第20話『不吉な予感』
「…俺は一体、どうすればいいんだ……」
ベッドの上で、和彦は呟いた。
「…忘れればいいのよ。この夜のことなんて、綺麗さっぱりと忘れてしまえばいいんだわ」
和彦の隣り、胸にシーツを巻いただけの知香子が答える。
「……君は、それでいいのか?」
和彦の問いに、知香子は黙り込むんだ。
「なぁ…、本当にそれでいいって言うのかい?」
和彦は、知香子の肩を揺さぶり問いつめる。
「……よくなんかないわよ。でも、今ならまだ戻れるわ。何もなかった頃に、戻れるでしょう」
知香子は、和彦の顔を見つめて必死に笑顔を装った。
「いや……」
「…えっ!?」
「…戻れないよ。戻れるわけがないじゃないか。少なくとも…俺の中では始まってしまったんだから……」
「…和彦」
「知香子…」
ふたりは、裸のまま互いを見つめ合う。
「嬉しいわ…。初めて、名前で呼んでくれたわね……」
「あぁ…知香子……」
ベッドの上、ふたりは絡まり合い、貪るように再び愛を確かめ合った。
〈知香子は、和彦を本気で愛し始めてしまっていた。それが、まさか姉の恋人だとも知らずに…。
この夜を契機に、途切れることのない姉妹の因縁は更なる深みへと足を踏み入れていくのであった。〉
「どうしたの、寝不足?顔色が優れないみたいだけど…」
翌日、会社の女子更衣室で制服へと着替えていた知永子に、美和が話しかけてくる。
「えぇ…ちょっと考え事をしてたら、何か寝つけなくなっちゃって……」
知永子はリボンの結び目を整えながら、ロッカーの鏡で自分の顔を確認した。確かに、少し疲れているように見える。目の下が、うっすらと黒ずんでいた。
「何があったのよ。主任の件も何とか丸く収まったことだし、何を考え込む必要があるっていうの?」
「その…和彦のことなんだけど……」
「何?何があったって言うのよ?」
美和は、瞳を輝かせる。
「…別に、何があったってわけじゃないの。ただ…何だか気になるの。何か…彼が、大事なことを隠しているような気がして……」
「ふ~ん…。それはきっと、女の第六感ね」
「…女の、第六感?」
「そう!知永子、あんたは女の鋭い嗅覚で嗅ぎつけてしまったのよ」
「どうゆうこと?」
「決まってるじゃない。女よ、女。それ以外、何があるって言うのよ!」
不安がる知永子の顔を覗き込んで、美和は宣った。
「そんな、まさか…和彦に限ってそんなこと……」
「そう思うんなら、彼の携帯を見てごらんなさい」
「け、携帯!?」
「そう、携帯。あれを見れば相手が何を考えているのか、手に取るように解るんだから。携帯は持ち主の心を語るのよ」
知永子の両肩を掴んでけしかける。
「そんなこと…出来ないわ」
「…まあ、実行に移すかどうかは知永子次第だけど。もしそうゆう女がいるんなら早い段階で潰しておくに限ると、あたしは思うわね」
そう言い残し、美和は更衣室を後にした。残された知永子は、今一度鏡の中の自分と対峙する。
彼に、わたし以外の女がいる!?
鏡に映った、もうひとりの自分に問いかけた。
〈知永子の胸に芽生えたかすかな疑念。やがてその疑念は、彼女の心を焦がす火種へと姿を変える。
そしてそれは、知永子自身も知らなかった自らの夜叉の一面を炙り出す、地獄の業火へと発展していくのであった。〉
「おい、ちょっといいか?」
いそいそと帰り支度をしていた知香子に、仁が声をかける。
「悪いけど、急いでるの」
知香子は鏡を見つめたまま、素っ気なく返した。念入りに、口紅を引き直す。
一秒でも早く会いたい。そして、彼に抱かれたかった。
「…あの男か」
「だったら何?」
「一体、どうしたって言うんだ。ひとりの男にそこまで執着するなんて…お前らしくないぞ!」
仁は、荒々しく知香子へと詰め寄る。
「そうかも知れないわね」
「えっ!?」
「…でも、今のあたしには自分らしさなんてどうでもいいのよ」
鏡越しに、知香子が笑った。
「だから…周りの人間からどう思われようと、気にもならないわ」
「知香子…」
「あたしは、彼を愛してる」
知香子は、きっぱりと言い切った。捨てられた子犬のように立ち尽くす仁を控え室に残して、和彦の元へと向かう。
「和彦!」
待ち合わせのバーに駆け込んだ知香子は、和彦に手を上げた。
「会いたかったわ」
言いながら、和彦の隣りに座る。
「あぁ、俺もだよ」
和彦は、知香子の手を握り言った。知香子は、和彦の肩へとしなだれかかる。
「…何故かしら、つい今朝方別れたばかりのはずなのに、もう十年も離れ離れでいたみたい…。あなたに…少しでも早く会いたかったわ」
「俺も…今日一日君のことが頭から離れなかった」
「あたしも…」
人目もはばからず、熱く見つめ合う。
「…もう、我慢できないんだ。なあ、いいだろう?」
「えぇ。あたしも、早くあなたから愛されたいわ」
和彦は、知香子の手を取り立ち上がった。ふたりは、ぴったりと体を密着させながらバーを出ていく。
まさか、その様子を美和が凝視しているとは夢にも思わずに…。
その週の日曜日、知永子は久しぶりに和彦のマンションを訪れていた。レンタルビデオを借りてきて、ふたりでそれを観賞する。
「夕飯どうする?」
見終わったビデオをデッキから取り出しながら、和彦が尋ねてきた。
「どこかに食べに行こうか?」
「わたしが作るわよ。お祝いがしたいってところ言ってたのに…結局なあなあになってるでしょう?せめて、これぐらいはさせてちょうだい」
腕まくりしながら、知永子はキッチンに向かう。冷蔵庫を開けて、中身を確かめた。
「…そうだな。何かさっぱりしたものがいいな。最近、外食続きで胃がもたれ気味なんだ」
「解ったわ。じゃあ、冷製パスタでいい?トマトとバジルのやつ。和彦、好きでしょう?」
「あぁ…何か足りない具材があったら買ってくるけど」
「じゃあ、お願い」
知永子は、手早くメモを書いて和彦に手渡す。
「ちょっと行ってくるよ」
メモを片手に、和彦は部屋を出た。
下拵えを始めた知永子は、肝心のパスタが切れていることに気づく。和彦に連絡を取ろうと携帯を鳴らしたが、それはリビングのソファへと置き去りにされていた。
「もう…」
知永子は、溜め息をつく。その時、ふいに美和の言葉を思い出した。
携帯は持ち主の心を語るのよ。
今なら、それを実行に移すことが出来るのだ。そう思ったら、居ても経ってもいられなくなる。
ちょっとだけ…。
知永子は自らにそう言い訳し、和彦の携帯へと手を伸ばした。
つづく




