0 5年後。景子。
校門を抜けると右手に幼稚舎。分かれ道に、小さな噴水。野ばらの垣根は変わらない。
5月の緑は目に明るかった。
卒業して5年。
昇降口の扉の設えだけが、新しくなっている気がした。
左手には外部者用の駐車場。渡り廊下の手前にマリア像が白くそびえている。
ごきげんよう。おはようございます。
立ち止まってお辞儀をする少女達の白い襟元が、どれもみな同じようにピンと反っている。
膝頭の隠れるスカートは、肩から紺色のサスペンダーで吊るされていた。ソックスは相変わらず白のみ。
「松田先生。教師用の靴箱はこちらです」
はいと返事をしながら、松田景子は皮のパンプスを揃えて持ち上げた。
四センチの太めのヒールは、採用試験からの馴染みの靴だ。踵の外側が少々くたびれてきているのが目について、慌てて所定の位置に押し込んだ。
「先に校長室にご案内します」
「遠藤先生。敬語はよしてくださいませんか。なんだか、居心地悪い」
「松田先生。敷地内では、生徒の範として、言葉使いにはくれぐれもご注意くださいね。同僚として、ご忠告さしあげます」
首が痒くなりそう。
遠藤先生。勘弁してください。1年のドア係の際、失礼な言葉使いをしたのは、確かにわたくしでしたが、あの後2時間お説教なさったじゃありませんか。
遠ちゃん。
ふたりきりの廊下で、そう呼びかけたいのを我慢しているのに。
松田景子は、心の中でひとり愚痴た。
当時、30半ばの遠藤美穂子を「遠ちゃん」と呼んでいたのは、景子のクラスだけだった。
もともとは、バレー部のあゆむが呼び出して、徐々にクラス全体に広がっていったのだ。
生物の担当の遠藤先生は若い割には地味な印象で、どちらかというと、いまひとつ生徒の受けがよくなかった。
確か水無月祭のバレー部喫茶店で、ウエイター姿のあゆむに群がった先輩達をさばいてくれたのが、きっかけで、あゆむが懐いたんだった。
改めて話してみると、生徒に媚びないけれど丁寧に面倒をみてくれる先生で、景子もすぐに気に入った。
小学校の頃から、景子は学年一の長身で、たいていの場面、前屈み抜きで、友人達と付き合うことはできなかった。
そんな日常生活の積み重ねが、高校入学時には、すっかり景子を猫背にしてしまっていた。
「松田さん、姿勢悪いですよ。意識しないと、せっかくのスタイルが崩れます」
気がつけば、いつも、遠藤は、景子にそう声をかけてくれていた。
「遠ちゃんは、3年間ずっと、景ちゃんの背中を見ていてくれたんだね」
謝恩会の時、梅ちゃんに言われて、あらためて感謝したことを、景子は思い出していた。
そういえば、梅ちゃんは『遠ちゃん』が大好きだったな。
いつだったか中庭で、お昼ご飯を食べた後、梅ちゃんの手作りのカップケーキを頬張りながら、どんな『女』になりたいか三人で話した。
「遠藤先生みたいな女性になりたいの。きちんと生きて行けるひとに。絶対に素敵な女の人になりたいの」
そう、梅ちゃんははにかんだ。
「もう充分素敵ですよ」
あゆむと景子の声は、打ち合わせたみたいに同時にハモッた。
一瞬、互いの目を見つめ合い、それから、口をぽかんと開けている梅ちゃんを置いてきぼりにするような大声で笑った。
少し怒ったふりをしてから、でも、とうとう梅ちゃんも笑いだして、3人でお腹を捩って転げた。
小さくて可愛くて、真面目で努力家な梅ちゃんは、いつでもあゆむの「いちばん」だった。
「校長先生にお客様がいらしているみたいなの」
遠藤は、景子に少し待つように伝え、職員室に入って行く。
景子のいた高校からの進学クラスはたった20人しかいなかった。3年間変わらずにずっといっしょだった。
中高一貫クラスは、ひとクラス40人弱で2コース4クラスもあったのに。
自然、行事ごとに少数派の進学クラスは仲良くなっていったのだけれど、本当はみんなが、あゆむのいちばんになりたがっていた。
学級長で、成績もトップクラスの梅ちゃんは、中学からのあゆむの親友だった。
お人形のように白くって、バレー部の敏腕マネージャー。
小さくて可愛いものに目がなくて、頭のいい人間が好みと大声で言ってはばからなかったあゆむ。だから、誰もが自然に、梅ちゃんのポジションを許していた気がする。
「景ちゃんってば、耳年増な処女だよね」
そんなことを言って、梅ちゃんのヒンシュクを買って落ち込んでいたあゆむ。
昼休み、出入り禁止の屋上で、ふたりでタバコを吸ってるのを、梅ちゃんにみつかって、結局、こっぴどく叱られたっけ。
メンソールは、もう吸ってない。大学時代に付き合った男が、吸わないヤツだったから。
景子は、窓越しに向かいの教室棟を見上げた。
3階の角が、卒業の時の教室だった。
「松田先生。覚えてらっしゃるかしら、町井冬実さん。3年の時、県の芸術祭で大賞をお取りになった。あの時の絵が、応接室に飾られているのよ。ほら、バレー部の高橋あゆむさんがモデルになった。月明かりの薄碧い綺麗な絵。水無月祭で評判になった…」
景子の胸が、異様に上下した。掌に嫌な汗を感じる。
3年の水無月祭。
梅ちゃんの驚いた顔が忘れられない。
「景ちゃん。知ってた?」
ううん。聞いてない。聞いてないよ。知らなかった。いつ。なんで。
あゆむは、ただ内緒にしてただけだと言った。
「梅ちゃんと景ちゃんの驚く顔が観たかったんだよ」
それから、そのあと。あゆむは、梅ちゃんのご機嫌取りに勤しんでいた。だから、何も変わっていないと思ってた。
夏休みは3人でジブリの映画に行って、花火大会やら他の子達といっしょに海にも行った。
景子は、「いちばん近く」でその姿を見ていた。
いっしょに笑い合って、バカやって、何かに意味なく一生懸命になった。
梅本美里は、高橋あゆむの「いちばん」近くにいた少女だった。
町井冬実が現れるまでは。
「いつも梅ちゃんは正しいんだ」と小さく呟いて涙を見せたあゆむ。
反発だったのか。それとも、後悔したんだろうか?景子には分からなかった。
職員室から出てきた遠藤は、景子を応接室に案内してくれた。
それは、記憶の中で思っていたよりも、静かでただ綺麗な絵だった。青い絵の具のグラデーションが彩やかなのに、木製の重厚な額縁とのコントラストが、景子の目にも優しい。
あんなに怖かった絵だったのに。
景子は、吸い込まれるように『あゆむ』に近づいて行った。17歳のあゆむが、そこにいるのだ。
応接室は乾燥していて、芸術祭大賞の絵の表面は微かに割れてきていた。深い焦げ茶の額縁は、木材に似せたプラスティックだと分かった。
あの時もあったろう『夜明け前』というタイトルプレート。作者の名前もただの『町井冬実』だね。なんで。あんなに怖かったんだろう。
景子は、時の流れを肌で感じていた。
「松田先生。姿勢、悪いですよ」
ふいに声を掛けられて、肩がびくついて、自分でも驚いた。振り返ると、見慣れた笑顔が待っていてくれる。
もしかして、遠ちゃんの時間はあの時のまま、止まっているのかも。
ああ。マリアチャイムが鳴っている。
懐かしいな。まさか、わたしがここに教師として 戻ってくるなんて。あの頃の誰が信じるだろう。
あゆむに会いたかった。今、この学校の中庭で。
梅ちゃんと3人で、他愛のない話をして、笑い転げたかった。
「お待たせいたしました。こちらへどうぞ」
遠藤先生は軽く会釈をして校長室への扉を開いた。
景子は来週からこの学校の臨時講師になる。
5nengo.keiko.