十五
「また、前輪か」
私はホーネットのシールドをしめるとつぶやいた。
十六年前をなぞるような奇妙な一致を、何かオカルティックなモノのせいにしたかった。
おいらん淵の花魁たち……。
彼女たちの呪いなのか、それとも死ぬ運命にあった私を助けてくれたのだろうか……。
後者だと思いたい。
そして、命ある今を花魁たちに感謝したかった。
「ありがとう!俺は帰ってきた!あなたたちのおかげで!俺はここに帰って来られたんだ!ありがとう!ありがとう、助けてくれて!俺はあきらめない!決してあきらめない!あの時、走れなかったから!走りたくっても走れなかったから!ありがとう!ありがとう!俺は帰ります!見守って、見守っていてください!よろしく御願いします!」
誰もいない暗い峠道を、チンガードのせいでくぐもった声が木霊する。
俺は十字を切った。
いなくなったマリア様。
だが、きっと、俺は守られている。
意を決し、FZ1に跨った。
ほんのちょっとの空走距離を、走るために。
そのために今日、ここまで来たのだから……。
激痛に耐え、クラッチを握り、ペダルをローに蹴りこむ。
おそらく折れているであろう左手首で握るクラッチ操作。
エンジンブレーキのあまり効かないセッティングと、フロントが死に、リアのみに頼るブレーキング。
気の抜けない孤独な走行を、私は開始した。
「うわ……なんだこれ……」
マサキは声に出していた。
俺たちを追っていたテレビクルーが、そのワゴン車を止めて降りてきた。
カメラは回っていた。
しかし、そんなことはどうでも良かった。
ディレクターのYさんが言った。
「バーストしてるじゃないか……どうしたんだ?」
そう……俺の前輪のタイヤはバーストしていた。
パンクなどと言う、程度の軽いモノでは無い。
タイヤそのものが破裂し、チューブが丸見えになっている。
そのチューブもビリビリと大きく引き裂かれているのが分かる。
「……分かりません」
ホントに理解が出来なかった。
確かにこの旅の最中俺は、何度も前輪のパンクに泣かされてきた。
だが、それがバーストに結びつくとは決して思えなかった。
修繕は完璧に行われていたし、再び穴が開いたところでこんな酷い様になるはずがない。
「行こう」
自転車をひっくり返し、修理をしようとサイドバッグをあさっているマサキとカズに向けて声を放つ。
「え!?何いってんの!?」
「そうだよ!三人でやれば……」
遮って断言した。
「無理だ!俺たちの手に負えない!見ろよ!裂けちまって糸まで飛び出てらぁ……」
スタッフも言った。
「うん。これはタイヤ交換しないと……無理だよ、走れない」
「そんな……」
二人の落胆はユニゾンを奏でた。
俺の旅は終わった。
走れない……もう、完走は……無い。
「先に行け。報告してこい」
「え……」
「走れないと……もう、走れない、と」
砂利を見つめ続ける俺を、二人はしばらく見つめ続けていた。
その目が語る感情は"同情"と"落胆"だった。
すまない……俺は……お前達の願いを壊してしまった。
二人は無言で跨り、下山していく……。
俺は自転車を起こし、セーフティーレバーを引きながら慣性に逆らい、を歩いて転がしていく。
あまりに急な坂は、時に強制的な小走りを開始させる。
それに逆らっているうちに、なんだか馬鹿らしくなってしまった。
「はははははははははははははははははははは」
乾いた笑いだった。
前方をテレビ局のワゴンが、ゆっくりと先導するように走っていく。
助手席のドアから、レンズがテープを回し、そんな俺を記録している。
だが、もうそんなことはどうでも良い。
俺はもう、走れないんだから。
昨晩、あんなに頑張った結果がこれか……。
テレビ局のワゴン車が急にその速度を増し、遠のいていった。
ははは。
狂った俺は写す価値もないと?
だが、それは違った。
後ろからセダンが来ていたからだった。
そのセダンは俺の横を通り過ぎると、ハザードをつけて停車した。
(邪魔だなぁ……)
セダンを迂回しようとしたその時、助手席から一人の男が降りてきた。
「どうしたんだ?君」
「……あ……いえ……」
言葉にならなかった。
どう説明したらいいのか、言葉が浮かんでこない。
月並みな表現だが、頭が真っ白とはこういう事を言うのだと思った。
その人の呼びかけに立ち止まることもしないで、トボトボと自転車を押し続けた。
すると、今度は運転席のドアが開き、俺の進路を塞いだ。
「……酷いな……バーストだ。どこから来たんだい。」
口ひげを綺麗に生やした優しい笑顔のその人は、俺の目をのぞき込み尋ねる。
「……東京から……いえ、東京に帰る途中です……徳島から……」
「えっ!?」
二人は顔を見合わせた。
「徳島から……自転車で!?」
「途中……フェリーを使いました……けど……はい。」
「いや、まあ……それは……海の上は走れないからなあ」
そういうとお髭さんはよく響く声で笑った。
はじめに降りてきた中分けのストレートヘアの男性が、表情を崩さずに言う。
「これじゃあ、走れないじゃないか……おい、積み込もう!」
「え……?」
「麓の自転車屋まで乗せていくよ。なあ?」
お髭さんも頷く。
「もちろんだ。放っておけないしな」
暗い峠道をやかましくエンジンブレーキを効かせながら下っていく。
しかし……このFZ1の二眼は明るくって助かる。
ハイビームにすると、ずっと先が見えるし、さらに照らす範囲も広い。
しかし、今は上目にする必要はない。
40km/h以上は出さない様にしているからだ。
思えば、いつも誰かに助けられている。
今も若者三人が、俺に気づいて助けてくれた。
あの時も中分けさんとお髭さんが、壊れてしまいそうな私に気づいて助けてくれた。
いつも一人だと思っていた。
でも、俺は実は何時だって助け出されてきたのだ。
そう、俺は独りでは無かったんだ。
近づいてくるヘッドライトが訝しげにテールランプにと変わっていく。
後ろから見ると、事故の跡が生々しいのだろう。
絶対に帰るんだ。
自力で、今度こそ自分の力で……。
でないと、助けてくれた方々に申し訳がない
後部座席で、打ちのめされていた。
機械の動力に頼ってしまった事実に。
凄く、落ちこぼれた感じがした。
酷く、楽をしている怠惰な人間になってしまった気がした。
大菩薩ラインに合流する入り口付近でメンバー達は待っていた。
Mさんの鋭い視線が俺を射抜く。
「ちゃんと俺が説明してやるから」
お髭さんはそういってドアを開けると、真っ先にMさんの方に向かって歩いていった。
続いて俺もドアを開ける。
「……まったく……だらしない……」
彼女の第一声だった。
呆れきった、見下げた声だった。
「いや、この状態で走行するのは不可能なんで……前輪のタイヤがバーストしています。俺も自転車乗るんですがね、こんなケース、見たこと無いですよ。」
中分けさんも加勢する。
「これは……整備不良ですね。タイヤもメーカー品じゃないし、それに」
Mさんが遮って言う。
「整備は各自、責任を持ってやらせているんで……空気の入れすぎだ!」
(メーカー品じゃない?空気の入れすぎだと!?)
頭の中がぐるぐると回り出す。
両足が大地から浮遊しているかの様な感覚に襲われていく……俺のせいなのか?俺の……。
「とにかく麓の自転車屋まで乗せていきます。良いですね」
中分けさんが語気を強めて言った。
Mさんはよろしくお願いします、と笑顔で言った後、俺を睨み付けて言い放った。
「これでお前の完走は無いぞ!その意味をよく考えろ!」
後部座席で俺は賑やかだった。
今までの事をよくしゃべり、そして泣きじゃくった。
事情を何も知らない人たちに、とにかく愚痴りたかった。
しかし、どんなことを話したのか覚えていない。
先ほどの彼女の一言が俺の思考や記憶を奪っていった。
「たとえばな、今、このハンドルがポーンと外れちゃったとするわな」
ひげさんがバックミラー越しに語りかけた。
「でも、それが俺たちの責任か?どうしようも無いことが、世の中にはあるんだよ」
「うん。そうだ。あの女の人……ちょっとどうかしてるよ」
中分けさんが振り返って言う。
「君に責任はないよ。これは完全な"整備不良"さ」
町にまで来た。
自転車屋はクローズだった。
「そっかぁ……今日は日曜日かぁ……。」
二人は"参ったな"という調子で顔を合わせる。
また……日曜日、か。
俺はあきらめて、先ほどから考えていた事を口に出した。
「ガムテープ……ありますか?」
「何するんだい?」
チューブの換えを持っていることを思い出したのだ。
「チューブを交換して、空気を入れます。そしたらタイヤを……」
「ガムテープで……か??」
「はい」
「もつかな……ガムテープで……」
「布テープなら……次の自転車屋まで持てば言い訳ですし、外れたらまき直します。」
二人は顔を見合わせた。
「走りたいんだな?」
「はい」
お髭さんはトランクから自転車を降ろしながら言った。
「頑張れよな!」
やっと町に出た。
平坦な道のありがたみをかみしめる前に、車の多さに辟易する。
一番左の車線を、車について走行する。
前輪のブレーキが効かないので、車間距離を取ることに専念するのだが、車一台分も開いていると、すぐに入ってくる奴がいる。
(おいおい……こっちはブレーキしんでるちゅーに……)
再び車間距離を開ける。
だがリアの制動力を考えると、どうしても40km/h以上は出すことが出来ない。
信号の度に握らなくてはいけないクラッチ。
ライダースの裾からのぞく左手首は、すでにどす黒く変色しふくれあがっている。
意識がぶっ飛びそうだった。
赤信号の度にヘルメットの中で叫ぶ!
「くそったれ!いてーーーーっんだよ!」
やっと久留米市に入った。
途中、黄色のドゥカティが絡んできたのには腹が立ったが、それ以外これと言ってトラブルも危険も感じることなく、走行することが出来ていた。
だが、どうしても俺は幸運の女神とやらに好かれないらしい。
久留米市を出る頃だろうか、メーターパネルに見たことの無い光を発見する。
エンジン警告灯が、点灯した。