第10話『瞼の母』
「わたし…もう耐えられないわ。このままじゃ気が狂ってしまいそう……」
知永子は、照矢へと泣きつく。今の知永子にとっては彼のアパートだけが唯一、心から落ち着ける彼女の居場所だった。
「知永子…可哀想に……」
照矢は知永子を抱き締め、心の底から彼女の辛い境遇に同情した。
「…なあ、知永子。家を出ないか?」
「えっ!?」
「確かに君はまだ高校生で、本来ならご両親の庇護を受けるべき年齢だ。でも、今この状況を考えれば、知永子がこれ以上あの家にいることは望ましくないよ」
「でも……」
「お父さんに相談出来ないかな?きっと、お父さんなら解ってくれると思うんだ」
「お父さんに?」
知永子は涙を拭き、照矢を見上げる。照矢は、ゆっくりと頷いた。
「あぁ…少なくとも今の俺の力だけじゃ、君を学校に通わせることはしてやれない。でも、お父さんの力を借りることが出来たら…」
照矢は、知永子の手を取り訴えた。
「え、えぇ…やってみるわ」
「何だったら俺も一緒に行こうか?」
「ううん、大丈夫。とりあえず、わたしひとりでやってみるわ」
ふたりは抱き合う。
「早く…照矢さんと一緒に暮らしたい……」
「あぁ…俺もだよ」
「ふんっ。そんなこと、絶対にさせるもんですか」
照矢のアパートの薄い壁の外、玄関のドアに耳を押しつけて内の会話を盗み聞きしていた知香子が、忌々しげに呟いた。
翌日の放課後、父の会社を訪れた知永子は、案内された会議室で浩二郎を待っていた。
「知永子、待たせて済まなかったね」
「わたしこそ、わざわざ時間を作ってもらってごめんなさい」
浩二郎は知永子の向かいのソファに座り込み、煙草に火をつけた。
「別に気にすることはないさ。それより、どうしたんだ?知永子が会社を訪れてくるなんて、珍しいじゃないか」
「…実は、お父さんに折り入って相談したいことがあるの……」
知永子は、父に事の成り行きを説明する。途中、何度も泣きそうになりながらも全てを語った。
「まさか…そんなことになっていただなんて……」
あまりの衝撃に、浩二郎は言葉を失う。
「知永子の気持ちは解らなくもないが…でも嫁入り前で、しかもまだ高校生の娘が男と同棲っていうのはちょっと……」
「照矢さんは真面目な男性で、筋の通らないことをするような人じゃないわ。わたしも、お父さんに顔向け出来なくなるようなことは絶対にしません。だから…お願い!」
「う~ん…そうは言ってもなぁ……」
知永子の必死の懇願に、浩二郎は腕組みしながら考え込む。やがて、意を決したように膝を叩いた。
「知永子、ひとつ提案があるんだが…」
「えぇ…」
さらに翌日、浩二郎に連れられた知永子は、赤羽にある開店前の小料理屋を訪ねていた。
「彼女は長谷部織江さん、この店の女将だ」
「初めまして、倉内知永子です」
知永子は、カウンターの中で料理の仕込みをしていた着物姿の女性に頭を下げる。その女性は、何故か瞳を潤ませて知永子を眺めてきた。
「彼女は、わたしの遠い親戚にあたる人でね。ご主人に先立たれてから、女手ひとつでこの店を切り盛りしてるんだ」
浩二郎は言った。
「浩二郎さんには、陰ながらずっとお世話になってきたの。だから、知永子ちゃんのことは大歓迎よ。せめてもの恩返しのつもりで、面倒を見させてもらうわ」
織江は知永子の手を取り、力強く握った。
「あの…こちらこそ、お世話になります」
知永子はもう一度、深々と頭を垂れた。
「もう、そんな水臭いことは言わないでちょうだい。それより母屋の二階に部屋を用意してあるから、ちょっと見に行きましょうよ」
「じゃあ、わたしは仕事があるんで会社に戻るよ。荷物は近い内にでも届けさせるから、しばらくの間はちょっと我慢してくれ」
そう言い残して、浩二郎は店を出ていった。
「さあ、行きましょう」
織江に手を引かれ、知永子は二階へと向かった。
「ここよ。ちょっと作りが古いんだけど、我慢してちょうだいね。何なら知永子ちゃん好みに作り替えってもらってもいいのよ。どうぞ、遠慮なんかせずに好きに使ってね」
織江は、知永子の肩に手を添え言った。
「ありがとうございます。でも、わたしにはこれで充分ですから」
「あら、そう?まあ、替えたくなったらいつでも言ってね」
「そうなんだ、良かったじゃないか」
照矢は、心底安堵したように言った。
「えぇ、でもごめんなさい。せっかくの貴方の好意に応えられなくて…」
「いや、別にいいんだよ。俺の部屋に住むよりも、そっちの方がきっといいよ。それにしても、都合のいいところに住んでたもんだね、その叔母さんも」
「えぇ、本当に…」
言いながらも、知永子はどこがで察していた。
父は遠い親戚だと紹介したが、織江というのは恐らく自分の実の母親に違いない。自分を見つめてくる彼女の視線には、あまりにも情が篭っていた。とても、初対面の遠縁に向けるものとは思えない。
しかし、今はまだ気がつかないふりをしていよう。いつかきっと、血の繋がった母娘として向き合えるその日が来るまでは…。
そう思っていた。
学校からの帰り道、知永子は、何者かの気配を背中に感じて立ち止まる。しかし振り返ってみても、怪しい人物は見当たらなかった。
きっと、知香子とのことで必要以上に神経質になってしまっているのかも知れない。
そう思い、再び歩き出した知永子の口を男の手が塞いだ。抗う知永子の鳩尾に、拳が入った。ぐったりした知永子を担ぎ、男は近くに停めてあったワンボックスカーへと乗り込む。
「なぁ、本当にいいのか?」
運転席でハンドルを握った豪が問いかけてくる。
「えぇ、もちろん」
助手席の知香子は、笑顔で答えた。
「でも…」
「何?今さら怖じ気づいたってわけ?だったら、別に構わないわよ。あたしひとりでやるから」
「別に、そんなわけじゃねぇけど…」
「ふふふ…待ってなさい。金輪際、男を愛せない体にしてやるから」
後部座席でぐったりとしている知永子を振り返り、知香子は笑う。
「…全く、本当に恐ろしい女だよ、お前は」
豪は、魅入られたように呟いた。緊張感の漂う車内に、知香子の高笑いが響く。
〈瞼の母の家に身を寄せ、平穏を得たのもつかの間。
知永子はまた、知香子の凶悪な企みによって地獄の果てへと突き落とされようとしていた。〉
つづく




