Phase1-1:すべての始まりは困難である
その世界に降り立ったノックスは、朽ち果てた神殿の中、一対の像を見上げていた。青い空を背景に、像はお互いの喉元に剣を突きつけ、今まさに喉笛を掻き切ろうとしているかのようだった。足元には二つの円が刻まれていて、それが重なる部分の中央に、ノックスは立っていた。
「そこの君」
声をかけられて、ノックスは振り向いた。見ると、スーツを着崩した長身の男が、神殿の入り口だった場所に立っていた。男はゆっくりと歩き出し、ノックスに近付いていく。
「やあやあ。新規さん、だよね?」
「新規、さん?」
ノックスは首を傾げる。
「この世界に来てそんなに経ってないよね? その格好だし」
指差されて、ノックスは自分の体を見回した。薄汚れた麻のローブを纏っていることに気付いた。もう一度男に視線を戻す。
「誰?」
「俺?」
訊ねられて男は立ち止まる。
「これはこれは申し遅れました。俺はケイ。有能な新人を探しているスカウトマンです」
ケイと名乗った男は胸に手を当て、大仰な身振りでお辞儀をした。
「ケイ……有能な新人……スカウトマン……」
ゆっくりと記憶に染み込ませるように、ノックスは繰り返す。ケイは再び歩き出し、ノックスの前まで来た。
「君の名前は?」
「ノックス」
「ノックスか。君とのコミュニケーションには十のルールが設けられていたりするの?」
「……ノックスの十戒は、コミュニケーションのルールじゃないよ」
「あら、そうだっけ。博識だね、お嬢さん」
ケイは芝居がかった台詞と共に愛想笑いをするが、ノックスはなにも言わず、その大きな眼でケイを見上げる。ケイの笑いはすぐに乾いた。
「あー……本題に入ろうか」
「本題?」
「君をスカウトしたいんだけど」
「スカウト?」
「そ。君は有能な新人と判断されたわけだ」
「なぜ?」
「周りを見ればわかる」
ケイが手を広げて周囲を示したので、ノックスはそれに従って視線を動かす。
神殿の床を、沢山の薄汚れた布が這いつくばっているのが目に入った。その布のいくつかの傍で、応援の言葉を投げかけたり、助け起こそうとしている人がいる。
「あれはなにをやっているの?」
「新規オムニスユーザーの恒例行事。立ち上がる練習。面白いだろ?」
「立ち上がる練習、しなきゃいけないの?」
「しなきゃいけないんだなー。俺も最初は練習したし」
「僕立てるよ?」
「それが問題だ」
ケイは険しい顔でノックスの眼前に迫る。
「普通はみんな、ああいう風にこの神殿でのたうち回ることになる。下手すると三日くらいひたすらのたうち回ることになる。それが君は、おそらくは初めてここに来たにも関わらず、立っている」
ノックスがケイの整った顔を見つめていると、視界の下からケイの人差し指がフェードインしてきた。反射的にその指に焦点が合う。
「仮説一。前時代的なコントローラーを使っている説。しかしこれはたった今否定された」
「なぜ?」
「ボタン式の“インターフェース”では眼球を動かせない。つまり君は“インターフェイス”を使っている。どう?」
「使ってる」
「ふむふむ、なるほど。となると仮説二で間違いないだろうね。“君は有能な人材である”」
「なぜ?」
「おいおい、話がループしちゃうって」
ケイは困った様子で指をくるくると回す。
「最新のインターフェイスのぺらぺらな紙の説明書にはこう書いてある。たった一行だ。“思った通りに動きます”。誇るべき日本の技術によって生まれた夢の機械ではあるけど、問題もある。“人は思いをコントロールできない”」
ノックスは首を傾げ、それを見てケイはうなだれた。
「わかった。回りくどいのはやめよう。俺が悪かった」
咳払いをして、ケイは噛み砕いた説明を始める。
「インターフェイスは装着している人の脳波を読み取って、入力信号に変換するわけだ。ある程度の雑念はバッファーが削ってくれるけど、それでも色々あれこれ考えちゃうと、キャラクターがのたうち回ることになる。あんな感じにね」
言いながら、神殿を転がり回る新規ユーザーを指差す。
「ところが君はインターフェイスを使いながらも、キャラクターをちゃんと立たせて、俺と冷静に会話できている。思考のコントロールが上手い。イコール有能ってこと」
「なるほど」
「わかってくれた? で、どうかな?」
「なにが?」
「うちに来てくれる?」
「うちって?」
数秒の沈黙があって、ケイは頭を抱えた。
「しまった……説明するのに気を取られて大事なことを言い忘れていた。俺、“ガイドライン”っていう集団の一員なんだ」
「ガイドライン?」
「疑問ばっかだな君は」
「ごめん」
「いや、いいけどさ……。ガイドラインってのはその名の通り、オムニス初心者の手助けや案内をする……まあ、チームみたいなもの。総勢一〇六二名。街も持ってる。うちに入ってくれれば、訊けば誰かが答えてくれるお助けインカムをもれなくプレゼント」
ケイは顔を横に向けて、耳に付けているインカムを示す。ノックスはそれを見るが、見ているだけで特になにもリアクションはなかった。
「あー……。じゃあ一旦ガイドラインのことは置いておいて。今度は君の話を聞こう。君はオムニスになにをしに来たの? 仕事? それとも遊び?」
「……友達を探しに」
少し悩んで、ノックスはそう答えた。
「なるほど、友達がもうオムニスにいるのか。名前は?」
「リサ」
「お、それなら心当たりがある」
「本当に?」
「ああ。ちょっと待ってな」
ケイはそう言うと、ジャケットのポケットから携帯端末を取り出した。画面をノックスへ向ける。
「呼んでみ」
「リサ?」
『なにかご用でしょうか?』
滑らかな合成音声が再生されて、ノックスは首を傾げた。
「“Logical Intelligence Software Architecture”。略してリサ。オムニスで主流の端末だよ」
「リサはそんなに小さくない」
「……」
二人の間に沈黙が流れた。
「じょ、冗談だって。人探しなら俺たちは役に立つよ。情報網には自信があるんだ」
「本当?」
ノックスが身を乗り出したのを見て、ケイはにやりと笑う。
「本当さ。なんなら今ここで仲間に捜索を依頼したっていい」
ケイは耳に付けられたインカムを指先で叩く。
「そうしてほしい」
さらに身を乗り出してきたノックスを、ケイは手で制した。
「ありがとう。君の気持ちは確かめた。でももう一つ確認しなきゃならないことがある」
「なに?」
「君にどれくらいの事前情報があるかは知らないけど、この世界が二つに分かれていることは知ってる?」
ノックスは首を横に振った。
「わかった。ちょっと外に出ようか」
そう言うと、ケイは振り返って歩き出す。ノックスも後から小走りで付いていき、横に並んだ。
「君……本当に初心者なの? 歩き方も歴一年くらいのプレイヤー並に自然なんだけど」
ノックスは前を見たまま無垢な顔で頷いた。
二人はのたうち回る初心者たちを避けながら、時折踏み越えながら、太陽の神殿を出た。