十三
急激なブレーキングによりロックしたリアタイアはそのグリップを無くし、スリップを始めた!!
(転ける!?)
いや、納車してまだ三週間の新車だぞ!!
冗談じゃない!!転んでたまるか!!
私は”新車”であることに、ある種のプレッシャーを感じていた。
それが信じられない行為へと私を駆り立てる。
無意識にブレーキを離してしまったのだ!!
恐怖とプレッシャーの最中に唐突に行われた勢いで、急激にタイヤはそのグリップを取り戻したかと思うと股の間で車体を暴れさせる!!
グリップを取り戻した車体はその不安定な姿勢から逃れるため、起き上がろうと突発的なアクションを開始した!!
(しまった!!ハイサイド!!)
そう思うまもなく、俺は宙に投げ出されていた!!
頭を覆うホーネットの庇の先に、暗いアスファルトと見慣れたロッソネロのグローブが見える!!
(まずい!!)
しかし、もう遅かった。
その次の瞬間アスファルトはその力の全てで私の左手を殴りつけていた!!
あり得ない方向に曲がっていく自らの左手を眺めながら、柔道で言う「前方回転受け身」の姿勢を空中で取らされた後、アスファルトに叩き付けられ、背中から滑っていく……。
やっちまった……だが、どうやら生きている様だな……。
遠くから近づいてくるカロリーを感じたので、すぐさま退避行動をとろうとしたのだが……。
「うっ!?」
左膝に激痛が走る。
見るとニーシンガードが外れ、ダランとだらしなく垂れ下がっているではないか!!
しかし、痛いなどと言ってはいられない!
左足を引きづりながら、やっとの事で退避行動をとることに成功する。
路側帯にまで退避した頃、突き刺すようにヘッドライトが通り過ぎていった。
テールランプの明かりが私を嘲るように赤く煌めき、遠ざかっていく……。
ふん……被害妄想もいいところだ……。
(……バイクは?)
初めてそこでバイクを探す余裕が出来た。
FZ1は……山側の待避所に上手いこと滑っていったらしい。
まあ、待避所はそういう風に出来ていると言えばそれまでなのだが……。
問題は起こせるか、だ。
近づいて確かめてみると、少し難しいことが判明する。
車体は側溝をまたいで倒れており、下手をするとリアタイアが側溝にはまってしまいそうな状態にあったからだ。
普段の私なら……或いは起こせたかも知れないのだが……今は……。
左手に力を入れてみる。
「!?」
激痛としか形容のしがたい信号が、脳の中で暴れ回る!!
これは……やっちまったか!?
左手が使い物にならず、左膝に激痛が走る今の状態では十中八九、”溝に落とす”自信があった。
同時に各部をチェックする。
その様を見たとたん、ある種の疑いが私の脳裏をよぎり出す。
「……走れるのか?これは……」
車体はハイサイドでの転倒の特徴がそのまま色濃く出ていた。
リア左側の損傷が激しく、ウインカーとクラブバーは影も形もない。
シートレールは右に傾いており、おそらくこれは交換しかないだろう。
何とか……跨れそうではあるが……。
もちろんシフトペダルは折れ曲がり、エンジンに接地していまっている。
右側も倒れて滑っていった傷が生々しく、自己主張をしていた。
フロントも……やはり左側の損傷が激しい。
はっきり分からないが、おそらくブレーキローターが逝ってしまっているだろう。
故に前輪のブレーキは効くのかどうかさえ怪しかった。
バイクは重傷だ……体は?
左膝はガード越しの打撲だろう。
今激痛があることは”救い”だ。おそらくたいしたことはない。
背中や腰も脊椎パットと受け身のおかげで全くの無傷だ。
ヘルメットにも傷が無く、大事なところは守れていたようである。
しかし……ちょうどプロテクターのない左手首だけが、みるみウチに腫れ上がってくるのを感じていた。
グローブとライダースの袖から伺える肌の色も、どす黒く変色していくのが見える。
クラッチ……握れるだろうか……。
私は暗闇の中で、興奮し昂ぶった神経を落ち着かせる事に専念していた。
帰る。私は絶対に帰る。
いや、帰らなければならない。ここで助けを呼んでしまったら、おそらくリタイアだろう。
ダメだ!それだけはしてはいけない!!
あの時だって、あの時の私だって!絶望の中で決してあきらめなかったじゃないか!!
それにあの時の私に出来なかったことが、やらなければならなかったのに出来なかったことがあるじゃないか!!
それをせずに帰れるか!!帰れるモノか!!
私は負けたくない!!あの時の責任感の強い、勇敢な私に!!
何時までもあきらめずに走り続けた私に!!負けてはいけない!!負けたくはない!!
弾けるように立ち上がると、私はFZ1のハンドルに手を添えた。
少しでも側溝への落下の危険性を減らすべく、位置をずらすためだ。
「うぅっ!!」
左手首の痛覚が、凶暴なまでにその存在を私に知らしめる。
……こんなモノ……あの時に比べたら……ずっと……ずっと……。
あれからどれくらいの時間が過ぎたのだろう。
時折通り過ぎていた車のヘッドライトも、めっきり来なくなってしまった。
光が見えるたびに期待し、通り過ぎる度に裏切られ落胆する。
一体何度繰り返したのか……。
しかしその楽しみさえ、この暗闇の山は奪っていく。
俺は無意識に胸に手を当てていた。
……あ、そうだ……マリア様はもう、いないんだった……。
得も言われぬ不安が生まれ出でてくるのを感じる。
突然に吐き気を催し、嗚咽を繰り返す。
でも、水と胃液しか出てこない。
このまま……この暗闇の中で……一晩を過ごすのか……。
お父さんとお母さんは……なんと言ってみんなと接しているだろう。
馬鹿な息子だとののしっているに違いない。
俺は……俺は……。
兄貴達みたいに出来なかったよ……。
俺は……失敗ばかりで……。
ついに……一人になっちまったよ……。
これで……もう終わりだ……何もかも……おわりだ……。
囂々と、濁流の流れが鼓膜を優しく通り過ぎていく。
そうだ……花魁の様に……俺も……俺もいっそ……生き恥を晒すくらいなら……いっそ……。
懐中電灯もその明かるさを次第に失っていった。
電気も切れたのか……。
死のう……もう、死ぬしかない……。
懐中電灯を地面に落とし、フラフラと立ち上がるとガードレールに向かって車道の横断を始めた。
待っててね、花魁の皆さん……。
俺も今、そちらへ行きますから……。
眼下に濁流の姿を捕らえたその時、後ろからまばゆいばかりの輝きが近づいてきて俺を照らした。
「お〜い!!シュウジ!!」
その声に反射的に振り返る!!
間違いない!Mさんの旦那さんだ!!
一気に緊張が緩んでゆく。頬を涙がボタボタとしたたり落ちてゆくのを、どうすることも出来なかった。
「待ってるっていったじゃないですかぁ〜〜!!」
「ああ〜〜……ごめんごめん……だってお前、待ってないから……」
「待ってるっていったでしょ!?待ってる車を目印に探すのは、当たり前でしょう!?」
しゃくり上げ、嗚咽しながら泣きじゃくる俺を、宥めようか思案に暮れているようだった。
「とにかく自転車を積もう」
リュウヤとリュウジの父親が俺の肩を掴んで揺すった。
「よく頑張ったよ。上でみんなが待ってるから早く行こう。君の両親も心配している」
「!?」
両親……。
その言葉を聞いた瞬間、心臓の鼓動が不定期に早く打つのを感じていた。
そして瞳の奥のモニターに父の恐ろしい形相がまるで般若面の鬼のように浮かび、幼い頃から繰り返されてきた体罰の記憶がフラッシュバックする……。
そうだ……俺は車になんて乗れない……乗ったら親父に殺される……。
走らなきゃ……自分の力で……最後まで……走らなきゃ……。
「走ります。最後まで……。どいてください……」
「えっ?おい!」
制止する手を振り切り、サドルに跨るとペダルを踏みしめようとした。
だが、すでに力尽きていたのと、酷い砂利道の急斜面であったのでその反動を殺せず、バランスを崩すとそのまま横転してしまった。
石がむき出しの足に突き刺さり、肩も強打する。
「ほら見ろ!止めておけ!」
ほら見ろ……?だからどうした……走らないと……殺される……。
父の恐ろしい形相が、俺を責め立て鞭を打つ。
取り憑かれたように立ち上がり、リュウジの父の肩をつかむと、再び自転車に跨ろうとする。
俺の無言の意志をすくい取ってくれたのか、彼は自分を支えられない俺のバランスをとってくれた。
最初の一漕ぎはおかげで上手くいった。
漕ぎ出せれば何とかなる。フラフラと蛇行を繰り返しながら、ペダルを踏み込んでいく。
カードーレールもない、街灯もない、真っ暗闇の砂利道の上り坂……一歩間違えれば転落してしまう……。
間違えたって良い……生き恥を晒すなら……。
クネクネと曲がりひたすら傾斜し続ける上り坂を、貧弱なダイナモが作り出す明かりを頼り進んでゆく。
しかし、漕ぐ力が弱いせいでその光もまた、余計に弱々しく申し訳なく灯るだけで何の役にも立たなかった。
だが、とりあえず右側から濁流の音が聞こえれば、進路に間違いはない。
正面から聞こえてきたら危険だから右か左に旋回する必要があるだけのことだ。
耳だけが頼りだった。
あまりのエネルギーの枯渇は、俺に前を見ることを忘れさせていた。
しばらく行くと道は少し、ほんの少し優しさをくれた。
舗装されている……どんなにこれが有り難いことなのか……今まで気が付かなかった。
当たり前だとさえ思っていた。
だが、こんなにも有り難く、優しいモノだったなんて!!
アスファルトの助けを得た俺は、まさに水を得た魚、だった。
ペダルを漕ぐリズムを取り戻し、垂れ下がっていた顎は進行方向をしっかり見据えだした。
頑張れ……頑張れ……行かなきゃ……みんなのところに行かなくちゃ……。
やっと上げた顔の先に、ゆらゆらと揺れる丸い光の帯が見える。
「……何だ……何だ、あれ……?」
それは懐中電灯の明かりだった。
人がそれを持ってゆっくりと歩いて下山してくる。
そのシルエットと歩き方で、それが何者であるのか理解できてしまった。
俺は恐怖の虜だった。
サイドスタンドを掛けるのも忘れ、はね除けるようにサドルから飛び降りた。
ガシャン!と大きな音が漆黒の山道に響く。
その行為を咎めるように明かりが、懐中電灯が俺を貫いた。
親父だ……どうしよう……どうしよう……。
逆光越しにその神経質な顔が歪んでいくのが見える。
「ごめんなさい!!ごめんなさい!!」
反射的だった。パブロフの犬とも言うのかも知れない。
俺は土下座した。
土下座をし、自らを守ろうとした。
父の逆鱗から……。
”誇り高き”父の息子として生き残るために……。




