第16話『新しい始まり』
平成十年四月ー
知香子との壮絶な修羅の季節から早九年。知永子は無事大学を卒業し、丸の内に自社ビルを構える一流商社のOLになっていた。あの時の約束通り夜は織江の店を手伝いながら、充実した毎日を送っている。
その夜も仕事を終えて帰宅した知永は、織江とふたりでカウンターに立っていた。
「…そう言えば、今日は和彦さんとのデートじゃなかったの?いいのよ、そちらの方を優先させても。店は、あたしひとりでも何とかなるんだから」
ひと段落つき、洗い物をしていた織江が思い出したように言う。
「違うのよ、あっちに急な接待が入ってしまったの」
布巾をかけた瓶ビール用の小さなコップを棚へと片しつつ、知永子は笑った。
「あらまぁ、大変なのねぇ」
「何でも社運をかけた一大プロジェクトらしくってね、最近やけに張り切ってるわ」
「そうなの…。じゃあ、しばらくはまだなのかしらね」
最後のコップをすすぎながら、織江は溜め息をついた。
「えっ!?」
「結婚よ、結婚。あんた達だって、付き合い初めてもうすぐ三年でしょう?何も急かすわけじゃないけど、そろそろそうゆう話が出てもいい頃なんじゃないかしら…」
「そんな、わたし達はまだ…」
「何を言ってるのよ、もう二十六でしょう。あたしだって今のあんたの年の頃には、あんたを産んでいたんだからね。いつそうなったって、ちっともおかしくない年齢なのよ」
「お母さんの頃とは、時代が違うのよ」
そうは言いつつも、本音では当然考えている。実際、和彦との間でもそのような話題が出ないでもなかった。
ただ、母にはきちんとした形で報告したいという気持ちがある。だから、あえてはぐらかしたのだ。
〈あれから九年。知永子は母とふたり、平穏で満ち足りた生活を送っていた。まさかこの幸せが、波間に築かれた儚い砂の城のように跡形もなく消え去ることになろうとは、夢にも思わずに…。
新たな修羅の季節は、確実に迫っていた。〉
「ふざけないでよ!この泥棒猫が!!」
六本木の高級クラブ『花宴』の控え室でメイクをしていた知香子は、同僚ホステスの彩華から詰め寄られる。彼女の恋人と一夜を共にしたのは、三日前のことだ。
「何よ、いきなり」
知香子は、鏡越しに艶然と微笑み返す。彩華は息を荒げ、知香子を睨んだ。怒りのためか、鼻の頭に脂汗が浮いている。
「聡と寝たんでしょ。客との旅行から帰って来てから様子がおかしかったんで、問い詰めたの。始めのうちは知らばっくれてたんだけど、最後には認めたわ。一体どうゆうつもりなのよ!!」
「そんな顔して詰め寄られたら、彼もさぞかし恐ろしかったでしょうね。まるで般若よ、しかも出来損ないの」
「ふざけないで!聡と、寝たんでしょう」
「えぇ、寝たわ」
知香子は、あっさりと認めた。逆に面喰らった彩華は、一瞬言葉を失う。
「三日前だったかしら。あんたが、ちっぽけな零細企業を経営していることだけが自慢の小銭入れとグアムだか、サイパンだかに行ってる間にたっぷりと愛し合ったわ」
「何でよ!」
彩華に聞かれ、知香子は返答に迷う。
彼女の男に惹かれていたわけでは、けしてなかった。あえてその理由を挙げるとするならば、彩華が前々から気に入らない女だったからとでも言うべきか。
「何で黙ってるのよ。何かしら、言ったらどうなの」
「…悪いけど、何も言うことがないのよ。別にあんたに悪いことをしたとも思ってないし、この先、彼とどうこうなろうとも思ってないから」
瞬間、知香子の頬が鳴る。彩華が、思い切り知香子の頬を張ったきたのだ。
知香子は、すかさずやり返す。彩華は、衝撃で倒れ込んだ。彩華のドレスが無様に捲れ上がり、下着さえ露になる。
「見苦しいわね。あたしに絡んでくる前に、自分を磨き直したらどうなの?彼、言ってたわよ。あんたとセックスしても、腐ったこんにゃくに入れてるみたいでちっとも気持ち良くなんかないって」
知香子の言葉に、彩華が床に突っ伏したまま泣き出す。
「あら失礼」
周囲のホステス仲間達からの非難の視線を背に感じつつ、知香子は悠々と控え室を後にした。
女達から嫌われるのにはとっくに慣れているし、気にもしていない。夜の世界を生きる女にとってそれは、ある種の名誉なのだ。
「知香さん、五番テーブルにご新規様お願いします」
ボーイの仁が、知香子にそっと耳打ちしてくる。知香は、知香子の源氏名だ。
「すぐに戻ってくるから。良い子にしててね」
それまでついていたテーブルの客に甘い囁きを聞かせてから、知香子は席を立つ。指定された五番テーブルににいたのは、年の離れたふたり連れだった。恐らくは、上司とその部下だ。
「初めまして、知香です。こちらよろしいかしら?」
知香子は、そう言って上司らしき年配の男の隣りに腰を滑らせる。手持ちのポーチの中からライターを取り出し、男の煙草に火をつけた。
「今日は、お仕事の帰りか何か?」
言いながら、さりげなく男の社員バッジに探りを入れる。丸の内に本社がある、一流商社のものだった。
「あぁ、大事な接待の帰りだよ。とりあえず上手くいったんで、頑張ったこいつにご褒美をと思ってね」
「まあ素敵。じゃあ、ぜひあたしも乾杯に加わらせて頂きたいわ」
男の太ももに手をやって、知香子は上目遣いに見上げて見せた。あからさまに鼻の下を伸ばした男が、知香子の胸の谷間を覗き見ながら頷いた。
「最近、お仕事の調子はいかが?相変わらずの不景気に、去年の増税でしょう?ここいらもさっぱり静かになってしまって…寂しい限りなのよね」
「まあ、うちは何とか持ってるよ。お陰で、こんなところにも来れるってわけだ」
「あら、景気の良いお話だこと。さすが一流の商社さんは違うのね。じゃあ、これから足繁く通って頂かなくちゃ」
知香子は、笑いながら男のグラスに自らのグラスを合わせた。
「おいおい。それはご挨拶だなぁ、知香ちゃん」
「だって…ねぇ、そちらのお兄さんからもまた連れてって下さいって、お願いして下さる?」
知香子は、ヘルプの莉乃に相手されている部下の男の方に話を振った。男は戸惑ったように
「えっ…」
と言い、頭を掻いた。
「知香ちゃん、残念だけどそいつに営業かけても無駄だよ。何しろ、我が社切っての堅物でね。愛しの彼女ひと筋なんだ」
「ぶ、部長…止めて下さいよ。俺は別に…」
「何だ伊原、照れることないだろう」
「そうよ。彼女ひと筋なんて、素敵なことじゃない。羨ましい限りだわ」
一瞬、呆れた顔を覗かせた莉乃の足をテーブルの下で踏みつけ、知香子はうっとりとそう宣う。
「そんなこと言って…どうせ部屋に帰れば二枚目の彼氏が待ってるんだろう?知香ちゃん」
「まさか…彼氏なんてとんとご無沙汰よ。それに実はあたし、男運ってものにはとことん見放されてるらしくって…自分でも嫌になっちゃうわ」
知香子は、言いながら男へとしなだれかかった。
「はい」
トイレから出てきた部下の男に、知香子はおしぼりを差し出した。こういった店に慣れてないらしい男は、少々面喰らったようにおしぼりを受け取る。
「それから、これも…」
知香子はポーチの中から名刺を抜き取り、男の背広の内ポケットへと潜り込ませた。一般の客には渡さない、プライベートの携帯番号が記されている方だ。
「お連れの方には内緒にしてちょうだいね。特別なお名刺だから…」
「えっ…!?」
「ねぇ、貴方のも下さらない?」
「あっ…はい……」
男は、慌てて自らの名刺を差し出す。
「伊原和彦さん…あらっ、主任さんなのね。その若さで主任だなんて、よっぽど有能な方なのね」
「いえ、そんな…」
言いかけた和彦の唇を、知香子は指で押し止めた。
「あっ…あの……」
「ねぇ、また会って下さらない?」
「いや…そんなこと言われても……」
「別に、わざわざ店に来いとは言わないわ。ただ、和彦さんにまた会いたいの…。駄目かしら?」
「……」
「渡したお名刺にはプライベートの番号も書いてあるから、まあ気が向いたらかけてきて。待ってるわ…」
知香子は、そう言って踵を返す。
その刹那、知香子がつけている香水の香りが和彦の鼻孔を刺激した。
「あの…」
「知香子よ。覚えておいて…」
薄明かりの中、知香子は怪しく笑った。
〈約十年もの歳月を経て、それぞれの道を歩んでいた姉妹。彼女達はまだ知らなかった。新たなる修羅の季節が今、静かにその幕を開けたことを。
和彦という男を通して、すでに姉妹は再会を果たしていたのだ。
〉
つづく




