第23話『縺れ合う運命の糸』
「お帰りなさい」
和彦の母那代子は、笑顔で和彦を迎え入れた。少々少女趣味的な家具でまとめられたリビングのソファに、和彦を座らせる。
その日、和彦は品川にある実家へ顔を出すよう、母から言われていたのだ。
「母さん、一体何だって言うんだい?」
和彦からの問いに、那代子は一枚の封筒を差し出して見せた。
「何だよ、これ?」
「いいから、見てご覧なさい」
「…えっ。これ…」
封筒を開けた和彦は、戸惑いの声を上げる。中身は、見合い写真とその釣書だった。
「お花のお師匠さんの知り合いのお姉さんの義理の弟が住んでいるお家のお隣りの娘さんのお友達なのよ。綺麗なお嬢さんでしょう。まだ二十三才で、大学を卒業してから花嫁修行に励んでいるらしいの」
もはや何の繋がりがあるのかも解らないような希薄な縁由を淀みなく説明しながら、那代子は満面の笑みを浮かべる。
「…悪いけど、断ってもらえないかな」
和彦は、そう言って封筒を押し返した。
「そんなこと言わないで、とりあえず会ってみるだけ会ってみなさいよ。気に入らなければ、その時にお断りすればいいんだし…」
「いや…母さん、俺はまだ…」
「何言ってるの。あなただって、来年は三十になるのよ。そろそろお母さんを安心させてちょうだい。お父さんが亡くなって以来、女手ひとつであなた達兄弟を育ててきたお母さんの、最後の楽しみなのよ」
「……」
「…もしかして、あなた…お付き合いしている女性がいるの?」
那代子は、和彦の顔を覗き込み尋ねた。
「そうなのね。それなら、それでいいのよ。全く水臭いわねぇ。早く言ってくれれば良かったのに」
「まぁ、その…」
「でもそういう女性がいるんなら、ぜひ会ってみたいわ。今度、うちに連れていらっしゃいよ。伊原家の嫁に相応しいお嬢さんなのかどうか、お母さんが見極めてあげるわ」
「まあ、そのうちね…」
和彦は、曖昧に返答を濁す。那代子は
「楽しみにしているわね」
と笑った。
「兄さんも大変だね」
帰り際、和彦は弟の和明から声をかけられた。
「何だ…。聞いてたのかよ」
「…まさか、聞かなくても解るよ。ここ最近、母さんは兄さんが来るってずっとはしゃいでたんだからね」
「そうか…」
和彦は、苦笑いして溜め息をつく。
「でも、兄さんもはっきり言えばいいのに。結婚を前提に付き合ってる彼女がいるって。知永子さんだっけ…いい人じゃないか」
「……」
「まさか、別れたのかい?」
「いや、別にそういうわけじゃないんだ…」
和彦は、作り笑いでかぶりを振る。
知永子と知香子。和彦の中には、ふたりの女性がいた。
和彦は、苦しんでいた。知永子のことは、もちろん愛している。しかしその一方で、日増しに知香子の存在がその比重を増しつつあった。
『花宴』の控え室、知香子は鏡に向かってメイクに清を出していた。丹念に、マスカラを塗り込んでいく。その時ドアが開いて、着物姿のママが顔を覗かせた。ママは、その傍らに見知らぬ女を従えている。新人ホステスだろう。
案の定、ママは女の肩を抱き
「紹介するわね。今夜からうちで働くことになった和美ちゃんよ」
と言った。
「昼間はOLをしているらしいから、週末や休みの前日だけの勤務になると思うけど、色々教えてあげてちょうだいね」
それから声を落として
「あんまり虐めたりしないでよね。結局、彩華ちゃんも店を辞めちゃったし…ヘルプにしたって貴重な戦力には違いないんだから」
と続けた。
「ほら、あんたからもお姉さんにご挨拶なさい」
「初めまして、和美です。こうゆうお仕事は初めてで、足を引っ張ってしまうことも多々あるかと思いますけど、よろしくお願いします」
ママに促された女は、礼儀正しく言って頭を下げてくる。知香子は、鏡越しに
「よろしく」
とだけ言って、再びメイクに専念した。ママが顔をしかめているが視界の隅に映ったが、気づかないふりで通した。
「…とにかく、よろしく頼むわよ」
ママはそう言い置いて、控え室を後にした。残された女ー美和は知香子の背中を見つめ、ギラリとその瞳を輝かせる。
「そうか…」
『長谷倉』のカウンター席に座った浩二郎は、グラスを空にしてから呟いた。織江は、ビールを注ぎ足しながら
「そうなのよ…」
と溜め息を漏らす。
「…まさか、再び知永子と知香子さんが同じ男性を奪い合っているだなんて…。何て運命の皮肉なのかしら」
「全く…そうだな」
言いながら、浩二郎も嘆息を禁じ得なかった。
「まあ…あなたにとってはどちらも愛する娘さんなんだから、そのどちらかを選べだなんて酷な話だとは思うけど…。やっぱり、あたしとしては知永子に幸せになってもらいたいのよ」
カウンターへと肘をつき、織江は嘘偽りのない思いを口にする。
「何たって…和彦さんは知永子があれ以来初めて、愛することの出来た男性なんだから……」
「あぁ…。しかし、どうしてまた…」
浩二郎は、苦し気に呻いた。織江の言う通り、浩二郎にとっては知永子も知香子も愛すべき血を分けた娘である。そのふたりが憎み合っていることだけでさえ心苦しいというのに、また再び同じ男を取り合うことになろうとは…。
浩二郎は、織江を愛しながらも澄江とも別れられずにいる、自らとの因果を感じずにはいられなかった。
「なあ、織江…」
「えっ…何?」
「…俺達も、そろそろはっきりさせないか?」
「……」
「…今のままのどっち付かずの関係は、やはり良くないだろう。俺は…残り少ない人生をお前とやり直したいんだ」
「あなた…」
浩二郎の言葉に、織江は唇を震わせる。カウンター越しに、浩二郎と見つめ合った。
「…澄江とは別れる。だからお前も、俺と一緒になることをきちんと考えてはくれないか」
浩二郎は、織江の手を取り宣う。
「ほ、本当に…?」
「あぁ」
浩二郎は、力強く頷いた。織江は、カウンターの中から出て浩二郎へとしなだれかかる。
「嬉しいわ…。まるで、夢でも見ているみたい……」
ふたりは、強く抱き合った。
「知永子が…知香子ちゃんと、再び同じ男を奪い合っているですって……」
外でふたりの会話を盗み聞きしていた澄江が呻いた。手にしていたハンカチをギリギリと噛んで、唇を紫にする。
「知香さん、お疲れ様です」
閉店後、知香子は和美から声をかけられた。
「…あぁ、お疲れ」
知香子は、あからさまに気のない返事を返す。今日も、和彦と落ち合う予定だった。早く、彼に会いたい。
「あたし、知香さんを尊敬しているんです。もし良かったら、この後どこかにご一緒出来ませんか?早く知香さんのお力になれるよう、色々とお話が伺いたくて…」
「悪いけど、この後予定があるから」
知香子は手早く身支度を整えると、和美の返事を待たずに控え室から飛び出して行った。
「…主任は、あたしのものよ。知永子にも…あなたにも渡さないんだから」
控え室に残された美和は、唇を噛み締め呟く。
「知永子に、お客様らしいわ」
デスクに座ってパソコンを打っていた知永子は、受話器を押さえた美和に言われた。
「お客様?」
「えぇ、ロビーで待っているそうよ」
知永子は、首を傾げつつ一階のロビーへ向かう。
「あっ…」
ロビーのソファに腰かける澄江の姿に、知永子は心底驚いた。
「何で、ここに…」
知永子の問いかけに、澄江がにっこりと笑う。
つづく




