「えっ!?」
「知永子、俺と…結婚してくれないか?」
和彦は、知永子の瞳を見据えてそう言った。
「和彦…本気なの?」
「あぁ…もちろんだよ。俺は…知永子と共に、これからの人生を歩んで行きたいんだ」
「和彦!嬉しいわ!!」
知永子は、自ら和彦へと抱きつく。
「知永子…愛してるよ」
和彦が、囁いた。
「えぇ…、わたしもよ。わたしも、和彦を愛しているわ……」
知永子は、涙を流しながら答える。ふたりは、強く抱き合った。
「な、何ですって!?」
澄江の話を聞き終えた知香子は、驚愕に目を見開く。
「まさか…、そんなことがあっただなんて……」
怒りに肩が震えた。
「あの男のいいように騙されて…あたしは全てを失ってしまったのよ」
澄江は、さめざめと涙を流す。知香子は、強く澄江を抱き締めた。
「ママ…。大丈夫よ」
「えっ!?」
「…あたしが、全てを取り返して見せるわ。絶対に…許さない。あたし達母娘をコケにしたらどうなるか…地獄の谷底でとことん後悔するがいいわ」
全てを灼き尽くすような強い憎悪の炎を瞳にたぎらせながら、知香子は宣言する。
その週の終わり、知永子は和彦のマンションへの引っ越しを済ませた。今は、その後片付けに終われている。
「知永子、この荷物はどうすればいいかな?」
リビングで知永子の私物を段ボールから取り出していた和彦が、知永子に声をかけてくる。
「ちょっと待って。今、そっちに行くわ」
持ち込んできた食器類をキッチンの食器棚に収納していた知永子は、和彦の元へと駆け寄った。
「お疲れ様」
何とかひと段落終えたふたりは、ソファに腰かけグラスを鳴らした。
「今日から…この部屋であたしと和彦の生活が始まるのね。何だか…信じられないわ」
知永子は、部屋を見回しながら感慨深げに言う。
思えば、母と父の死から二週間が過ぎようとしていた。あまりの目まぐるしい展開に、我ながら驚いてしまう。
「わたし…幸せよ」
言いながら、和彦の肩に頭をもたせかけた。和彦は、知永子の肩に腕を回す。
「あぁ…。俺もだよ」
和彦は、そう言ってグラスに注がれた赤ワインを飲み干した。どこか、そわそわしている。
「どうしたの、和彦?」
「あぁ、実は…知永子に引っ越し祝いを用意してるんだ」
「えっ!?」
和彦は立ち上がり、一旦寝室へと姿を消してから、小さな小箱を手に戻って来た。無言で、それを知永子へと差し出してくる。
「これって……」
「開けてごらん」
和彦に言われ、知永子は震える指で小箱のリボンを解いた。ゆっくりと小箱の蓋を開ける。
中に入っていたのは、プラチナ台の婚約指輪だった。中心には、眩い光を放つラウンドブリリアントカットのダイヤが嵌め込まれている。
「急だったから…こんなものしか用意出来なかったんだけど……」
和彦は、照れ臭そうに笑った。
「ううん…嬉しい。嬉しいわ。わたし…こんな素敵な指輪、今まで一度も目にしたことがないんだもの」
知永子は、感動に瞳を潤ませる。
「ねぇ…つけてみてもいい?」
「あぁ…」
「和彦がつけて。わたし…この指輪を和彦につけてもらいたいわ」
知永子は、和彦に小箱を差し出しせがんだ。和彦は小箱の中から指輪を取り出し、知永子の指へと滑り込ませる。
「…素敵!この指輪の中に、和彦の想いが…和彦の愛が込められているのね」
知永子は手をかざし、うっとりと宣った。明かりに照らされたダイヤの指輪が、より一層強く輝きを放つ。
「…よく、似合ってるよ」
「ありがとう。わたし、一生大事にするわ。例えこの先に何があったとしても、この指輪だけは守り抜いていくわ」
「知永子…一生かけて大事にするよ」
和彦が、再び知永子の肩を抱いた。ふたりは磁力に引き寄せられるように、どちらからともなく口づける。
〈知永子は、今まさに幸せの絶頂の中にいた。幾多の修羅を乗り越えた末に訪れたその幸せが、ほんの刹那であることも知らずに…。
恐るべき知香子の逆襲は、すぐ傍にまで忍び寄っていたのである。〉
つづく




