2 ― (3)
執事カフェの混乱は、ぼくを待たずに治まっていた。
廊下に並んだ3年生は、みな一様にうなだれて、ふんまんやる方ない表情をしている。バレー部の下級生達は教室の片づけに忙しそうで、ゴミの分別をしている由宇ちゃんといずみに、
「スギナは?」
と聞いても、ふたりともよく分からないようだった。
「ね。3年生はなんで並んでるの?」
「高橋さんが出て行ってからすぐに、遠藤先生がいらっしゃって、全員よしと言うまで整列だって」
「びっくりしたよ。遠藤先生って、いつもはあんまり大きい声出したり、怒ったりしないでしょ?」
遠藤先生。
そういえば、景ちゃんがドア係の時、ものすごく毅然としていた。あの榊先生に一言も返させなかった静かな迫力を、ぼくは思い出していた。
けど、何で?遠藤先生なんだ?
「…あ」
梅ちゃんだ。
遠藤先生と並んでこちらに向かって来る。
あんなに不機嫌で攻撃的だった梅ちゃんが、遠藤先生と笑いながら何かしゃべっているのが、ぼくにも分かった。
梅ちゃんはぼくに気が付いて、でも、すぐにまた向き直って、遠藤先生と教室の前までやって来た。もうすっかり開いた入り口の脇で、ふたりは立ち止まって話を続けている。
それから少しして、梅ちゃんは教室の中に一歩だけ入って、遠藤先生を待っているみたいだった。
遠藤先生は、一度自分の携帯をポケットから出して、メインディスプレイを確認した後、一列に並んでふてくされている一同に向き直った。
「みなさん。今日の行動は、最上級生としてふさわしくありませんでした。充分に反省をしてくださるように、担任の先生方に課題をお願いしてきました」
ええ~。
廊下に3年生の不満が広がる。
遠藤先生は空気が鎮まるまで待って、ダメ押しをする余裕さえあった。
「納得のいかない方には、来週一週間。マリア会に同行していただき、河川敷の早朝清掃に参加していただきます。希望者のみ残ってください」
先輩達は、すごすごと自分の教室に戻って行った。
遠藤先生の圧勝だ。
「梅本さん。こちらは終了でいいかしら?」
「ありがとうございます。お手数おかけいたしました」
「たいへんでしたね。ご苦労様です。最後まで頑張ってくださいね」
「はい先生。あの…これ、先生に預けていいでしょうか?」
そう言って、ケータイを差し出した梅ちゃんは、ちょっと幼い顔をした。ものすごく可愛い笑顔だった。
「そうですね。私がボックスに戻しておきます。あと、高橋さんを連れて行っていいかしら?杉菜さんのこともあるので、ちゃんとお話を聞かなくてはならないと思うの」
梅ちゃんは、目だけでぼくを呼んだ。
ぼくは悔しさを隠して、ふたりに近づく。へらへらと笑うしかなかった。
何だかぼくひとりだけがかっこ悪い。そう思うと、よけいに笑えてくるのはなんでだろう?
生物室の隣にある準備室には、作りつけの小さな生成の戸棚があって、砂糖やミルクポーション、コーヒー豆に緑茶、ほうじ茶にジャスミンティーと喫茶店のように準備されている。
遠藤先生は、ぼくに葉っぱからオレンジ・ペコを用意してくれた。
「高橋さん。私は職員室に行って、梅本さんの携帯電話をもとに戻してきますから、もうちょっと待っていてくれますか?」
「…はい。あの、先生。梅ちゃんのケータイって、何でここにあるんですか?」
「それについては、後でお話しします。あなたにも知っておいてほしいから。梅本さんは、ずいぶん貴女のために気を使ってくれていましたよ」
「…はあ」
では。と遠藤先生は準備室から足早に出て行った。
ひとりで生物室に残されるのは、あまり気持ちのいいものではない。
ぼくは窓際に立って、中庭をのぞいていた。
ちょうど反対側にテニス部の屋台が見える。芝生の照り返しと風船釣りのプールの水の影が、躍っているみたいで寂しくなる。
まだ人の頭が行き来しているから、景ちゃんは大声でお客さんと話をしてるんだろうな。
ぼくがそんなことをぼんやりと考えている時だった。
ものすごく自然な感じで、
「遠ちゃ~ん。いる?あたし、こっちに来ちゃったよ」
と、女の人の声がした。
洗いざらしの白のコットンシャツにキャメルのバミューダ。オリーヴ色のボブカットの毛先は手前側が長く揃っている。肩に掛けたコーチのキャリーがとても似合っていた。
「あら残念。いないわ」
えんちゃん。
そう呼んだ。遠ちゃん?
遠藤先生の知人なのかな。ぼくは急いで声をかけた。
「あ…もしかして遠藤先生ですか?今、職員室に行きました。もう少しで戻ってこられると思います」
その人は、身体を半分だけ部屋に入れて、ぼくを見ながら、軽く会釈した。
つられて、ぼくも会釈する。
「あなた。高橋さん?そうでしょ。ああ、確かに…こりゃあ、懸相しちゃってもおかしくないねぇ。ホント見事な女っぷりだわ」
どういう意味だろう?『けそう』って言った。
「ここにいるってことは、一応お祭りは終わったのね。よかった。そっか、遠ちゃんと入れ違いになっちゃったんだね。ま、いいや」
言いながら、準備室に入っていった。ぼくも静かについてゆく。
さっき遠藤先生が、ぼくに入れてくれたオレンジ・ペコの缶をそっと手に取り、懐かしそうに目を細め、ぼくにこう言った。
「オレンジ・ペコはね、遠ちゃんのお守りみたいなもんだから。高校の時から、何かある日はこれなのよ。あ、でも、あたしはコーヒーいただこうかな」
その人は、新品のインスタントコーヒーのビニールを裂いて、キャップを廻すと、ティースプーンを反対に持って、柄の先でアルミの蓋に小さな四角い窓を開けた。
「ああ、これ?何だろう…高校の先生に教えてもらったんだよね。その人、インスタントを水みたいに飲むんで、あっという間にひと瓶空っぽになるんだけど。家にあるのと違って、最後まで湿気なくて不思議だったんだよね。やってみたら、けっこう便利なの。いちいちスプーン使わなくていいからね。で、こうやって出す」
瓶ごとカップにフリカケみたいにして、インスタントの粉を出し、楽しそうに鼻歌を歌いながら、ポットのお湯を注いだ。
きっと外から来た人なのに、ものすごくこの部屋に似合っている。
この人は、いったい誰なんだろう?