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十四

「ごめんなさい!ごめんなさい!」

 まさにパブロフの犬だった。

 謝らなくてはいけない。

 父に、誇り高く恐ろしい父に。

 謝らなければきっと、俺は行き場を無くしてしまう。

 帰る家を無くしてしまう。

 土下座でも足りないくらいだ。

 ……どうしよう……どうしたら許してもらえるのだろう……。

 分からない……分からない……。

 世界がぐにゃり、と歪みだした。

 閉じた瞳のその裏で、緑と赤の光が渦となり異形の怪物を生み出して行く……。

 その魔物が俺を喰い殺しかねない形相で、襲いかかってくる!!

 止めて!いや止めないで!!殺してくれ!!いっそひと思いに!!

 ザクザクと、砂利を踏みしめる音が、妄想を引き裂いた。

 ……現実なのだ。

 今、裁きが下されるのだ……。

「なーに。いいんだよ」

「え……!?」

 裁きの声は予想に反し、気味が悪いほどの優しさに満ちあふれていた。

 いいって……何がだろ……どういう意味なんだろ……。

「どうしたんだ。頭を上げろよ。ほら」

 父の手が俺の肩をつかむ。

 身に覚えのない暖かさが、俺の胸にはじりじりと熱かった。

「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……。」

 あふれ出る謝罪の言葉と涙と嗚咽をどうすることも出来なかった。

 横隔膜は意志とは関係なく微細動を続け、時に大きく脈打った。

 全身の筋肉は哀れにも痙攣を起こし続ける。

 その動きはまるで全身の水分という水分を瞳から絞り出す運動のようで、父は見るに堪えなかったのか、山の斜面の方に懐中電灯を向けた。

「車、呼ぶか?もう、走れないだろう?」

「いや……走ります……走りたい……走らせてください……」

「そうか……もうちょっとだぞ。頑張れ。お母さんも心配してる」

「うぅ……ごめんなさい……俺、出来なかったよ……みんなみたいに、出来なかった……」

「……。」

「期待、裏切りっぱなしで……ダメな奴で……ごめんなさい……」

「……もう、いいから。行こう」

「はい……」

 父は未だうなだれ、地面の小石を眺めている俺の傍らから、持ち主を失い地面にはいつくばっている自転車に手を掛けた。

 ハンドルを持ち押して歩いてくると、何を思ったのか後部の荷台を両手で掴んだ。

「お父さん、後ろから押してやる」

 その姿が普段の恐ろしい父からは想像が出来ない間抜けさだったので、俺は思わず吹き出してしまった。

「はは……い、いいよ……。こんな坂……ずっとずっと上ってきたんだから」

「ははは……そうだったな。でも、漕ぎ始めだけ、手伝わせろよ」

「うん……。ありがとう」


 父の照らす懐中電灯の貧弱な明かりが、俺の体内の切れかかった予備動力に火を入れたようだ。

 その歩みよりずいぶん遅い"漕ぎ"ではあったが、着実に前へ上へ進んでいく力になった。

「頑張れよ!あと少しだぞ!」

 初めて聞く父の優しい叱咤が、漕ぎのリズムを思い出させる。

 強く!もっと強く!俺はもっと強く漕げるんだ!

 みんなが待ってる!みんなが俺を待っててくれる!

「シュウジ!」

 鼓膜が優しい聞き慣れた声を拾った。

 お母さん……泣いている。

 大きな眼鏡の後ろの瞳が、充血し真っ赤に染まっている。

 真っ赤なのは眼球だけではない。

 まるでルドルフだ。

 赤鼻のトナカイ、ルドルフである。

 感動屋の母は泣くといつもルドルフになるのだ。

 ごめん、お母さん。泣かせたのは俺だね。ごめんね、ごめん。

「シュウジ!頑張れ!負けるな!頑張れ!」

 声が出せなかった。

 もう、そんな余裕もなかったのだ。

「シュウジ!あと少しだ!」

 不意に進路の前に立ち、後ろ歩きで俺を誘導し始めたのはMさんの次男である、シンサク君だった。

「最後の坂はきついぞ!走る気か!」

「はい……最後まで……降りません!」

「良いぞ!お前はよくやったよ!車より速く走ったんだ!誰もお前を抜かせなかったんだ!」

「……!?」

(車より……速く!?)

 そうだったのか……俺は車に追いつかせなかったのか……。

 道理で……誰もいなかったはずだ……速すぎた……俺が……。

「頑張れ!」

「もうちょっとよ!」

「あと少し!」

「踏ん張れ!」

 いろんな所から、いろんな声が聞こえてくる。

 でも、確かめる余裕なんて無い。

 最後の坂はおそらく三十五度を超えていた、。

 普通の状態でも降りて押して駆け上がるのが普通だ。

 でも、みんなの声援が俺に力をくれた。

 だが……ペダルは堅く、俺の足の裏をはね除けようとする。

 その時だ。

「何だ。まだ上るのか」

 冷淡な声だった。

 その声は周囲の空気を凍り付かせるのに十分すぎる威力を持っていた。

 散々聞こえていた声援の声も、一斉に静かになった。

 恐ろしい、声だった。

「ハセガワさん!あんたの息子はまだ走れるそうだ!立派だねえ」

 俺はその声を聞いて激しく憤った。

 奥歯はギリギリと聞いたこともない音色を奏でる。

(鳥居……そんなモノ……嘘っぱちの上に……今度は……俺を……お父さんを、お母さんを……)

 馬鹿にするな!

 貴様のためになんか!

 走ってやるモノか!

 これは!これは!みんなのためなんだ!そして俺の意地だ!

 貴様!嘘つきの貴様に!

 嘘っぱちのお前に!俺の凄さを見せつけてやるんだ!

「くそぉぉぉぉおぉぉおぉおぉぉぉおぉぉっっっ!」

 俺はもう、声に出して叫んでいた。

 そして最後の力を爆発させた。

 ペダルは動きだし、無事たどり着くことに成功する。

 長かったゴールへ……。

 だがそこに、その瞬間に歓迎は無かった。

 先ほどの一言で、空気は凍り付いたままだった。

 さらにショックだったのは、当たり前なのかもしれないが仲間は皆食事を終えていたことだ。

「あ、シュウジ君。お帰り」

 この一言だけだった。

 俺は……みんなのために……走っていたのに……。

 翌日も、昨晩の俺についてふれるモノはいなかった。

 父と母をのぞいては。

 話をしてはいけない雰囲気をMさん夫妻が作り出していたのだ。

 自らの失態を隠すために。

 キャンプ場のすがすがしいはずの朝は、白々しく、ぼやけていた。

 思い出せない……何があったのか……。

 ただ思い出せるのは終始、笑顔を崩さないように気をつけていたことだけだ。

 出発の準備をするために着替えをすませると、昨晩のダメージを調べるために自転車の所へと急いだ。

 誰もいないはずの自転車置き場に、一人の人影が見える。

 その人物がいじっているのは他ならぬ、俺の自転車だった。

「どうしたんですか、おじさん」

 びくっと身体を捻らせ、こちらを向いたその人物はMさんの旦那さんだった。

「いや……これ……前輪空気入れておいた方が良いぞ」

「そうですか……抜けてますか?」

「ああ。もちろんだよ。砂利道あんなに走ったんだからな。」

 罪の意識からか……妙に優しげな表情を浮かべ、微笑みながらアドバイスをくれる。

 私は彼の言葉に疑いも掛けず、空気入れをフレームから外すと作業に取りかかった。

 シュコシュコ……タイヤに空気を送り出していく。

「どうです?こんなモノでしょう?」

「いや、もうちょっとだな……」

 前輪のタイヤの感触を確かめながらMさんの旦那はそう言った。

 思考が停止していた俺は、言うがままに手を動かす。

 空気がどんどん送られていく……。

「よし!こんなモノだろう!」

 私はタイヤにふれることもなく、その場を立ち去った。

 テントなどの片付けを手伝うためだ。

 父と母は昔、父の趣味の写真のフィルム代でスタンプを集めて貰ったテントを持ってきていた。

「懐かしいな……これ……まだあったんだ……」

「使うのは初めてだったけどな」

「今度は、みんなでキャンプしようね」

 母が言った。

 大賛成だった。

 家族みんなでキャンプ……どんなに楽しいだろう!

 出発の時間が来た。

 今度はもう、上らなくて良いんだ。

 東京まで、もう山はない。

 下りだけの道、平坦な道……都会の道……どれだけ待ちわびたのだろう!

 タケシが手を挙げる。

 それにつれて皆がブレーキをゆるめる。

 家族の見送る中、俺たちは下りを調子よく走っていった。

 頬を切っていく風が心地よい。

 だが、それも長くは続かなかった。

 パンッッッ!!

 大きな破裂音が、早朝の山道に木霊する!

 その瞬間、ハンドルを持つ手に酷い振動が伝わってくる!!

「!?」

 何で!?パンク!?

 どうして!どうしてこんな時に!!

 俺は半ばパニックになり、自転車を止め、すぐに修理に取りかかろうとし……

「どうしたの!?シュウジ君!!」

 茫然自失の俺の肩をカズが強く揺する。

「パンク?大丈夫だよ。直そう!すぐやれるよ」

 そういって、前輪をのぞき込んだマサキは……。

「うげ……なんだこれ……」

 そうつぶやくと、眉間にしわを寄せ俺の顔をのぞき込んだ。

 だが、俺の意識はもはやこの世界にいなかった……。



「じゃ、行きますよ!」

「ああ、頼む」

 私を発見し、駆けつけてくれた若者三人とFZ1を引き起こしにかかる。

「手、大丈夫ですか?」

 連れの女性が優しく心配をしてくれる。

「うん。ありがとう」

 むろん嘘だ。

 もはや痛みの感覚すらない。

「側溝に対して九十度になるまで、引きずろう!その後はバイクを起こし、エンジンを掛けて、側溝を脱出する」

「真っ直ぐにするんですね」

「そう、真っ直ぐに」

 手が上手く使えない俺に変わり、二人が車体を引きずろうとする。

 が、やはり素人には200kgの車体は重いらしく、加勢する事になった。

「よし、このまま起こそう!」

 いつもは一人で悠々と起こせる車体が、馬鹿に重く感じる。

 三人がかりでやっと直立に戻した。

 俺はキーを捻り、キルスイッチを押してみる。

 ……かかった!

 とりあえずホッとする。

 問題はこの左手だ。

 クラッチを握ってみる。

「!!」

 痛いなんてモノじゃない。

 意識がぶっ飛んでいってしまいそうだ……。

 声にならない奇声を発しクラッチを糞握り(四本がけ)すると、シフトを蹴りこみ動力をホイールに伝える。

 一発で、無事に側溝にはまることなく脱出に成功した。

 静かに路側帯に寄せると、再びバイクを降りた。

「ありがとう。凄く助かったよ。ホントにありがとう」

「でも……どうするんです?このまま帰るんですか?」

「ああ、帰るよ」

「走れますか?手、折れてますよ、それ!」

「走らなきゃ。走って帰らなきゃならないんだ。理由がある。ありがとう、心配してくれて」

 そう、帰らなければならない。

 やり残したことがある。

 それをしなければ、"俺"は報われない。

 それに第一何のためにここまで来たのだ!

 だが、俺のFZ1は前輪のブレーキがもはや使い物にならなかった。

 東京まで制動力の弱いリアブレーキに頼る、危険な運転……。

 下りはまだまだ長かった。

 あれほど、自転車の時に楽しかった下りが、皮肉にも今、私を苦しめようとしていた……。

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