第28話『踏みにじられた遺影』
買い物を終えて帰宅した織江は、店の奥に人の気配を感じた。
「…知永子?帰って来てるの?」
気配のする方に向かって、声をかける。しかし姿を現したのは、浩二郎だった。
「あ、あなた…!?」
顔を合わせるのはほんの数日ぶりだというのに、浩二郎の憔悴ぶりには目に余るものがある。織江は、声を息を飲んだ。
「…ど、どうしてこんな時間に?」
震える喉を振り絞り、ようやっとそう口にする。浩二郎は、狂気じみた笑みを織江に向けた。
「織江…」
言いながら、ふらふらとした足取りで近づいて来る。昼間から飲んでいるのか、浩二郎の吐く息には酒の匂いが混じっていた。織江は、思わず後ずさりする。
「あなた…飲んでるの?」
「あぁ…飲まずにいられるか。…もう、終わりだ……」
「い、一体…何があったって言うのよ?」
織江が、恐る恐る尋ねた。
「…澄江だよ。あいつが、会社から俺の追い出しにかかったんだ。お陰で俺は社長の座も…銀行の貯金も土地も、このちっぽけな店の権利さえも……全てを失ったんだ」
浩二郎は、がっくりとその場に項垂れる。
「…ちくしょう!俺が…今までどんなにかあの会社の繁栄のために、この身を捧げてきたか。あいつの親父が道楽で傾かせたあの会社を…あそこまで発展させてやったのは、他でもないこの俺なんだぞ。それなのに…あいつは使い捨てカイロよろしく、俺をポイ捨てしやがったんだ。…全く、恐ろしい女だ。あいつは俺憎さから、見境のない復讐の鬼になっちまったんだ……」
「そ、そんな…奥様が……!?」
「…織江。俺にはもう…お前しかいないんだ……」
浩二郎は、ゆっくりと織江を見上げた。
「…い、言ったはずです!あたしは、あなたとは別れて……山梨に引っ込むつもりだって……」
「何でだ…。お前まで…俺を見捨てるのか!?」
「お願い、止めて…離して下さい」
自らにすがりついて来る浩二郎から逃れるよう、織江は身を捩った。しかし浩二郎の力は強く、離れられない。
「あぁ、あなた…、お願いよ……。知永子の…あの娘のためなの……」
浩二郎の腕の中、織江は懇願した。
「お前にまで見捨てられたら、俺はもう…生きてさえいけない。それならいっそ……」
浩二郎の視線が、調理場にある包丁を捕らえた。それに気づいた織江は必死に包丁へと手を伸ばしたが、すんでのところで浩二郎に奪われる。
「いっそこのまま一緒に死のう。俺達は…あの世で結ばれるんだ……」
包丁を手にした浩二郎が、うわ言のように呟いた。瞬間、織江の腹部に鋭い痛みが走る。
「うっ…」
織江は腹部を押さえながら、ゆっくりとくず折れた。指の間から、夥しい量の血が溢れ出る。
「…あ、あなた……」
「織江…済まない。でも俺達にはもう、こんな道しか残されていないんだ……」
横たわった織江の傷口から包丁を抜き取り、浩二郎は自らの首すじにそれを突きつけた。
「織江…愛しているよ」
そう言って、一気に引き抜く。次の瞬間、店内が赤く染まった。
「あぁ…知永子。ごめんなさいね……」
自らの体に折り重なるようにして倒れ込んできた浩二郎の脂ぎった髪を撫でながら、織江は呟く。次第に、視界が霞み始めた。ゆっくりと瞼を閉じる。織江の目尻を、一筋の涙が伝った。
「倉内さん、お電話です」
オフィスでパソコンを操作していた知永子に、向かいのデスクの後輩の女子社員が声をかけてくる。
「誰から?」
「…それが、警察からなんです」
知永子の問いに、女子社員は声を潜めた。
「えっ!?警察…?」
「はい…。三番です」
「え、えぇ…ありがとう」
訝りながら、知永子は電話を引き継ぐ。ふいに、織江の笑顔が脳裏をよぎった。
「はい、もしもし。お電話変わりました。倉内ですけど…」
受話器から伝わる警察官らしき男の声。次の瞬間、受話器が知永子の手から滑り落ちた。
「いやっ…嘘よ!嘘よ~!!」
オフィスの喧騒の中、知永子の悲鳴が響き渡る。それは無情にも、両親の死を告げる電話だった。
「…大丈夫か?」
織江の遺影をただただ眺め続ける知永子の肩に、和彦が手を添える。
「あれ以来、ろくに飯も食っていないんだろう?いい加減、体壊すんじゃないか?」
織江と浩二郎の心中事件から早一週間。葬儀を終えた後、知永子は抜け殻のように毎日を過ごしていた。
「辛いのは解るけど…お前まで倒れてしまったんじゃ、元も子もないだろう……」
和彦は、優しく語りかける。しかし、知永子は力なく首を振った。
「…ごめんなさい。こうして毎日来てくれるのは嬉しいんだけど、今は…今だけはそっとしておいてくれないかしら」
「知永子…」
「今は…ひとりでいたいの……」
そう言った知永子の頬を、涙が濡らす。あれから毎日のように泣いていたが、知永子の涙は枯れることを知らなかった。ふと織江のことを思い出す度に、自然と湧き出て止まらなくなる。
「解った…。まだ明日来るから」
和彦は、そう言って『長谷倉』を後にした。
「お母さん…」
知永子は、織江の遺影へと語りかける。
織江の葬儀は寂しいものだった。結局、浩二郎の葬儀は半狂乱の澄江によって取り仕切られ、その影に隠れるようひっそりと執り行われたのである。
織江の立場を考えれば致し方のないことではあるが、せめてあの世への旅立ちくらいは母と父を共にさせてやりたかった。
母の遺影と向き合う度に、そんな心残りが募る。
ふいに、店の玄関が開く音がした。和彦が、戻って来たのだろうか。
ふらふらとした足取りで玄関に向かった知永子は、意外な訪問者に愕然とする。知香子と澄江だった。
「失礼するわね」
ふたりは知永子からの返事も待たず、靴を履いたまま母屋へと上がり込む。
「待って下さい!」
知永子の制止を振り切り、織江の遺影がある居間まで土足で乗り込んだ。
「本当に…憎ったらしい顔ね。写真で見ても、反吐が出るわ」
澄江は織江の遺影を睨みつけ、忌々しげに吐き捨てる。
「お願いです。ここから出て行って下さい!これ以上、母を侮辱するのは止めて下さい!!」
「あら、何寝言をほざいているのかしらね。出て行くのはあなたよ、知永子さん…」
澄江は、知永子に微笑んだ。
「…一体、どういうことなんですか!?」
知永子の問いかけに、知香子が一枚の紙切れを見せつけてくる。『長谷倉』の土地の権利書だった。
「見ての通りよ。この土地の所有者は、すでにママに変更されているの。つまり、お姉ちゃんはこの土地に不法占拠している形になっているというわけよ」
知香子は、淡々と語る。
「そういうことよ。あなたがここに居座る権利なんて、微塵もないってわけ」
「…お姉ちゃんは、全てを失うってことよ。和彦はもちろん、住む場所さえもね」
知香子は、勝ち誇ったように笑った。
「まあ、あたし達も鬼じゃないから、何も今すぐに出て行けとは言わないわ。一週間の猶予を揚げるから、その間に身の振り方を考えるのね」
「そ、そんな…」
突然の言葉に驚愕する知永子の顎に、澄江が指を添える。強引に、ぐいっと持ち上げた。
「言っておくけど…あたしはあんたの母親のことを許したわけじゃ、けしてないのよ。人の亭主にちょっかいを出し続けた挙げ句、心中までするだなんて……。あの女が、あの人をけしかけたに決まっているんだから。あたしに全てを取り返されそうになったからって、自棄になったのよ」
「…そんな!警察の方は…父からの無理心中だったって……」
言い返した知永子の頬が鳴る。澄江が、全力で知永子に平手打ちを食らわせたのだ。
「そんなこと…あたしは信じないわ!あの女が…あんたの母親が全て悪いのよ。全く、疫病神以外の何物でもないわ!!」
そう言って、織江の遺影に手をかけた。
「や、止めて下さい!」
知永子の必死の制止を振り切り、織江の遺影を思い切り床に投げつける。硝子が音を立てて砕けて、畳敷きの床へと散らばった。
「死んだって許さない…。あたしの、この命が果てるまで憎しみ…怨み続けてやるわ」
言いながら硝子の破片を掴み、織江の顔へと突き立てる。ゆっくりと遺影を引き裂いた。
「止めて!お願いだから…止めて下さい!」
思わず、知永子は澄江に飛びかかる。澄江の上に、馬乗りになった。
「…これ以上の侮辱は許しません!母は、確かに日陰の身分でした。でも…でも、こんな仕打ちを受けるなんて…」
「ふざけないで!!」
知香子は知永子の後ろ髪を掴んで、澄江から引き剥がす。知永子は、もんどり打って倒れ込んだ。
「今までママが飲まされ続けてきた屈辱的な地獄の煮え湯に比べたら、この程度の細やかな仕打ちなんてほんのぬるま湯よ」
知永子に見せつけるよう、知香かは織江の遺影をヒールで踏みつけた。「ママ、帰りましょう。いつまでもこんな辛気臭いところにいたら、黴が生えてきそうだわ」
「そ、そうね…」
澄江は、知香子から抱えられるようにして起き上がる。
「お姉ちゃん、この程度で済むだなんて勘違いしないでね。まだまだよ。あんたが、この世に生を受けたことを後悔するまで追いつめて…全てを根刮ぎ奪ってあげるわ」
知香子はそう吐き捨てて、澄江とふたり『長谷倉』を出て行った。
ひとり残された知永子は、のっそりと起き上がる。床に投げ捨てられた織江の遺影を手に取った。
澄江に切り裂かれ、知香子からは踏みにじられ、ぼろぼろに汚れている。
「許さない…。こんなこと、仕打ち…絶対に、許さないわ……」
打ちひしがれた知永子の胸に、ある決意が宿った。
「お母さん。もう…わたしは負けないわ」
織江の遺影に誓うよう、はっきりと宣言する。
〈知香子と澄江母娘によるあまりの仕打ちに、知永子の中の夜叉が目覚めた。母のプライドを賭けた知永子の反撃が始まる。
こうして母娘二代に渡る姉妹の骨肉の争いは、また新たなる局面へと差し掛かったのである。〉
つづく




