2 ― (1)
2
スギナはぼくらとおんなじクラスだ。この学校に入学してからだと、景ちゃんの次にぼくに声を掛けて来たのは、彼女だった。
入学式が終わって、教室への移動を始めて間もなくだった。ふいに肩を叩かれて、ぼくはちょっとびくついた。
「高橋さん。高橋さんでしょ?私、杉菜愛美。あなたのお名前と一文字違いの『あゆみ』なの。あゆみって呼んでくださるかしら?」
唐突な自己紹介に面喰って、ぼくはその場にフリーズしてしまった。あとで考えると、スギナはその時、ぼくが好意を持って立ち止まったのだと勘違いをしたのだ。たしかにスギナは派手な顔立ちをしていた。どこかでぼくも一度は、美人だねと言ってしまったのかもしれない。けれど。ぼくは可愛くないものに本当に興味が無い。同じクラスで同じ部活だけれど、ぼくにとってスギナは、ただ挨拶を交わす程度の人だった。
入学して最初の水無月祭。進学クラスのぼくらは、壁にテーマごとの調べ学習を貼り出して発表をするというかなり消極的な参加に留まった。水無月祭とは、いわゆる文化祭にあたるもので、中高一貫のクラスは前年からすでに準備を始めていて、喫茶店を出したり、演劇をしたり、お化け屋敷っぽいものを作ったりと熱が入っている。けれどぼくらは、入ってすぐの6月だから、毎年進学クラスはこれと決まっていたのだ。
各クラスの実行委員が2名で、この年の委員がぼくとスギナだった。
スギナは、すぐに、しょっちゅうメールで相談事を持ちかけてくるようになった。委員の仕事が煩雑で成績が落ちないか心配だ。とか、バレー部の喫茶店の準備もあって大変だ。とか、誰々が自分にいじわるを企てているとか、誰々から嫉妬されている。とかとか。かなり一方的で暴力的だった。
ぼくは正直、相談にもならないよと思っていた。
委員も部活も同じだったから、今考えると、スギナはただぼくに「そうだよね」と言って欲しかっただけだったのかもしれない。でも、どうしてもぼくにはそれができなかった。そして、今でもできない。スギナの考えていることはスギナのものだから、ぼくがどうこうできないけれど、あれでは常に不幸でつまらない。いっしょにいてもぼくはちっとも楽しくない。そういうものに長く付き合わなければならないほど、ぼくは暇でもなかったのだ。
帰りのバスを待つ間。梅ちゃんと景ちゃんといっしょにいるのが、ぼくには自然なことだったし、特別、スギナを意識してもいなかった。むしろ、頭になかったと言う方が正しい。
水無月祭の前日だった。
教室内に展示物を無事貼り出して、ゴミを片づけて、さあ帰るぞと言う時に、それは始まった。
「高橋さん。ちょっといいかしら」
スギナは暗い瞳をしていた。景ちゃんはテニス部の縁日屋台の仕上げに行っていたし、梅ちゃんはもちろんバレー部に駆り出されていた。ぼくも衣装合わせの最終チェックに行くところで、スギナも会場設営に名前が入っていたはずだった。
「…なに?」
もう、誰もいない教室でデジャブのようなタイミングだった。
逃げ遅れた。
ぼくはそう思った。
経験上、向かい合うのは相手の気分を刺激すると知っていたので、ぼくはわざとスギナの隣に並ぶ。そのまま、椅子に腰かけて、反意のないことをアピールしたつもりだった。
「やめて。どうして私にそういうことをするの?私、ずっと悩んでいたのよ。昨日だって全然眠れなかった。高橋さんは、私に何を求めているの?」
いきなり捲し立てられた。求めてるも何も、あんたのことなんかこれっぽっちも考えたことはないよ。そう言えればよかったのに。
ぼくはかなりうろたえた。声も仕草も、ずいぶんとぎこちなかったと思う。
「ど…うしたの?」
「はっきり言って、私は、高橋さんにこれっぽっちも興味が無い!」
だったら、ほっといてくれればいいのに。そう思った。ぼくはスギナに興味が無いことすら知らないほど、興味が無かったのに。
「どうして私なのよ?どうして!」
叫んでいるみたいだった。音が窓に反射して割れるほどに。
「待って。杉菜さん。落ち着いてよ。ゆっくり話してくれないと分からない。ぼくが何かしたの?」
スギナの瞳は真っ赤に膨らんでいた。ああ、綺麗な顔立ちだったんだと、その時ぼくは呑気に考えていた。可愛いものほどではないが、ぼくは綺麗なものも好きだったから。
やにわに、スギナの手がぼくの腰に伸びた。悪寒がするみたいに震えていた。
「ねえ。どうして私にあんな話をしたの?お母さんの話。それを聞いてからずっと、この人はどうしてこんな話を私にするのかしらって悩んだわ」
よく分からない。
母の話?
「だって、私だったら絶対にしないもの。普通の友達には知られたくないことじゃない」
ぼくの母親は、ぼくを産んですぐに家を出た。それは、ぼくにとって人に知られたくないことではなかった。ぼくがぼくであることと同じくらい当たり前のことだ。
「ああ。あれ」
スギナはワナワナと口許を覆って、泣き声を隠そうとしていた。
母の話をしたのは、スギナがメールじゃなくて、電話攻撃に変わってすぐだった。
スギナは電話口で自分の母親の悪口を並べ立て興奮していたので、しばらく黙っていたら、
「高橋さんはお母さんとケンカしないの?」
と聞かれ、しないよと即答した。
もうけっこうな時間だったから、この話を終わらせたくて言ったのだ。
「ウソ」
「嘘じゃないよ。だって、ぼくには生まれた時からお母さんはいないんだもの」
絶句していた。しばらく携帯に耳を当てていたけれど、スギナの気配がなくなった気がして、ぼくはそのまま電源を切った。おやすみも言わなかった。
スギナが気にしているようなことはないのだと、ぼくは丁寧に説明した。景ちゃんが観ていたら、それが余計なことだと教えてくれていただろう。
「だからね。ぼくは、杉菜さんと違う環境にいますよって伝えたいだけだったんだ。でも…余計な心配かけちゃってごめんね」
なるべく身体の距離をとろうと思い、椅子の向きを変えながら座り直す。床が軋んで嫌な音がした。
「バレー部の練習だって…。あなたが頑張るから、私達まで辛いのよ。どうして?もう充分じゃない。先生だって、先輩だって、みんなあなたのことを褒めてる。何で、まだ練習するの。いいじゃない。もう充分でしょ。上手いじゃない」
支離滅裂だ。何でバレー部?
「そんな…。ぼくなんか、いっつも怒鳴られてるじゃない。全然要求に応えられなくて。だから必死なんだよ。だいたい、誰が褒めてるのさ?一度もぼくの耳に届いたことなんかないのに」
本当のことだ。スギナの言っている意味が分からなかった。
だいたい、今の話の流れで、なぜバレー部なのか?
「みんなよ。みんなが褒めてるわ。…私。あなたみたいな人に初めて会ったわ。信じられない…」
それはどういう意味だろう。もし、本当にそう思っているのなら、随分と狭い世界に住んでいたんだねと思う。それに、あなたみたいって、どれだけ知っているというのだろう?ぼくはまだ、本当の自分をスギナに見せたことはない。そう思った。
ぼくはだいぶん落ち着いて、ここまでのスギナのしゃべっていた話を思い返していた。
要するに、ぼくが気に入らないということなんじゃないか?
そんなこと言う女はたくさん知っていた。男はもっとだ。だから、ぼくはあんたみたいのいっぱい知ってる。
「杉菜さん。もしかして何か誤解してる?ぼくは別にあなたのこと…」
「だから嫌なのよ。どうして!わざと無視するの?電話もメールも、お昼も誘ってくれない」
待て。
あんたはぼくに興味がないんじゃなかったのか?
興味がないってのは、そういうことの外側にあるんじゃないのか?
例えば、ぼくがあんたのことを考えたことがないみたいに。
この女は言語体系が違いすぎる。会話にならない。理屈がおかしすぎる。
「そんなこと…ぼくは別に無視なんかしてないよ。でも、そう思わせることがあったんなら謝るよ。ごめんね」
スギナはしくしくと泣き出した。
中学の時。
ひとつ年上の男子に言われた。
「どうして?オレ達、付き合ってたんじゃないのか?なのに何で、俺ばっかりが、君に電話をしなけりゃなんないんだ」
「別に頼んだわけじゃない。それに、用がなければ電話なんてしない。できないよ」
そう言ったら、電話口で泣き出した。
彼は隣町の進学校に通っているらしいけど、それすら、どうでもいい情報になった。
終わったのだ。
いったいどうしたいんだ。それが最後の感想だったっけ。
集合時間はとうに過ぎている。ぼくはその場を切り上げにかかった。こういう時、謝ってしまうのが一番安全で速いことをぼくは学んでいた。
つまり、スギナが気が済めばなんでもいい。
「ごめんね。困ったな。何をしたら許してくれるんだろう?」
あてこすりに聞こえたかな?
私に何を求めているの?
スギナはそう言った。
まったく。頭悪いんじゃないのか?まだるっこしい。
「ねえ。杉菜さん。ぼくはどうしたらいいの」
「私。こんなこと、今まで考えたことなかったの。こんなこと…考えてる自分が嫌だし、考えさせる高橋さんも嫌。でも、どうしても考えてしまうの。嫌なのに。こんな私。…ねえ、どうして?どうして『あゆみ』って呼んでくれないの?どうして梅本さんなの?なんで私じゃないの?」
中学二年のバレンタイン。あの子もおんなじことを言った。
どうして梅本さんなの?
「それは、どういう意味で?親友ってこと?梅ちゃんは中学からの親友だから、悪いけど他の人とは代えられない。杉菜さんは杉菜さんだし」
無理。
だって、あんたとしゃべっても楽しくない。頭悪いんだもの。
辟易という漢字を思い浮かべる。
梅ちゃんが、気にして探しに来ないことを祈った。
「私はものすごく純粋なのよ。何か言われるとすぐそっちを信じやすいの。だから、何でもいいの。言葉をちょうだい。あなたがわたしにだけくれる言葉が欲しい」
この人は、客観性がまるでない。
ぼくが本当に思っていることを言ったとして、それを素直に受け取るのか?
そんなことは信じられない。スギナは自分を知らない。知ろうとさえしていない。
例えば、さっき言ってたみたいな他人を意識することは、誰にだってある。けれど、それを相手に向かって吐き出すことをしないで、みんな自分の心に向き合ってるんじゃないのか?
スギナが、さんざん悩んで苦しんで言ってるんじゃないってことだけは分かる。むしろ、苦しいことに向き合いたくない。簡単に楽になりたいから、こいつは今、ぼくを捕まえているんだ。
楽になんかしたくなかった。
思えば、バカバカしい考えだった。
ぼくはただ、スギナをこらしめるためだけに抱きしめた。
「ごめんね。そんなに悩ませていたなんて気にもしてなかった」
伏せたまつ毛は不揃いだったけれど、まばらに長く、やはりこの子は綺麗なんだなと思わせた。
きれいだけれどからっぽだ。
スギナは真っ赤になっていた。
さっきまであんなに、だらだらとくっちゃべっていた口が固く閉じられていた。
そっと顎を捉えて上を向かせる。
スギナは涙を流していた。うっすらとアイラインが溶けて黒く染まっている。
「…あゆむ」
湿って緩んだ声。まったく。
ぼくはできるだけはっきりと大きな声を出した。
明るくて渇いた声だ。
「杉菜さん。バレー部の方、大丈夫?きっとみんな待っているよ。先に行ってるね。泣きやんだらおいでよ。鏡は観た方がいい。パンダだよ」
二度と名前を呼ばないで欲しかった。だから、これでいい。
ぼくは妄想に浸って泣いてるスギナを教室に置き去りにした。あの顔。絶対にキスを待っていた。
だから、おおっぴらにはしないだろう。