第2話『哀しい再会』
喜ぶべきなのか。それとも、嘆くべきなのか。
知永子はこの再会をどう捉えるべきなのか解らず、ただただその場に立ち尽くしていた。この一週間、ずっと恋い焦がれていた彼が今目の前にいる。妹のボーイフレンドとして…。
「まさか、貴方が……」
そう呟くのが、精一杯だった。そして、それは相手の方も同じだったらしく
「まさか、君が……」
と言ったきり、彼も黙ってしまった。
〈その瞬間、知永子は聞いた気がした。運命の歯車が、音を立てて動き始めるのを。
そしてそれは同時に、姉妹の間に入った小さな亀裂の音だったのかも知れない。〉
「すごい偶然!お姉ちゃんの想い人が、まさか照矢だったなんて」
知香子は、その再会を無邪気に喜んだ。そんな知香子を、知永子は複雑な気持ちで見つめていた。恐らくは、照矢も同じような心境だったのだろう。ふたりは互いに視線を逸らし、沈黙を続けた。
「どうしたのよ。ふたりして黙り込んだりして」
「いや…何か、びっくりしちゃって。まさか、あの時のあの人が知香子のボーイフレンドだったなんて…」
「そうよね。お姉ちゃんにとっては失恋ってことになるんだもの、やっぱりショックよね」
知香子は、こともなげに言う。この再会に不安を感じている様子など、微塵もない。
「ちょっと、失恋だなんて…」
「そうだよ。俺達はたったの一回会ったきりなんだぜ」
「馬鹿ねぇ。照矢は本当に鈍いんだから。お姉ちゃんは、照矢に恋をしていたのよ!何たって、照矢はお姉ちゃんの危機を救った騎士なんだから」
知香子は、ひとり楽しそうに笑った。
からかうような知香子の態度に、知永子は小さな反発を抱く。確かに、淡い恋心だ。だからと言って、こんな風に踏みにじられるのは心外だった。
「止めろよ」
「何よ、ふたりして嫌ねぇ。あっ、そうだ!照矢、バイトしない?」
「バイト?」
「そう、バイト。家庭教師。前まで教えてた子が進学しちゃったから、新しい派遣先を探してるって言ってたじゃない 」
「まぁ、そうだけど…。でも、誰を?」
知香子は満面の笑みを浮かべたまま、知永子を指差す。
「えっ…わたし!?」
「決まってるじゃない。他に、誰がいるっていうのよ。失恋したお姉ちゃんに、妹からのせめてもの優しさよ。何たって、照矢はお姉ちゃんが目指してるK大の法学部なのよ。こんなにいい話が、他のどこにあるって言うの?」
強引に話をまとめるように、知香子はふたりの手を取って重ね合わさせた。知永子と照矢は押し切られるように、曖昧に笑うことしかできない。
「ねぇ。そうしなさいよ。そうなったらあたしも今まで以上に照矢に会えるようになるし、まさに一石二鳥でしょう」
ただただ困惑するふたりを尻目に、知香子はひとり悦に入っていた。
まさかこの先、目の前のふたりが愛し合うことになろうとは、文字通り爪の先程も疑わずに。
「じゃあ、あたし、照矢を駅まで見送って来るわね」
夕食後、知香子は照矢と連れたって玄関に立つ。
「別にひとりで大丈夫だよ。道だってもう覚えたし」
「もう…一分一秒だって長く一緒にいたいのよ。本当だったら離れたくもないのよ」
知香子は照矢に腕を絡ませ、甘えて見せた。
「あらあら、ごちそうさま。ご飯を食べたばっかりだっていうのに、またお腹が膨れちゃうわ」
澄江が、笑いながら言った。
「一人暮らしなんでしょう?お夕飯くらいなら、いつでも食べにいらっしゃい」
「あらママ、言ってなかったかしら。照矢は、お姉ちゃんの家庭教師をすることになったの。だから、これからも家にはちょくちょく来るわよ」
「えっ…家庭教師!?」
知香子の言葉に、澄江の表情が曇る。
「いえ…別にまだ決まったわけじゃ…」
「何よ、焦れったいわねぇ。いいじゃない。お金だって入るんだし、可哀想なお姉ちゃんのためにも一肌脱いでやってちょうだいよ」
「わたしは別に…」
「とにかく、もう決まったことなんだから。ごちゃごちゃ言わないの。さぁ、行きましょう」
照矢の腕を引き、知香子は家を出た。
「家庭教師って本当なの?」
澄江が、問いかけてくる。相変わらずの冷たい口調だ。
「いえ、別に。あれは知香子が、一人で勝手に盛り上がってることで…」
「勝手に!?何かしら、まるで迷惑みたいな言い方して。前々から思ってたんだけど、知永子さんって大人しい顔をして、平気で人の善意を踏みにじるところがあるわよね」
「そんな…そんなつもりじゃ……」
その年代の中では恐らく長身の部類に入るであろう澄江から見下ろされると、知永子はいつも萎縮してしまう。
しかし、そんな態度が澄江の神経をさらに逆撫でするらしく
「おまけに、人を悪者に貶めるのも得意よね。そんな言い方されたら、まるであたしが知永子さんを虐めてるみたいじゃない。とにかく、せっかくの知香子ちゃんからの申し出なんだから、ありがたく受ければいいじゃない」
と続けた。
「もちろん、恩を仇で返すような恥知らずな行いは控えることよ」
念を押すようにそうつけ加えて、ギロリと睨んでくる。
「…はい」
澄江の迫力に、知永子はそう呟く他なかった。
「キスして…」
駅の改札の前、知香子は照矢の耳元で囁いた。
「えっ…」
「ねぇ、いいでしょう」
知香子は、尚もせがむ。目を閉じて、かすかに顎を上げた。嘆息を噛み殺しつつ、照矢は知香子を抱き寄せ、その唇に自らの唇を押し当てた。
「あたしのこと好き?」
「あぁ…」
照矢は答えたが、その実、心の中では知永子のことを思っていた。妙にはしゃいでいた知香子に押されるように、控え目に振る舞う知永子の儚げな微笑みが脳裏に灼きついている。
実は満員電車での出会い以来、照矢自身も名前すら知らなかった知永子との再会を願っていたのだ。
「照矢は、あたしのものだから…」
照矢の心の内を見透かしたような知香子の呟きに、照矢は思わず彼女の体から腕を離した。
「どうしたの?」
「い、いや…別に…」
何故だろう。
その瞬間、照矢には知香子の笑顔が夜叉のように見えた。
その頃、浩二郎は赤羽にある小料理屋のカウンターに座り、熱燗をすすっていた。週に三日は立ち寄る、馴染みの店だ。
「ねぇ、そろそろ暖簾にしたいんだけど…」
カウンターの中で浩二郎と向き合っていた四十がらみの女将が言う。
「すりゃあいいじゃないか。二階で飲めばいい話だ」
「あら、今日も泊まっていかれるの?」
「都合でも悪いのかい?」
「もちろん悪かないけど、たまには奥さまのところに帰った方がよろしいんじゃなくて?」
「ははっ。別に構うもんか。そもそも俺達はもうとっくに夫婦としては終わってるんだからな。娘達が独立したら、きちんとけじめをつけるつもりだ」
「そんな…滅多なことを言うもんじゃないわ。でも…そうね。あの娘も、もう十七なのよね……」
浩二郎の言葉を受けて、女将は感慨深げに呟いた。その目尻には、うっすらと涙が浮かんでいる。
翌日の日曜日、さっそく家庭教師として倉内家を訪れた照矢を前に、知永子は緊張していた。
「先生、今日からお願いします」
「こちらこそ力不足かも知れないけど、よろしくお願いします」
〈けして、恋に落ちることは許されない。
時としてそのタブーが想いを加速させていくことを、知永子はまだ知らなかった。そして、その愛が彼女自身を苦しめることになろうとは…。〉
つづく