第25話『母の決意』
「もう…限界だわ……」
店じまいしたカウンターに布巾を置き、知永子は呟いた。
あれから一週間。澄江は毎日のように『長谷倉』に現れては、何かしら難癖をつけて帰って行く。始めのうちは同情的だった馴染み客達も、あまりに常軌を逸した澄江の言動に恐れをなし、一人また一人と店から離れて行ってしまった。
このままでは、店が立ち行かなくなるのも時間の問題である。
「わたしが…和彦と付き合っているばっかりに……」
知永子は項垂れながら、弱音を吐いた。
「何言ってるのよ。あなたは、自分の愛を貫きなさい」
「…でも、このままじゃお店が……」
「いいのよ。思えばこの十年間…知永子とふたりでこの店を切り盛り出来て、あたしは幸せだったわ。充分過ぎるくらいに……」
織江は、知永子の手をぐっと握る。
「だから…あたしはあんたが幸せになるためだったら…こんな店、いつ潰れたって構わないと思っているの」
「お母さん…」
「知永子…和彦さんと幸せにおなりなさい」
「ありがとう、お母さん。わたし、お母さんのためにも幸せになるわ。ううん。幸せになって見せるわ」
「そうよ。あなたは、自分が幸せになることだけを考えていればいいの」
知永子の頬を伝う涙を指で拭いながら、織江は優しく微笑んだ。
〈この時、知永子はまだ知らなかった。母が、ある決意を胸に秘めていることを…。
それは娘の幸せを切に願う、母のせめてもの償いだった。〉
「感激です。まさか、知香さんから誘って頂けるなんて」
美和は、大げさな調子で言う。店からの帰り、知香子は美和を連れていつものバーを訪れていた。
「別に、たいしたことじゃないわ。いつもヘルプで頑張ってくれているんですもん。これぐらいしなきゃ、逆に罰が当たるってもんだわ」
知香子は、言いながらグラスを掲げて見せる。
「お疲れ様」
「お疲れ様です」
ふたりで、グラスを鳴らした。
「和美ちゃん、水商売は初めてだって言ってたわよね。少しはこの仕事に慣れたかしら?」
「えぇ…知香さんのご指導のお陰で。でも、まだまだ皆さんの足を引っ張ってばかりで申し訳なくて…」
「何言ってるのよ。和美ちゃんは、十分によくやってくれてるわ。だから今日はほんの細やかなお礼として、あたしにご馳走させてちょうだい」
「ありがとうございます」
「さあ、飲んで」
知香子に言われて、和美は一気にグラスを空けた。
ふいに、強烈な眠気に襲われる。美和は必死に堪えようとしたが、視界がぐらぐらと揺れ初めた。
「あ…あれ!?あたし…急に……」
呂律さえ怪しくなる。美和は、瞬く間に眠りの世界へと引き込まれて行った。
「おやすみなさい…」
テーブルに突っ伏す美和を見下ろしながら、知香子が微笑む。
目が覚めた時、美和は手足を拘束されて椅子へと座らされていた。
「こ、ここは…」
まだかすかに痛む頭を振りながら呟く。
「あら、やっと起きたのね」
「知香さん…これは一体!?」
言いかけた美和の頬が鳴った。知香子が、平手打ちを食らわせたのだ。
「あんた、何が目的であの店に乗り込んで来たのよ」
「…えっ!?」
「解ってるのよ、山岡美和さん。お姉ちゃんの同僚なんでしょう?」
言いながら、美和の顎を持ち上げる。
「お、お姉ちゃん…!?」
「そうよ。あの女…倉内知永子から頼まれて、あたしのことを嗅ぎ回っていたんでしょう?」
「そ、そんな…あなたが、知永子の……妹?」
美和は、驚きに声を震わせた。
「あら…あなた、何も聞かされてなかったってわけ?とんだ間抜けなスパイね」
「…ち、違うの。違うのよ!知永子のためになんかじゃない。あたしは、主任を…和彦さんを手に入れたくて…。だから、あなたのことを調べるために……」
美和は、必死に弁明する。この異様な状況の中、微笑みを浮かべている知香子のことが堪らなく恐ろしかった。
「あら、そう。…。まあ、別にどっちでもいいわ。あたし…まるで目障りな蝿のように自分の周りを飛び回られるのが、大っ嫌いなのよ」
言いながら、美和のシャツを引き裂く。ボタンが弾け飛んだ。
「きゃっ!な、何するのよ!?」
「もう二度とあたしの周りを彷徨けなくなるように…羽をもいでやるのよ」
恐怖に震える美和の頬を伝う涙を舐め取りながら、知香子は歌うように囁く。
部屋の奥から、仁が姿を現した。
「お、お願い…お願いだから止めて……止めてちょうだい!!」
無言のまま、仁がゆっくりと近づいて来る。恐怖のあまり、美和は気絶した。
翌朝、美和は自宅のベッドの上で目を覚ました。
普通にパジャマを着ている。手首と足首にはかすかに痛みを感じるような気もするが、体には特に異常はないようだ。昨日のことは、悪い夢だったのだろうか。
訝りながら時計を見ると、すでに遅刻ぎりぎりの時間だった。美和は、慌てて身支度を整え部屋を出る。
出社した美和を出迎えたのは、オフィスの中に出来た人だかりだった。何かと思い近づいた美和を盗み見ながら、こそこそと話している。
「な、何?何だっていうのよ…」
人ごみを掻き分けその中に入った美和は、自らの目を疑った。
ファックスから吐き出される白黒写真。画像は荒かったが、はっきりと解る。あられもない姿をした、自分自身だ。
「い、いやぁ~!!見ないで!見ないでよ~!!」
美和は、悲鳴を上げながらファックス用紙を掻き集める。しかし時すでに遅く、オフィスにいるほとんどの人間がそれを見た後だった。
「何があったって言うんだい?山岡くんのこと…」
会社近くのふたりいきつけのバー。和彦はビールを飲み干してから、知永子に尋ねる。
「わたしも実際は目にしてないんだけど…オフィスに、美和のいかがわしい写真が大量にファックスされてきたらしいの。美和はショックのあまり、会社を飛び出して行ったきり……」
「…まあ、そんなものを送りつけられたら、もう会社には出て来られないだろうな。でも一体、誰がそんなひどい嫌がらせを?」
「…解らないわ。わたしにもさっぱり……」
知永子は、溜め息をついた。
「それより…」
「えっ!?」
「わたし達の将来のことよ。和彦…前に今の仕事がひと段落着いたら、ちゃんと考えたいって言ってたじゃない?」
「あ、あぁ…」
「そろそろ…いいんじゃないかしら」
知永子は、言いながら和彦の手に自らの手を重ねた。和彦は、さりげなく知永子の手を払う。
しかし、知永子は再び和彦の手に手を添えて
「わたし、和彦と幸せになりたいの…」
と訴えた。
「和彦と…幸せになりたい」
和彦の目を真っ直ぐに見つめ、繰り返す。和彦は、小さく息を吐いた。
『長谷倉』のカウンターで浩二郎とふたり、織江は酒を酌み交わしている。
「今日は、店を開けないのか?」
開店時間はとうに過ぎているというのに、暖簾は仕舞われたままだ。
「えぇ。最近は立ち仕事もつらくて…。そろそろ、この店も畳もうかと思ってるの」
「それも、いいかも知れないな。俺達が一緒になれば、わざわざ君にそんな苦労をさせなくても済むんだし…」
浩二郎は、空になった杯を織江に差し出した。しかし、織江は動かない。
「どうした?」
「…そのことで、あなたにお話があるんです。あたしと…別れて下さい」
織江の言葉に、浩二郎はぎょっとした。
「どういうことだ!?」
「あなたと別れて、この店も畳んで…母方の親戚がいる山梨にでも引っ込もうかと思ってるんです」
「な、何をいきなり…どういうつもりだ!」
浩二郎は、織江へと掴みかかる。織江は彼の腕から逃れるように抗ったが、浩二郎からきつく抱き締められた。
「俺は…そんなこと認めないぞ!そんなこと認めないからな!!」
「お願い…。お願いだから、あたしと別れて下さい!」
浩二郎の腕の中、織江は繰り返す。
〈娘を想う母の愛。織江は知永子の幸せのために、自らが身を引く決意を固めていた。
しかしそれは、更なる悲劇の引き金に過ぎなかったのである。〉
つづく




