第12話『愛する者の死』
集中治療室の前に置かれたベンチに座った知永子は手を合わせ、ひたすらに祈っていた。
あの時、寸前のところで知永子を庇ってトラックに轢かれた照矢がそこに運び込まれてから、もう二時間が経過している。しかし、依然として治療中のランプは赤く点灯したままだ。
「知永子さん!!」
血相を変えた織江が、病院の廊下を走ってくる。知永子は、織江にすがりつき
「照矢さんが…照矢さんが……」
と泣きじゃくった。
その時、治療中のランプが消える。
「先生!照矢さんは…」
知永子は、集中治療室から現れた手術着姿の医師に問いかけた。
「誠に残念ですが…」
医師は、深刻な顔でも首を振る。医師の肩ごしに、手術台の上に横たわった照矢の顔が見えた。
とても、安らかな顔をしている。まるで、ただ眠っているようだ。
「い、いやぁ~………」
知永子は絶叫し、その場へとくず折れる。織江に肩を抱かれ、この世の終わりのようにさめざめと涙を流した。
「照矢さん…」
しばらくしてから何とか冷静さを取り戻した知永子は、照矢の亡骸の前に立ってその頬に触れた。
すでに死後硬直が始まっているらしく、冷たくて硬い。照矢の頬を撫でながら、知永子は静かに泣いていた。
「照矢!!」
知香子が声を張り上げて、霊安室へと駆け込んでくる。驚く知永子を押しのけ、照矢に飛びついた。
「照矢…何で、何でなのよ……」
知香子は、照矢の体にしがみつき号泣する。
「知香子…」
手を差し伸べようとした知永子の腕を、知香子は思いっきり振り払った。
「触らないで!!あんたのせいよ!あんたが照矢を殺したのよ!あんたが、あんたが…あんたが代わりに死ねば良かったのよ!!」
知香子は、まさに鬼の形相で知永子へと掴みかかった。知永子の上に馬乗りになって、彼女の首に手をかける。絞り上げるように力を込めてきた。
「…お前なんか、死ねばいいんだ。この泥棒猫が!疫病神が!!」
知永子は、知香子のされるに任せた。抵抗する気など、起こるはずもない。
本当に、その通りだと思った。照矢の代わりに、わたしが死ねば良かったんだ。そう思った。
呼吸を封じられ、次第に視界が霞み出す。知永子は、死を覚悟した。
「止めなさい!!」
織江が、知香子に体当たりする。知香子は、その場に横倒しになった。
「ちょっとあなた!何やってるのよ!」
知永子を抱き起こしながら、織江は知香子を怒鳴りつける。
知香子は、喚き散らしながら霊安室から飛び出していった。
「しっかりするのよ、知永子さん」
織江に髪を撫でられつつ、知永子は内心、死に損なったことに絶望していた。
〈理不尽とは知りつつも、知永子は織江に対して恨めしい思いを感じていた。いっそあのまま死なせてくれれば良かったのに…。
知永子は、自らの生を憎んでいた。〉
「知永子は、相変わらずなのかい?」
『長谷倉』のカウンター席に座った浩二郎は、織江に問いかける。
「…ええ、自分の部屋に篭ったっきり……ろくに食事もとろうとしないのよ」
織江は二階を見上げるように視線を天上に寄越し、心配そうに呟いた。
照矢の死から一週間、知永子はずっと自室に引き籠っている。織江や浩二郎が声をかけても上の空で、まるで生きることを拒否しているようだった。
「ねぇ、あなた…」
「うん?」
「…あたし、知永子に真実を告げようかと思っているの」
「真実か……」
「そう。あたしが、あの娘の本当の母親だってこと。そうしたら…あの娘も、もっとあたしに対して心を開いて甘えられるようになると思うの。駄目かしら?」
「……そうか。まぁ、恐らくは知永子も薄々は勘づいているんだろうし…その方が、いいのかも知れないな。どうせ、いつかは話さなければいけないことなんだし」
浩二郎は、静かに頷いた。
「知永子さん、ちょっといいかしら?」
織江は、知永子の部屋をノックする。しかし、中からは何の反応もなかった。
「知永子さん?…知永子さん!?」
ふたりは顔を見合わせ、それから弾かれたようにドアを開ける。
「きゃっ!!」
中の惨状を目の当たりにした織江は、思わず悲鳴を上げて浩二郎へとしがみついた。シーツに広がる血の海の中、深く手首を切った知永子が、青白い顔をして横たわっていた。
「こ、ここは…わたし……」
目を覚ました知永子の頬が鳴る。織江が、その頬を張ったのだ。
「馬鹿なことをして!全く、何を考えているのよ!」
「…わたし、生きてるの?」
「当たり前じゃない!あなたまで死んだら、照矢さんの死が無駄になってしまうのよ!」
織江はぽろぽろと涙をこぼし、知永子の胸を叩いた。
「…わたしが、死ねば良かったんだわ。知香子の…言う通りよ」
再び、知永子の頬が鳴る。
「馬鹿!馬鹿…馬鹿馬鹿!あなたは、照矢さんから…命を受け継いだのよ」
「…命を、受け継いだ!?」
「そうよ。だから、あなたは照矢さんの分もしっかりと生き続けていかなければいけないのよ」
「でも…」
「もし、あなたが照矢さんの後を追ったとして、それを彼が喜ぶとでも思う?あなたは、照矢さんのためにも力強く生きていくべきなのよ!」
「そうだよ知永子。それが…遺された知永子に課せられた使命なんだ」
「お父さん!」
そう言って浩二郎にしがみつく知永子を眺めていた織江は、意を決したように小さく深呼吸する。
「ねぇ、知永子さん…」
「えっ!?」
「こんな時に言うべきなのかは解らないけど…あたし、知永子さんに隠していたことがあるの…」
「……知ってるわ。織江さんが、わたしの本当のお母さんなんでしょう?」
「あ、あなた…やっぱり、知っていたの?」
「初めて会った時から、きっと…そうなんじゃないかって思っていたの。やっばり、そうだったのね」
「ええ、そうよ。そうなのよ、知永子!」
「お母さん!!」
〈母の胸に抱かれ、知永子は心に誓った。
照矢にもらったこの命。それを無駄にせず力強く生き抜いていこう。そう誓っていた。〉
「おい、飲み過ぎだよ」
豪は、知香子の手からストレートのウィスキーが注がれたグラスを引ったくった。
「いいじゃない。飲ませてよ」
知香子は豪からグラスを奪い返した。一気にそれを煽ってから、苦し気に咳き込む。
「いい加減に体壊すぞ。毎日毎日酒ばっか飲んで…。ちょっとは飯も食えよ」
「うるさいわね。黙っててよ。あんたに…あたしの気持ちなんか、解るわけないんだから」
知香子はボトルを持ち上げ注ぎ足そうとするが、中味は空だった。舌打ちして、ボトルを投げ捨てる。
照矢のいない世界になど、何の意味も感じられない。
「あたしにはもう…生きる希望もないのよ……」
ふいに、後ろから豪に抱き締められた。
「お前には、俺がいるじゃないか」
豪が、耳元で囁く。
「ふんっ。それが何だって言うのよ。あんたなんか…」
ふいに吐き気を感じた知香子は豪の腕を振り払い、洗面所に駆け込む。腰を折り曲げ、嘔吐した。
「ほら、言わんこっちゃない」
知香子の背中を擦りながら、豪が苦笑いする。しかし、知香子の吐き気はいっこうに収まろうとしなかった。知香子は洗面所へとへばりつき、空っぽの胃袋から胃液を吐き続ける。
「お前…、まさか……」
豪の呟きに、知香子は無意識に腹部を押さえた。
つづく




