第18話『彼の窮地』
翌日、和彦は朝一番に部長室へと呼び出された。
「すいません、伊原です。何かご用でしょうか?」
尋ねる和彦に対し、部長は苦虫を噛み潰したような表情で
「全く、お前は何てことを仕出かしてくれたんだ!!」
といきなりの叱責を飛ばす。
「はい!?わたしには、一体何のことだか…」
戸惑う和彦の言葉を遮るように、部長が机を叩いた。
「…昨日、六本木のあのクラブに行ったそうだな…」
「は、はい…」
今いち話の筋が掴めない。何故に自分が昨夜『花宴』に出向いたことを、部長が知っているのだろうか。
「そこで、揉め事を起こしたらしいな…」
「はい、確かに。でも、それが……」
「お前、その相手が誰だか解ってないのか!?今回のクライアントの専務だったんだぞ!!」
「えっ…そんな…」
部長の言葉に、和彦は言葉を失う。
「お前の社員バッジを見て、うちの社員だって気づいたらしい…。今回の件は考え直したいと、今朝先方からお達しがあったんだ」
「まさか、そんなことが……」
「お前の軽はずみな行動のせいで、全てが白紙だ…」
部長は、そう言って頭を掻きむしった。和彦は、言葉もなくその場に立ち尽くす。
「和彦、大丈夫なの?」
仕事帰りに『長谷倉』を訪れた和彦に、知永子が尋ねる。和彦は項垂れたまま、力なく首を振った。
「今日一日、会社中その話で持ちきりだったのよ。あんなに順調だったはずなのに、何でいきなり…」
「…全部、俺のせいなんだ」
和彦は、苦し気に呻く。
あの後、土下座も辞さない覚悟でクライアント先まで赴いて謝罪を試みたのだが、門前払いで取引の中止を言い渡された。和彦が長年暖めてきたプロジェクトは、一気に暗礁へと乗り上げてしまったのだ。自らが蒔いた種とは言え、悔やんでも悔やみ切れない。
「和彦……」
かけるべき言葉も解らず、知永子はただただ和彦の苦悩の表情を見つめる他なかった。
「一体、何があったって言うの?」
和彦がいる間は黙ってふたりを見守っていた織江が、彼が帰った後で聞いてくる。
「わたしも、よく解らないの。ほんの昨日までは何もかもが順調に進んでいたはずだったのに…今日になっていきなり、クライアントの方が一方的に取引の中止を申し渡してきたんですって」
「まあ!何てこと!!よりにもよって何でそんなことに!?」
織江の問いかけに、知永子は嘆息を漏らした。
「だから解らないのよ。社内の噂によると、和彦がクライアント先と何かトラブルを起こしたかららしいんだけど…和彦に聞いても何にも答えてくれなくて……。本当に、一体何があったのかしら」
「知永子!こんな時こそ、あんたがしっかりしなきゃ」
項垂れる知永子に、織江が発破をかけてくる。
「お母さん!?」
「例え何があったにしても、あんたがしっかりと和彦さんを支えてあげなきゃ。だって、和彦さんはあんたにとってかけがえのない恋人なんでしょう」
知永子の手を取り、優しく叱咤してきた。
「…そうよね。わたし、和彦を信じる。彼を…支えていくわ」
母娘は、ひしと抱き合った。
〈母の胸に抱かれ、知永子は和彦の支えになることを強く誓った。しかし、皮肉にもこの一件が知香子と和彦との仲を繋ぐ契機へと進展していこうとは…。
複雑に縺れ合う姉妹の因縁の糸はますます絡まり合い、混迷を深めていくのであった。〉
同じ頃、知香子は『花宴』のVIPルームで、和彦の一大事を知ることになる。
「知香、昨日は大変だったらしいな」
座り心地のいいソファに陣取った知香子の常連客の葛西が、知香子にグラスを作らせながら言った。
「あら、さすが葛西社長。相変わらず耳が速いのね」
知香子は、笑いながらグラスを差し出す。
「しかも、その時知香の危機を救った紳士がいたらしいじゃないか?知香、お前のこれか?」
葛西は、親指を突き立ててニヤリと笑った。
「嫌だわ。ただのお客様よ」
「そうか…ならいいんだが。何でもその紳士が、そのことが原因で窮地に追いやられているらしくてな」
その言葉に、知香子の動きが止まる。
「えっ!?どうゆうこと?」
「何だ…やっぱり気になるのか?」
「別にそんなわけじゃないけど、ただ…そんな言い方されたら気になるじゃないの。一体、何があったの?」
知香子は、平静を装いつつ尋ねる。
「まさか、そんなことが…」
葛西から話を聞き出した知香子は、言葉を失う。
「まぁ、運が悪いって言ったらそれまでだが…その男も随分と軽率な行動をとったもんだ。よりによって取引先の重役に、喧嘩を売るとはな……」
「ねぇ…」
そう言って、知香子は葛西の太ももに両手をすり寄せる。
「どうした?」
「その取引先の会長って、確か葛西社長のゴルフ仲間よね?紹介してもらえない?」
「あぁ、そうだが…。何だ、やっぱりそいつのことが気がかりなのか?」
「違うわよ。ただ、寝覚めが悪いじゃない。自分と客とのいざこざに巻き込んだあげく、そんな迷惑までかけちゃっただなんて…」
「…まあ、他ならぬ知香の頼みだからな。聞いてやらんこともないが……」
「ねぇ、お願いよ。もちろん、お礼はたっぷりとさせてもらうから」
葛西の太ももをゆっくりと撫で回しながら、耳元で囁いた。
「だから…あたしのお願いを聞いてちょ・う・だ・い…」
知香子の甘い声音に、葛西の相好が崩れる。
三日後、珍しく午前中から起き出した知香子は、身繕いに清を出していた。葛西の口利きによって面会の約束を取りつけた、和彦の取引先の会社の会長に会うためだ。
クローゼットに並ぶ大量の衣服の中から、うっすらとピンクがかったシャネルのツィードスーツを取り出す。体の線が浮き出るタイトなデザインだが、けして下品な感じにはならない。ここぞという時の、知香子の勝負服だ。
仕上げに香水をひと振りし、タクシーを拾おうとマンションを出たところで仁と鉢合わせる。
「こんなところでどうしたのよ?」
「どこに行くんだ?」
仁は、知香子の進路を塞ぐように立ちはだかってきた。
「あんたには関係ないでしょ」
そう吐き捨てて、仁の体を押し退けようとする知香子の腕を彼が掴む。
「離しなさいよ、どうゆうつもり?」
「なぁ、あの男のためか?」
「…だったら、何だって言うのよ」
「お前らしくないぞ。男のために…自分の体を捧げるつもりなのか?」
「ふふ…違うわ。狙った男を落とすために、自分の体を利用するだけよ」
仁の表情が、哀しげに歪む。
「そんな…結局は、同じことだろう」
「とにかく、あんたには関係ないんだから。離してよ!」
強引に仁の腕を振り払って、知香子はちょうど走ってきた空車のタクシーに手を上げた。追いすがろうとする仁を置き去りに、車内へと乗り込む。
「…絶対に、あなたをものにして見せるわ」
タクシーの車窓から流れる街並みを眺めつつ、知香子はひとりごちた。
つづく




