第14話『危険な女』
「あの…落とし物ですよ」
定期検診を終え、病院を出た知香子は後ろから呼び止められる。振り返ると、夏物のマタニティドレスに日傘を差した若い女が、淡いブルーのレースハンカチを手にしていた。
「これ…」
そう言って、ハンカチを差し出す。
「いえ…これ、あたしのじゃないですけど…」
「あら、そうだったの。待合室のベンチに置いてあったから、てっきりあなたの物とばかり…ごめんなさいね」
「いえ、別に…大丈夫です」
知香子は、笑いながらかぶりを振った。
妊娠に気づいてからというもの、我ながら本当にやわらかくなったと思う。これが、母親になるということなのだろうか。
「それより、あなたは何ヵ月?」
「今、ちょうど十四週目に入ったところです」
「そうなのね」
女も、笑いながら言った。
「あなたは?」
「あ、あたし…!?あたしも、ちょうどそれぐらいよ」
「そうなんですね。悪阻とか、大丈夫ですか?」
「あ、あぁ…幸いあたしは軽いみたいで助かってるわ」
女は、首すじに湧いた汗をハンカチで拭いながら答える。
女の行動に、知香子は違和感を覚えた。確か、あのハンカチを知香子の物だと思って声をかけてきたのではなかったか。
「…これからも暑くて大変だと思いますけど、元気な赤ちゃんを産むためにも、お互い頑張りましょうね」
知香子は、軽く会釈してその場を後にする。あまり関わり合いにならない方が良さそうだ、と判断したからだ。
「今に見てなさい。絶対に、元気な赤ちゃんなんて産ませやしないんだから」
知香子の背を見送りながら、女ー麗香が囁いた。
「そう言えば、今日は検診の日だったんだろ?どうだった?」
作業着姿の豪が、帰って来るなり聞いてくる。
最近、豪は工事現場のバイトを始めた。始めのうちは借りてきた衣装のように似合っていなかったその姿も、見慣れたせいか、それなりに様になっているように見える。
「順調だって。先生が言うには、もうすぐ悪阻も楽になるだろうって」
「そうか…」
「悪阻が治まったら、ちゃんと料理も作るから。もう少しの間、我慢してもらえる?」
「別に、そんなことしなくていいって」
「するわよ。だって、あたしは居候なのよ。せめてそれぐらいしなくちゃ、バチが当たるってもんだわ」
「…そのことで、お前に話があるんだ」
「えっ!?」
豪は、作業着の胸ポケットから綺麗にラッピングされた小さな包みを取り出す。
「開けてみろよ」
「…何これ?」
「いいから、開けてみろって」
豪に急かされた知香子は包装を解き、中から出て来た小箱の蓋を開ける。
指輪だった。けして大きいとは言えないものの、立て爪のダイヤモンドリングは、やはりそれなりの値段だったに違いない。
「こ、これ…」
「見れば解るだろ、婚約指輪だよ」
「それは解るわよ。だから、何でこんなものを買って来たのかって聞いてるんじゃない」
「何でって…結婚して欲しいからに決まってるだろ」
「はぁっ!?何言ってんのよ。あんた、正気なの?」
知香子は鼻で笑ったが、豪は真顔だ。
「正気だよ。お前だってもう十六なんだ。その気になれば…」
「そうゆうことじゃなくて。あたしは…他の男の子供を孕んでるのよ。本当に、解ってるの?」
「俺は…お前の腹ん中のガキも引っくるめて、お前を愛してる…」
「あたしは…あんたを愛してないのよ」
「それでもいい…」
「解らないわ!」
「解らなくてもいい…」
「何で?何でなのよ?」
「俺は…お前を愛してるんだ。他の誰でもない、我が儘で残酷で…あげく死んじまった男のことを今でも愛してるお前のことを愛してるんだ!」
「豪……」
「だからお願いだ、俺と結婚してくれないか。俺を…お前の腹ん中のガキの父親にさせてくれよ」
言いながら、豪は知香子を抱き締めた。
「なぁ知香子…お願いだよ」
「……うん」
豪の腕の中、知香子は頷いた。
〈知香子もまた、束の間の幸せの中にいた。あんなことにさえならなければ、姉妹はいつか心からの和解が出来ていたに違いない。
しかし残酷な運命の女神は、次なる試練を用意していた。〉
「いらっしゃいませ!」
知永子は、調理場で皿を洗いながら言った。
「知永子…」
怨念のこもったその呻き声に、驚いて顔を上げる。死神に取り憑かれたような蒼白な顔色の澄江が立っていた。
「お、お母さん!?」
「知永子~…」
その手には、包丁が握り締められている。うっすらと笑いながら、澄江はその切っ先を知永子へと向けた。
「お母さん…」
「黙れ…。お母さんだなんて、呼ばないでちょうだい。あんたなんか、あんたなんか…生まれてこなければよかったんだ。あんたさえいなければ……あんたさえいなければ、知香子ちゃんも…知香子ちゃんも……」
譫言のように呟いては、よろよろと近づいて来る。ついに、知永子は壁際まで追いやられた。
「お願い…。や、止めて、止めて下さい……」
「殺してやる…」
そう言って、澄江は包丁をゆっくりと振り上げた。
「知永子、洗い物は済んだかしら。あっ…」
二階から降りてきた織江が凍りつく。
「お、奥様……」
「おや、諸悪の根源が現れたね…」
澄江は、澱んだ視線を織江に向けた。瞬間、動物的な動きで知永子の背後へと回り込み、彼女を羽交い締めにする。首すじに、包丁を突きつけた。
「知永子!」
「動くんじゃないよ!少しでも動いたら、この娘の首から鮮血が吹き出るからね」
澄江は、包丁の刃を知永子の喉元に押し当て微笑む。
「お、お母さん……」
「知永子…」
織江は成す術もなく、その場に固まったまま動けない。
「おい!何してるんだ!!」
その時、店に現れた浩二郎が叫んだ。ふいをつかれ、怯んだ澄江の手から包丁を叩き落とす。澄江の頬を、思い切り張った。
「何やら胸騒ぎがしたんで駆けつけて来たんだが…知永子、怪我はないかい?」
「う、うん…」
知永子は、泣きながら浩二郎の胸へと飛び込んだ。
「ちくしょう!皆してあたしをコケにしやがって!ちくしょう!ちっくしょう!!」
澄江は、嗚咽しながら髪を振り乱して床を叩く。
「良かった…」
と言いかけた織江が、額に手をやってふらりと倒れた。知永子と浩二郎は、慌てて織江の元へと駆け寄る。
「お母さん!?お母さん!!」
「織江、しっかりするんだ」
しかし、意識を失った織江がふたりの問いかけに応えることはなかった。
豪を仕事へと送り出した知香子は、彼の汚れた作業着を洗っていた。洗濯機がないので、丁寧に手洗いする。
その時、チャイムが鳴った。
豪が、忘れ物でも取りに帰って来たのだろうか。そんなことを思いながら、知香子はドアを開けた。
「あ、あなたは確か……」
そこにいたのは、以前、病院の前で話しかけてきたハンカチの女だ。
「こんにちは」
女は、満面の笑みでそう言った。背すじに悪寒が走る。
「すいません…」
言いながらドアを閉めようとする知香子の腕を、女が掴んだ。
「あなたに、大事なお話があるの」
女は、尚も笑顔だ。
「失礼ですけど、あたしにはあなたと話すことなんか何も…」
「あたしは、小宮麗香。あなたが今一緒に暮らしてる刈谷豪の、元彼女なの……」
その細い腕のどこからそんな力が湧き出るのか、麗香は強引にドアをこじ開ける。知香子は、咄嗟に部屋から逃げ出した。
麗香の瞳が、ギラリと光る。
つづく




