第19話『動き出す運命』
同じ日、和彦と部長は取引先の会長から、直々に呼びつけられた。
「失礼致します」
会長秘書に連れられ、ふたりは絨毯で敷き詰められた会長室へと足を踏み入れる。
「やぁ、わざわざ済まないねぇ。こんなところにまで足を運んでもらって」
白髪に白い口髭を生やした会長は、鷹揚な口調でふたりを出迎えた。ふと隅の方を見ると、和彦といさかいを起こした例の専務が、青ざめた顔をして起立している。
昨日までは完全に取りつく島もなかったのに、この対応は何を意味しているのだろうか。事の成り行きを掴めず、和彦は困惑した。
「…本日は、一体どのようなご用件でございますでしょうか?」
強張った表情の部長が、殊更丁寧な口調で話の口火を切る。
「先日、破談になったという取引のことなんだが…取り消しにしてもらえないかね」
「…はい!?」
「つまり、今まで通り取引を続けさせてもらいたいということだ」
会長の言葉に、和彦は耳を疑った。
「…と言いますと?」
思わず口を挟み、部長から咳払いされる。
「あっ…すいません!」
「いやいや、いいんだ。気にせんでくれ。とにかくこの馬鹿が公私混同で支離滅裂なことを言い出したそうだが、ここはワシの顔に免じて何とか水に流してもらえないだろうか」
会長は席に座ったまま、頭を下げてくる。
「会長!頭をお上げ下さい。こちらとしても、取引の再開は願ってもない申し出でございます。何とお礼を申し上げればいいやら…とにかくありがとうございます」
和彦と部長は恐縮し、深々と頭を垂れた。
「いやいや、そう畏まらんでくれたまえ。仕事でしっかりと成果を見せてくれればそれでいいんだ」
「か、会長…しかしですね……」
「うるさい!この愚か者が!!会社の顔に泥を塗るような下劣な真似をしくさって!!」
意を決したように口を開いた専務の言葉を、会長の怒号が遮る。蛇に睨まれた蛙のように、専務は押し黙ってしまう。
「お前の処分は追って通達する。目障りだからさっさと出ていけ!!」
震え上がった専務をギロリと睨みつけて、会長が一喝した。
「ところで君、伊原くんだったかね」
去り際、和彦は会長から呼び止められる。
「は、はい!!」
「『花宴』の知香という娘とは知り合いなのかね?」
「えっ!?」
「いやぁ…君の濡れ衣を晴らすと言って、いきなり直談判しに来たんだよ。最初は面喰らったが、なかなか肝の座った面白い娘だった」
そう言って、会長は豪快に笑った。
取引再開のニュースは、その日のうちに社内を駆け巡った。
知永子は、ほっと胸を撫で下ろす。ここ数日の和彦の憔悴ぶりは、目に余るものがあった。これで、彼も仕事に邁進出来るようになるに違いない。
「和彦!」
和彦の退社を待ち伏せていた知永子は、会社から出て来た和彦に声をかけた。
「あぁ…知永子」
「聞いたわ、取引再開だってね。おめでとう」
「あ、あぁ…ありがとう」
「それより、今日これから時間ある?『長谷倉』に寄れないかしら。お祝いがしたいのよ」
「ごめん…。今日は、これから寄らなきゃいけないところがあって……」
「あっ…いいのよ、別に。謝ったりしないで。また今度…和彦の都合がいい時にでも、ちゃんとお祝いさせてちょうだいね」
知永子は和彦を気遣い、微笑む。
「あぁ…用が済んだら、夜にでも連絡するよ」
「えぇ…解ったわ」
そう言って、知永子は和彦を見送った。スーツの内ポケットから取り出した携帯を操作しつつ、和彦は丸の内の雑踏へと紛れていく。
「どうしたのよ、知永子」
織江に肩を叩かれ、知永子は我に返った。
「別に、何でもないわ」
「あら、そう?でも、何か心ここにあらずって感じよ。和彦さんのお仕事も事なきを得たんでしょう?何を思い悩むことがあるっていうのよ」
「えぇ…そうね」
言いながらも、知永子は言葉にならないかすかな違和感を感じていた。何もかもが好転したはずなのに、どこか気の晴れない様子だった和彦が気になる。
〈それは女の勘だった。愛する男の、ほんの些細な変化さえも見逃すことができない動物的な女の性だった。
しかし知永子の不安を嘲笑うかの如く、この夜、運命は大きく動き出してしまうのであった。〉
「嬉しいわ。まさか、あなたからのお誘いをもらえるだなんて…」
待ち合わせのバーで、知香子は和彦の隣りのスツールへと腰かける。
「済まない…。いきなり呼び出したりなんかして…」
「いいのよ、気にしないで」
「それより、一体どういうことなんだ?今日、取引先の会長に呼び出されて、君から直談判されたって聞かされたよ」
「あぁ…そのことね」
バーテンから差し出されたグラスを手に、知香子は笑う。
「たまたま耳にしたのよ。あなたが、あたしと客とのいざこざのせいでトラブルに巻き込まれてるって。ほんの、恩返しのつもりだったんだけど…」
「でも、どうやって?」
「ふふ…六本木の夜の女の人脈を、甘く見ないでちょうだい。あなたにとっては雲の上のような存在の人なのかも知れないけど、あたしにとっては常連客のお友達だったの。別に、大したことじゃないわ」
「君は…本当に、不思議な女性だ。俺には…解らないよ」
「実はね…あたしにも解らないの」
言いながら、知香子は和彦の手に自らの手を重ねた。
「ただ…あなたの力になりたかっただけ……」
和彦の瞳を真っ直ぐに見据え、そっと囁く。ふいに、知香子の唇を和彦のキスが塞いだ。
「あっ、ご…ごめん!」
和彦は、慌てて知香子から離れる。自分でも、今しがたの自分の行動が理解できなかった。気づけば引き寄せられるように、彼女の唇へと吸いついていたのだ。
「俺は今、自分がどうしたいのかさえ解らない。ただ…君のことをもっと知りたい……」
和彦は、嘘偽りのない心情を吐露した。知香子は
「あたしも…あなたのことをもっと知りたいわ…」
と言って微笑む。
そしてふたりはどちらからともなく指と指とを絡ませ合い、飽きることなく互いを見つめ合った。
つづく




