第29話『わたしを抱いて…』
翌日、知永子は一週間ぶりに会社へと出勤した。真っ先に、課長のデスクへと足を運ぶ。
「長い間、ご迷惑をかけて申し訳ありません」
知永子は、深々と頭を下げた。
「いや…ことがことなんだ。気にするな。それより、もう大丈夫なのかい?」
「はい。ご心配には及びません。この一週間泣き続けて、もう涙も枯れましたから」
課長の気遣いに、笑顔で答えた。
「ま…まぁ、それならいいんだが、しばらくは無理しないでくれよ」
「はい」
知永子は再度頭を下げ、自らのデスクに向かう。途中、和彦とすれ違った。
「本当に…もう大丈夫なのか?」
和彦が、小声で尋ねてくる。知永子は、和彦に微笑みかけた。
「えぇ…」
昨日とは打って変わって生気に満ちた知永子の表情に、和彦は面喰らう。
「それより…今日の夜、時間あるかしら?」
「あっ…あぁ。どこか店でも予約しとくよ」
「お願いするわ。じゃあ、仕事が終わったら連絡ちょうだい。待ってるから」
知永子はきっぱりと言って、自らの椅子に座った。
「…何か倉内さん、雰囲気変わった気がしない?」
「えぇ…」
後ろにいた後輩の女子社員達の小さな耳打ちが聞こえたが、気にならない。知永子はパソコンを立ち上げ、黙々と仕事を始めた。
同じ頃、澄江は浩二郎が社長の椅子から追いやられた会社の応接室にいた。滝から、呼びつけられたのである。
「奥様、今日はわざわざ足をお運び頂き申し訳ございません。まあ、どうぞ楽にして下さい」
応接室に姿を現した滝は、そう言って澄江の向かいにどっしりと腰を落とした。以前とは違ってどこか余裕に満ちた滝の態度に、澄江は違和感を覚える。
「楽にも何も…ここはあたしの会社なのよ。緊張するいわれなんてないわ」
澄江の言葉に、滝が吹き出した。
「何がおかしいのよ!」
澄江は不快感を露にしたが、滝は尚も笑い続けている。
「ふふ…。奥様は、本当に何もお気づきになられていないんですね」
滝は自らの胸ポケットの中から名刺入れを取り出し、その内の一枚を差し出した。滝の名前の上に、代表取締役と記されている。
「…こ、これは!?何の冗談なの?…この会社の社長は、あたしでしょう…?」
澄江は、声を震わせた。
「奥様こそご冗談を。この会社の社長は、他でもないこの私です。先日の役員会において、正式に任命を受けました」
澄江は滝に促されて署名し、実印まで押した書類のことを思い出す。あの時は滝の口車に乗せられ、言われるがままに記入したが、果たしてあれは何だったのだろうか。
「あれは…権利放棄と譲渡手続きの契約書ですよ」
滝は、にんまりと笑った。
「な、何ですって!?」
「まさか、奥様は本気でご自分がこの会社の社長に就任出来るとでも思っていたんですか?書類の内容もろくに確認せずにホイホイとサインするような世間知らずの専業主婦に、務まるわけがないでしょう」
穏やかな口調で、澄江を侮蔑する。澄江は、わなわなと震えた。
「騙したのね!!」
「奥様には感謝しております。まさかここまで簡単にことが運ぶとは、私も思っていませんでしたからね…」
澄江は立ち上がり、滝に掴みかかった。しかし、滝に呼ばれた警備員に取り押さえられてしまう。
「奥様のお帰りだ。お連れしろ」
澄江に乱されたネクタイの皺を直しながら、滝は警備員へと命じた。
「それから…現在奥様がお住まいになっている四ッ谷のお宅も会社名義に変更されておりますので、なるべくお早めにお引き渡し下さい」
「そ、そんな…あたしは、どこに住めばいいって言うのよ!」
「ご心配なく。赤羽にある薄汚い小料理屋の名義だけは、奥様の名義ですから。どうぞ、夫とその愛人が心中したあの家で、末永くお暮らし下さい」
滝は、駄目押しするように告げた。その言葉に、澄江の体から力が抜ける。澄江は警備員から抱えられるようにして、応接室から連れ出された。
「い、いやぁ~!!!!」
廊下に、澄江の悲鳴が響き渡る。
レストランで食事を済ませた知永子と和彦は、行きつけのバーにいた。
「そろそろ帰ろうか?送ってくよ…」
腕時計で時間を確認した和彦が、知永子に言う。知永子は、首を振った。
「…帰りたくないわ。帰っても…わたし、独りきりなんだもの……」
「でも、そろそろ終電になるよ。明日も仕事だろう?」
和彦の言葉を遮るように、知永子は彼の手を握る。
「…今日は、朝まで和彦と一緒にいたいの。いいでしょう?」
潤んだ瞳で、そう言った。
「えっ!?」
「和彦と、一緒にいたい…」
知永子は、和彦の顔を真っ直ぐに見つめ繰り返す。
「…本当に、いいのか?」
戸惑ったように、和彦は尋ねた。
和彦のマンションの寝室のベッドに、知永子と和彦が腰かけている。
「えぇ。わたしは、そのつもりで来たのよ…」
知永子は、迷いなく答えた。
「本当に、いいんだね…」
知永子の瞳に、和彦は再度問いかける。和彦を見上げ、知永子は頷いた。和彦は、おもむろに知永子を押し倒す。
「…和彦。わたしを、抱いて……」
「知永子…」
和彦は、そう言って知永子のブラウスに手をかけた。同時に、知永子の唇へと吸いつく。
ふいに、十年前の陵辱の夜の記憶が蘇った。自らに覆い被さっている和彦の顔が、あの時の男達のそれと重なって見える。
知永子はぎゅっと目を閉じて、和彦を受け入れた。
「和彦…愛しているわ……」
フラッシュバックしてしまいそうになる自分を叱咤するように囁きながら、強くシーツを握り締めた。
〈和彦に抱かれながら、知永子は自らの理性と感情の狭間で戦っていた。心では受け入れつつも、体の奥底では拒んでいる。
それは、奇妙なレイプだった。〉
「…ママ、いないの?」
倉内の家に駆けつけた知香子は、玄関から中に声をかける。澄江からの反応はなく、家はひっそりと静まり返ったままだ。
昼間に澄江から何度も着信があったのに気づき折り返してみたのだが、いっこうに繋がらない。妙な胸騒ぎを覚えた知永子は、仕事を早上がりしてわざわざ来たのだ。
「…入るわよ」
そう言って合い鍵を差し込んでみると、鍵は開いていた。訝りながらドアを開く。明かりは灯っていなかったが、人の気配を感じた。かすかに、奥のリビングの方から物音がする。
「…ママ!?」
恐る恐るリビングに足を踏み入れた知香子を待ち受けていたのは、衝撃の光景だった。
真っ暗な部屋の中、澄江が床に座り込んでいる。澄江はぶつぶつと何かを呟きながら、手掴みでシュークリームを頬張っていた。
澄江の口元や床を、クリームがべっとりと汚している。
ふいに、澄江が知香子の方を見上げてきた。鬼気迫った表情で、にんまりと笑う。
「ママ!しっかりしなさいよ!!一体、何があったって言うのよ!?」
知香子は、澄江へと駆け寄り、彼女を揺さぶった。しかし、彼女からの応えはない。
知香子に肩を捕まれたまま、狂ったように笑い出した。
「ママ!お願いだから、正気に戻ってちょうだいよ!!」
知香子の問いかけも虚しく、澄江の乾いた笑い声がリビングに響く。
つづく




