第13話『知香子の妊娠』
「おめでとうございます」
豪に連れられた産婦人科の診察室で、知香子は妊娠を告げられた。
「…えっ!?」
「ちょうど現在十二週目に入ったところです。ちょっと栄養状態がよろしくないようですが、その他は順調に育ってますよ」
医師は、笑顔で語る。
「あたしのお腹に、赤ちゃんが……」
「えぇ、ただ安定期に入るまでは注意が必要です。赤ちゃんのためにもきちんと栄養をとって、規則正しい生活を心がけるようにして下さいね」
医師は笑顔のまま、妊娠の心得を説いた。医師の言葉に耳を傾けながら、知香子は自らの腹部へと触れる。
今はまだ何の変化も感じられないが、ここに新しい生命が宿っているのかと思うと、自然に頬が緩んだ。
「おい、どうだったんだ?」
診察室の外で待っていた豪が聞いてくる。
「やっぱり妊娠してたわ。今、十二週目だって…」
「そうか…で、どうするんだ?」
「どうするって、産むに決まってるじゃない」
「決まってるって…お前……」
豪は、思わず息を飲んだ。
「…例の、死んだ男のガキなんだろ?」
「えぇ、きっと。いや…絶対にそうに違いないわ」
「だったら…」
「だからこそ産むのよ。だって、この子は照矢の忘れ形見なのよ。神様があたしに与えてくれた、照矢との愛の証なのよ!」
知香子は、歌うように宣った。その瞳は、照矢が死んで以来失われていた生きることへの渇望に満ち満ちている。
あまりにも劇的な知香子の変貌に、豪はただただ戸惑っていた。踊るような足取りで病院を後にする知香子の後を追う。
そんなふたりの背中を凝視する影があった。豪の元パトロン、麗香である。
「豪…豪……」
豪の後ろ姿を見つめ、麗香は呟き続けた。その瞳は、とうに正気を失っている。
豪に寄り添われ、しかも産婦人科の病院から出て来た女に対する憎しみが募った。
「な、何ですって!?」
久しぶりに帰って来た知香子の言葉に、澄江は驚愕した。
「に…妊娠したですって……」
「えぇ、あたし産むわ」
知香子は、きっぱりと言い切る。
「産むって…知香子ちゃん、あなた……。あ、相手は一体誰なの?このことは、知っているの?」
「いないわ。もう死んでしまったんだもの」
「まあ!もう死んだって…。そんな…じゃあ、まさか……」
「そうよ。この子の父親は照矢よ。一体、他に誰がいるって言うのよ」
「そ、そんなこと…ママは許しませんよ!大体あなた、今自分がいくつだか解ってるの?その年で…父親のいない子供を産もうだなんて……」
「…ママは、この子を諦めろって言うの?」
「当たり前じゃない!!」
澄江は立ち上がり、声を張り上げる。
「母親として、そんなことは絶対に認められないわ。一刻も早く始末しておしまいなさい!!」
「ひどいわ。この子は…照矢の忘れ形見なのよ。それを、始末しろだなんて!!」
澄江は、激昂する知香子にすがりついた。
「それが、あなたのためなのよ。確かにしばらくは辛いかも知れないけど、その方が知香子ちゃん、あなたにとってもいいに決まってるんだから!」
「絶対に嫌!!」
知香子は、澄江からの説得を跳ね除ける。
「この子は、誰に何と言われたって絶対に産むわ、絶対に!だって…この子は、照矢の生まれ変わりに違いないんだから!!」
「生まれ変わりって…。な、何を言っているのよ!」
「だってそうでしょう。照矢の死と、時を同じくして芽生えた命なのよ。それ以外に、考えられないじゃないの!」
「知香子ちゃん……」
「とにかく、この子は産むわ。たとえ何があったとしても!!」
知香子はそう言って、澄江に背を向けてしまった。用は済んだとばかりに、玄関の方へと取って返す。
「待って…待ちなさい。知香子ちゃん!知香子ちゃん!!」
ひとり残されたリビングの床にうずくまり、澄江はすすり泣いた。
何故、こんなことになってしまったのだろうか。ほんのついこの前までは、何の問題もない平和な家庭だったはずなのに…。
いや。そこまで考えて思い直す。この家は、初めから歪んでいたのだ。歪みの原因はもちろん……。
「知永子…」
澄江は、終わることのない無間地獄をさ迷い続ける亡者のような低い声で呻いた。
十七年もの時を経てめぐり会えた実母の惜しみない愛情に包まれ、知永子は徐々に回復しつつあった。何とか食事も喉を通るようになり、放課後には織江の店の手伝いを出来るまでになった。
「別にいいのよ、そんなことしてくれなくても」
流しに溜まった洗い物をしていた知永子に、織江が言う。
「いいのよ、お母さん。お世話になってるんだもの、これぐらいはさせてちょうだい。それに、今は何かをしていた方が気が紛れるのよ」
「そう?まあ、正直あたしも知永子が手伝ってくれて助かってるんだけどね」
洗い終えたお通し用の小鉢に布巾をかけながら、織江が笑った。ふたりは、顔を見合わせ微笑み合う。
〈照矢の死から早一ヶ月。知永子は母の愛を身近に感じ、徐々に立ち直りつつあった。
織江との穏やかな生活が一日でも長く続けばいい。それだけが、今の知永子の願いであった。〉
「いらっしゃいませ」
店の引き戸が引かれ、ふたりは声を揃えて入り口へと目をやった。
「…えっ!?」
意外な人物の来訪に、知永子の表情が凍りつく。
「ち、知香子……」
「あ、あなた…一体何をしに来たのよ」
知永子を庇うように、織江は一歩前に出て知香子を問いつめた。
「久しぶりね」
緊迫するふたりを尻目に、知香子は微笑んだ。許可を得ることもせず、カウンター席へと座り込む。
「…実はね、お姉ちゃんに報告があるのよ」
「な…何なの?」
「あたしね、妊娠したの。今ここに、照矢の赤ちゃんがいるのよ」
そう言って、自らの腹部を撫でた。まだ何の膨らみも見てとれないそこを、愛おしそうに擦る。
「に、妊娠って…。本当なの!?本当に……」
「えぇ」
「知香子のお腹の中に、照矢の赤ちゃんが……」
「えぇ」
知永子は複雑な気持ちで、知香子の顔を見つめた。確かに、今までの険がとれたような穏やかな表情をしている。
「だから、お姉ちゃんもこの子のことを愛してあげてね。この子は、照矢の生まれ変わりなのよ」
「何を勝手なことを!大体あなた、自分が一体何を仕出かしたのか理解しているの?」
織江が口を挟む。
高揚に水を指された知香子は、憎々しげに舌打ちして
「うるさいわね!おばさんは黙ってなさいよ!!」
と怒鳴った。
「パパの遠い親戚だか何だか知らないけど、どこの馬の骨かも知れない赤の他人が口を挟まないでよ!」
知香子は、そう言って織江を睨みつける。高慢なその顔に澄江の面影を見つけ出してしまった織江は、言葉を失くした。
この娘はよく似ている。恐らくは、もう二度とお目通りも願えないであろうあの人に…。
「ねぇお姉ちゃん、お姉ちゃんはもちろん喜んでくれるわよね。この子を、愛してくれるわよね。何たって…この子は、お姉ちゃんも愛した照矢の子供なんだから」
知永子の手を握り、知香子は笑った。知香の満面の笑顔に、知永子はただひたすらに動揺していた。
つづく




