第17話『心の友傷』
「おめでとう!」
言いながら、知永子は和彦のグラスに自らのグラスを打ちつける。
会社の近くにある行きつけのバーで、ふたりだけの祝勝会を開いていた。先日の接待の甲斐もあってか、和彦が長年暖めていた企画が、本格的に動き始めたのだ。
「ありがとう」
「でも…これからますます忙しくなるのよね」
「あぁ…これから当分の間は、知永子に寂しい思いをさせることになると思うけど、許して欲しい」
「そんなこと気にしないで、和彦とは毎日会社で会えるんだし…。それより、体調には気をつけてね。体を崩したら元も子もないんだから」
知永子は、和彦の負い目を和らげるように微笑みかけた。何よりも、和彦の気遣いが嬉しい。
「ありがとう…。知永子のためにも頑張るよ」
和彦は、そう言って知永子の瞳を見つめた。
「えっ!?」
「本当は、もっと落ち着いてからにしようと思ってたんだけど……」
「な、何…?」
知永子は、自らの鼓動が早まっていくの感じた。和彦とは、次の言葉を待つ。
「…今回の仕事が上手くいったら、知永子とのことをきちんと考えたいんだ」
「和彦…」
「だから…知永子も、俺との将来を考えて欲しい」
和彦の言葉に、思わず目頭が熱くなった。
「和彦…嬉しいわ」
「なぁ、知永子…」
ふいに、和彦が知永子の手を握る。知永子の肩が、小さく震えた。
「…今日は、泊まっていけないかな?俺達、付き合い出してからもうすぐ三年だろ。そろそろ……」
「か、和彦…」
「知永子が…そういうことに対して慎重なのは、俺も充分理解しているつもりだよ。だから、今まで知永子の気持ちを尊重してきた。ただ…今夜は俺を励ましてくれないかな。知永子が俺に全てを捧げてくれたら…俺、これまで以上に頑張れる気がするんだ」
「…ご、ごめんなさい。わたし、まだ……」
知永子は、和彦の掌の中からそっと手を引く。伏し目がちに、言葉を濁した。
「い、いや…いいんだ。俺の方こそごめん。知永子がその気になるまでいつまでも待つなんて言ったくせに、交換条件みたいなことを言い出したりして……」
気まずさを紛らすように、和彦は笑って見せる。
しかし、知永子は見逃さなかった。その後でビールを一気に飲み干した和彦が、密かに溜め息を漏らしたことを。
〈知香子の卑劣な策略によってもたらされた陵辱の夜の記憶は、未だに知永子を苛み続けていた。
そしてそれは、知永子と和彦との間に存在する小さな痼りでもあった。〉
「知永子、ランチに行かない?」
知永子は、同期入社の友人である山岡美和に肩を叩かれた。ふたり連れたって、会社を出る。
前々から行こうと話していたパスタ屋の行列に並んだ。
「最近どうなの?」
席につくのと同時に、美和が聞いてくる。
「えっ!?」
「とぼけないで、伊原主任とのことよ。上手くいってるの?」
「まぁ普通よ、普通」
「ふ~ん…」
「美和の方こそどうなの?この前の合コンで知り合ったお医者様とはどうなったのよ」
話をはぐらかすように、美和に話題を振った。
「えっ…あぁ、あいつ?全然駄目よ。あいつ、あたし以外にも女がいっぱいいるみたいで、この前携帯を見てみたら女の番号が出るわ、出るわ…。この年で暇潰しのお手軽女に成り下がるなんて、真っ平御免よ」
最初に出されたミニサラダのトマトをフォークでつつきながら、美和が笑った。
「あら、そうだったの…。それは残念だったわね」
「まぁ、別にあたしのことはいいのよ。それより…」
美和は、そこで一端言葉を切る。
「知永子の方こそ気をつけなさいよ。あんた達、まだ…なんでしょう?今時プラトニックな純愛なんて、流行らないんだからね」
「大丈夫よ、彼は…」
続いて運ばれてきたサーモンとほうれん草のフィットチーネをフォークに巻きつけながら、知永子は口ごもった。
「彼は、そんな人じゃないんだから…」
「何言ってるのよ。男ってものは、誰だって一人でも多くの女を抱きたくてウズウズしてる野獣なんだから。それに、主任は女子社員達からの人気も高いのよ。彼女の地位に甘んじて図々しくお預け喰らわせ続けていたら、他の女にかっさらわれちゃうわよ」
「そんな…」
「冗談よ、冗談。だから、そんな思い詰めた顔なんてしないで。あたしは、あんた達の仲を応援してるの。だから、こうして厳しい意見も言ってあげてるわけよ」
美和は笑う。
「でもまぁ、気をつけるに越したことはないわね」
戸惑う知永子をさらに煽るように、そうつけ加えた。
気づけば、和彦は『花宴』のドアの前に立っていた。
知香子の怪しい微笑みが忘れられない。常夜灯に群がる深夜の蛾のように彼女の魅力に吸い寄せられ、ここまで足をハコンデしまったのだ。
意を決したようにドアを開け、店内に足を踏み入れる。瞬間、怒号が耳に飛び込んできた。
「何かあったのかい?」
たまたま近くにいたホステスに尋ねる。
「さあ…」
声をかけられた彩華は、意地の悪い笑みを浮かべてククッと笑った。奥のテーブル席で、客とホステスが何やら揉めている。
ホステスは知香子だ。
「ふざけるな!!」
男の怒鳴り声と共にグラスが倒れ、知香子の足元を汚す。
「お高く止まりやがって!商売女なんだから、胸ぐらい素直に触らせたらどうだ!!」
「お生憎様。悪いけどあたしは、はした金に釣られて体を投げ出すような陳腐で安上がりな女じゃなくてよ。手軽にお触りしたいんなら場末のスナックか、風俗にでも行きなさいよ!」
男は激しい剣幕でまくし立てたが、知香子の方も負けていない。
「お、お前!!愚弄しやがって。この俺を誰だと思って…」
激昂した男は立ち上がり、拳を振り上げた。
「止めろ!!」
すんでのところで駆けつけた和彦が、男の手首を掴む。
「おいお前!何をしやがる!!」
「彼女も、嫌がってるじゃないですか」
男は尚も凄んだが、和彦は毅然と言い返す。
「ち、ちくしょう。馬鹿にしやがって…覚えてやがれ!」
そんな捨て台詞を残して、男はそそくさと店を出ていった。
「ごめんなさいね。変なことに巻き込んでしまって…」
知香子は、和彦の隣りに腰かけ言った。
「いや…別にいいんだ。君の方こそ大丈夫だったかい?」
「あぁ…あんな客、もう慣れっこよ。それより、こうしてまたお店に足を運んで来てくれたこと…嬉しいわ」
「…あれからずっと、君のことが頭から離れないんだ」
「あら嬉しい!」
知香子は、手を叩いて喜ぶ。
「でも…一体何で俺なんだ。しがないサラリーマンでたいして金があるわけでもない、あげく彼女持ちの俺なんかに…」
「解らないわ…」
「解らない!?」
「えぇ…勘って言えばいいのかしら。あなたの顔を見た時に、ピンときたのよ」
「勘かぁ…」
和彦は、思わず苦笑した。
「何で笑うの?」
「だって…この前君、自分には男運がないって言ってただろう?そんな女性からピンときたって言われたって、正直微妙だよ」
「あぁ…それはそうよね」
知香子は笑った。和彦も、釣られて笑う。
「…本当わね、笑わないでよ」
「あぁ…」
「昔好きだった男性に、似てるのよ…」
知香子の言葉に、和彦は吹き出した。
「ひどいわ。笑わないって、約束したじゃない」
知香子は、脇腹をつついて拗ねて見せる。
「ごめんごめん、まさか…君の口からそんなロマンチックな言葉が出てくるだなんて、思ってもいなかったからさ」
「あら、あたしだって初めからこんな風にすれていたわけじゃないもの。ロマンチックな思い出のひとつくらいはあるわよ」
「…初恋だったのかい?」
「えぇ、初恋だったわ」
「その彼とは?」
「…彼は、あたしを残して死んでしまったわ。あたしはとても、彼のことを愛していたのに……」
「…そう、だったんだ。済まない。辛い話をさせてしまって…」
「別にいいのよ。もう、ずっと昔のことだから……」
言いながら、知香子は不思議な気分になった。何故、こんなにも素直に話せるのだろう。こんなこと、今まで誰にも明かしたことがなかった。
「だったら…」
「えっ!?」
「…何で、泣いてるの?」
和彦は、知香子の顔を覗き込み尋ねてきた。彼に言われて初めて、知香子は自分が泣いていることに気づく。涙を拭いながら、笑って見せた。
「何故かしらね…」
「君はきっと…本当は、純粋な女性なんだね」
「止めてよ、そんなことないわ。買い被り過ぎよ」
知香子は笑い飛ばしたが、和彦の言葉に胸が締めつけられた。
この男をものにしたい。体の奥底から、強くそう思った。
〈知香子もまた、和彦に惹かれ始めていた。
こうしてひとりの男を巡る姉妹の愛憎劇は、新たなる局面を迎える。それはやがて、周囲の人間達の運命をも飲み込む激流の渦へと発展していくのであった。
つづく〉




