第15話『流産、そして失踪』
「来ないで!警察を呼ぶわよ!」
知香子は叫んだ。しかし、麗香は微笑みをたたえたまま一歩一歩近づいて来る。
「あんなに尽くしてきたのに…。欲しがる物は何でも買い与えてきたし、豪の頼みなら何だってしてきたってゆうのに……」
麗香は、知香子へと掴みかかった。
命の危機を感じた知香子は、腹部を庇いながらも応戦する。ふたりは、押し合いへし合いしながらアパートの外廊下を移動した。
ふいに、足場が消える。絶叫と共に、ふたりは階段から転げ落ちた。
「恐らくは、過労ですな。長年の疲労が溜まっていたんでしょう。まあ、しばらく安静にしていれば心配はないでしょう」
聴診器を外しながら、医師は言った。詳しい結果はまだ出ていないが、とりあえず深刻な状態ではないらしい。
「ありがとうございます」
知永子と浩二郎は、深々と頭を下げて医師を見送った。
「びっくりさせちゃってごめんなさいね」
薄いピンクの入院着を着せられた織江が、笑いながら言った。
「本当よ。いきなり倒れたかと思ったら意識も失っていたんだもの、びっくりしたわ」
「あたしも、気づいたら病院のベッドの上でしょう。驚いちゃったわ」
「まぁ、いいじゃないか。特に何もなさそうで何よりだ」
浩二郎は、織江の手を握り言った。
「あぁ…そう言えば、四ッ谷の奥様は?」
「…あ、あぁ。お前が倒れた途端に逃げて行ったよ。まあ、俺も知永子もお前に注意を奪われていたからな。あれと思っていたら、すでにいなくなっていたよ」
「そうなの…」
「…全く、まさかあんなとんでもないことを仕出かすなんてな…。想像以上に恐ろしい女だ」
「そんな…あまり奥様を責めないであげて下さいな。あたしが言えるようなことじゃないけど、奥様の立場からすれば致し方のないことだもの」
「まあ、それはそうかも知れないが…」
浩二郎は、溜め息をつく。
「それよりお母さん、お店はどうするの?」
「そうねぇ…そろそろ潮時なのかしらね。あの店を開いて以来、あたしもずっと馬車馬のように身を粉にして働いてきたから…ここらで一回、休むのも悪くないのかも知れないし」
「そうだな。織江は元々体が丈夫な方じゃないんだし」
「えぇ、そうね…」
「ねぇ…わたし、あのお店を本格的に手伝えないかしら?」
「えっ!?」
知永子の申し出に、織江と浩二郎は顔を見合わせる。
「それはいけないわ!学校はどうするっていうのよ。それに、酔いどれ達の相手なんて…嫁入り前の娘がするようなことじゃないわ」
「そんなこと言わないで。わたし、お母さんと一緒に働きたいのよ。せっかくめぐり会えた実の母娘なのよ。ねぇ、いいでしょう」
「知永子…」
「ねぇお父さん、いいでしょう?」
「う~ん…そう言われてもなぁ……」
「学校にはちゃんも通うわ。もちろん、卒業だってする。だから、お願いよ」
知永子は、ふたりに言い募った。
「ありがとう…。知永子」
「じゃあ…」
「その代わり、ひとつ条件があるわ」
「何?」
「大学に行くこと。だから、今年一年は勉強に専念しなさい。なぁに、一年なんてあっという間よ」
「お母さん!」
「あたしも楽しみだわ。来年になったら、知永子と一緒にあの店を切り盛り出来る。そう思ったら、日々の励みにもなるし」
「お母さん…」
浩二郎に見守られ、母娘はひしと抱き合った。
会社に戻るという浩二郎を見送った帰り、知永子は思いもかけない場面に遭遇する。
「すいません!通して下さい!」
慌てふためいた様子の看護婦が叫んだ。ストレッチャーを押した一団が、廊下を走ってくる。
「…知香子!?」
すれ違い様に、ストレッチャーに乗せられた患者の顔を覗き見た知永子は、思わず声を上げた。確かに、知香子だった。
「あの…すいません。わたし、あの娘の姉なんですけど…何があったんですか?」
知永子は、後から来た医師を引き止め尋ねる。
「詳しい事情は解りませんが、どうやらアパートの階段から転落したようです」
「妹は、妊娠しているんです。赤ちゃんは…」
知永子の言葉に、医師の表情が強ばった。
「最善は尽くしますが、恐らくは難しいでしょう…」
「そ、そんな…」
「とにかく、最善は尽くします」
愕然とする知永子にそう言い置いて、医師は手術室へと姿を消す。
「知香子……」
赤いランプの灯った手術室の前に立ち尽くし、知永子は手を合わせ祈った。
「赤ちゃんは!?」
目を覚ました瞬間、知香子は真っ先にそう口にした。それから、知永子の存在に気づき
「お姉ちゃん…何で、ここに?」
と呟く。知永子は、無言で首を振った。
知香子は流産だった。しかも医師が言うには、転落の際の子宮への損傷が激しいため、今後知香子が妊娠できる可能性は、かなり少ないらしい。
「そ、そんな……」
知香子はそう言ったきり、黙り込んでしまった。静かに嗚咽を漏らす。
「知香子…」
知永子は、知香子の肩に手をやった。しかし、知香子はそれを跳ね退ける。
「止めてよ!同情なんかしてもいないくせに。触らないでよ!!」
「えっ…!?」
「どうせ、いい気味だって心の中で嘲笑ってるんでしょう。あたしが照矢の子供を…照矢との愛の結晶を授かったことに嫉妬していたんでしょう!」
「知香子、そんなこと……」
「出てってよ!」
知香子は、知永子を思い切り突き飛ばした。手近にあるものを、片っ端から投げつけてくる。
知香子の激情に、知永子は返す言葉が見つからなかった。
知香子に、あまりにも唐突に愛する男との繋がりの一切を失ってしまった妹に、何と声をかけてやればいいのか解らない。知永子は、居たたまれずに病室から飛び出した。
「照矢…」
知香子は、そう言って腹部に両手を添える。
もうここにあの子がいないだなんて信じられない。知香子は、身も世もなく泣きじゃくり続けた。
翌朝、回診に訪れた看護婦は、空になったベッドに唖然となる。
「た、大変だわ!」
看護婦は、大慌てで医局へと報告に走った。
「知香子…一体、どこへ行ってしまったの……」
病院から連絡を受けて駆けつけた知永子は、すでに冷たくなったベッドを前に途方に暮れる。
〈知永子達の必死の捜索にも関わらず、知香子の行方が知れることはついになかった。
有り余る絶望を抱え、知永子は消えてしまったのだ。〉
第一部・完




