6、「永遠の夜へ続く森」(1)
その日の夕飯はとても楽しいものだった。
もちろんちょっとした諍いもあったものの、別に彼らにとってはそう珍しいことではないし、何よりもみんなで取る食事はそれを上回るほど楽しいものだった。
ジェムは結局フィオリの方を見て笑うことはできなかったけど、誰もがその居心地のいい時間に顔をほころばせるようなそんな幸せな夜だった。
それは哀しいほどに幸せな、時間だった――。
どこか遠くから鳥の鳴き声が聞こえる。風が闇色に染まった夜の木立をざわざわと揺すった。
それはごく当たり前で、ひどく静かな夜更け。
そこにかすかな衣擦れの音が加わった。毛布をかぶり横たわっている人々の中で一人、誰かがそっと上半身を起こしたのだ。
彼は物音ひとつ立てないように慎重に寝床を離れる。
赤々と燃える焚き火の前では見張り役の青年が舟を漕いでいた。だが彼はそれを咎めることはできない。
彼は誰にも見られてはならないし、何より彼を眠らせたのは自身に他ならないのだから。
「……」
彼は小さく唇だけで謝罪を口にし、獣よけの焚き火に枝を加えた。そして野営地から足を踏み出す。
一度だけ彼は振り返ったが、その唇は震えるだけで何の言葉も出なかった。
無言で森の中を進んでいく彼は突然広い空間に出た。枝葉に隠された空が唯一伺えるその場所に、さながら闇と同化するようにひとつの黒い影がうずくまっている。
彼はその姿に驚いたように一瞬立ちすくんだが、覚悟を決めて恐る恐る一歩踏み出した。
「――約束どおり、来ました」
「お待ち申しておりましたよ。――ジェム様」
ひざまずく名も無き影が、恭しく頭をたれた。
「ご英断、立派でございます」
馬はまるで飛ぶように駆ける。立派な体躯の青毛の馬にジェムは乗せられていた。同じ鞍の上には黒衣の影がいる。
「ぼくが……、逃げ出すと思いましたか」
「その可能性も十分あったかと」
影はいけしゃあしゃあと言ってのける。
「ただしその場合の咎は貴方様だけではなく、あそこにいたお仲間にも降りかかることはご承知のことだったでしょう」
「……ええ。ちゃんと分かっていましたよ」
ジェムは自分の唇に歯を立てた。甘いようなしょっぱいような血の味がする。
ジェムは悲しげにうつむくが、しかし本当のことを白状してしまえば、そんな脅しがなかったとしてもその言葉には逆らうことはできなかっただろう。
(ぼくはどうしようもない臆病者だから……)
ふっと胸の内で自嘲する。
たぶんこうなるだろうと心のどこかでずっと思っていた。
むりやり押し付けられたとは言え、巡礼と言う初めてできた外を見る機会に自分はこれ以上ないほど浮かれていた。
だけどそれがけして長くは続かないとも分かっていた。ノルズリ大陸を出たあたりから、きっと彼らは自分が学院という檻を出ることを許しはしないだろうと、いつか連れ戻される破目になるのだと覚悟をしていた。
そしてそれは結局現実になった。
たぶん自分はこのまま北の学院に戻されるだろう。学長は役目を果たさない限り復学は許可されないと言っていたけれどもそんなことあの人の力があればどうとでもなることだ。
そうしてあとは旅に出る前と同じように、ただ単調な日々を繰り返すだけ……。
(――何だ。十分ぼくは恵まれているじゃないか)
ジェムはかすかに笑った。
静かに大人しく暮らしている分には命を奪われる心配はなく、突然住まいを焼き払われる危険もない。
家族だってもともとあって無きがごとしものだから失う心配は元よりない。
九年前のフィオリや、その村の人たちに比べればずっとまし――。
だったら何も悲しむ必要はないのだ。
しかし、そんな思いとは裏腹に、ジェムの心境は複雑だった。
突如、大きく馬の背が跳ねる。
「う、うあっ」
慌てて手綱を握る腕にすがりついた。
「しっかり掴まっておいでなさい。振り落とされますよ」
無情なほど静かな影の言葉に、ジェムは顔を蒼ざめさせてこくこくとうなずく。
こんな限界ぎりぎりの速度で走っている馬から落ちれば、きっと怪我ぐらいではすまないだろう。切るように冷たい風が、ぴゅうぴゅうと耳元を流れていく。ジェムの背中に冷や汗が流れた。
(――けど、こんな風に危険な目に遭うのもこれで最後なんだ……)
そう考えると自然と脳裏にこれまでの旅の情景が浮かんだ。
学長に言われて学院を離れ、
始まりの神殿の街で仲間たちと出会い、
アウストリ大陸まで自分の足で歩き、
フィオリに会いスティグマに会い、
そうしてここまでやって来た。
その間たったの三ヶ月弱。
辛いこともあったけど楽しかった。哀しいこともあったけど幸せだった。
あまりにも短く、そして幸福だったこの時間。
生涯でただ一度の冒険。
それはあまりにも眩しくて
今はもう
何も考えられない
「……あ、あの、今は港に、向かっているんですか」
「そうです」
眼に滲む涙を振り払い、追憶を断ち切るかのようにジェムは相手を見上げた。
「ここから一番近い港より船に乗りノルズリ大陸に向かいます。そこから向かう先は――、」
だが影の口から出たのは、ジェムが良く知る学院のそばの港ではなかった。
「えっ、あの、北の学院に戻るんじゃなかったんですか」
影は覆面の間からのぞく冷たい眼差しをちらりとジェムに向ける。
「誰がそのようなことを申しましたか」
「そんなっ、それでは約束が――」
「それは単に貴方様がそう思い込んでいただけのことでございましょう。我が主君は今まで貴方様には少々自由を与えすぎていた。これからは新たなる檻でこれまで以上の監視をつける必要がある、とおっしゃっておりました」
蒼ざめるジェムを見る影の目は、あまりにも冷え切っていた。
「全ては貴方様が導き出した結果。何かご不満がございましょうか」
「……っ」
ジェムは黙り込みうつむくしかなかった。
ぎりりと唇を噛みしめるが、反論の言葉は出てこない。
(それでもまだ、自分は恵まれているんだ――)
ジェムがそう自分を慰めようとした時――、
――駄目だなー、ジェム。たった一度の人生なんだから好きなように生きなきゃ
すでに懐かしくなりつつある声が耳をかすめた気がした。
ジェムは思わず顔を上げる。これはつい数時間前にシエロが言って聞かせてくれた言葉だ。
彼の悪戯っぽい笑みが鮮やかに目の前に蘇る。
ジェムは胸を突かれたように前を見つめるが、そこにはほのかな月明かりに照らされた街道と夜の森が広がるばかりだ。
――これは我々全員に平等に課せられた義務だ。ならば四人それぞれが、自分にできる最大限の努力をすべきだろう
気難しそうなゼーヴルムの声音も脳裏に響く。
――お前には覇気が足りないんだ、覇気が。たまには思い切って無茶苦茶なことでもしてみろよ
バッツの子供らしい、けれどもなんとも心強い声がした。
ふいに。
つんと、涙がこぼれそうになった。
ジェムはぎゅっと歯を食いしばる。
(――ぼくは、何かしただろうか……)
みんなそれぞれ信念をもって巡礼に臨んでいるのに、それを簡単に諦めてしまう自分は一体どんな努力をしただろうか。
みんなを、そして何よりも自分を納得させられるだけの行動を自分は行なっただろうか。否――、
(ぼくはまだ、何もしていない……っ!)
ジェムは反射的に手綱を掴み、強くそれを引き絞った。
突然の手荒い操作に馬が嘶き棹立ちになる。ぐらりと体勢が崩れた。
ジェムはそのまま落馬し地面を転がる。想像以上の衝撃に息が詰まった。
だが、このまま痛みにうめいてもどうしようもない。悲鳴を上げる身体に鞭を打って、ジェムは夜の森へと急ぎ足を向ける。
とっさに馬を宥めようとしていた影が、逃亡するジェムに目を止め驚いたように叫んだ。
「待ちなさいっ、一体どこに行こうと言うのです。貴方様の居場所はどこにもないはずですよっ」
「……っ」
だがジェムはその言葉を振り切るようにさらに足を速めた。
そんなことは分かっている。このまま野営地に帰れば、仲間たちに迷惑が掛かってしまうだろう。そんなことはできるはずない。だからそこに戻るという選択肢は元よりなかった。
ただ遠くへ。どこか遠くへ。
ジェムの思いはそれだけだった。
漆黒に近い闇の中、手探りで森を進んでいくジェムの耳に早くも追跡者が立てるかすかな音が聞こえた。
いや、あの影ならこの暗い森の中でも物音ひとつ立てることはないだろう。単なる空耳か、あるいは追い詰められたジェムが発揮した第六感のなせる技か。
だがどちらにしても悠長にしている暇はない。闇夜での追跡になれている影と足元すらおぼつかない自分とでは、どちらに分があるか分かりきっている。このままではほどなくして捕まるだろう。
(せめて――どこか、どこかに隠れなくては)
それで一体どれほど影の目を誤魔化せるのかは分からない。けれどもこのままなすすべもなく捕まることはできなかった。
足掻いて足掻いて足掻き切って。自分にできる精一杯の事をして。そうして初めて、ジェムは堂々と自分も巡礼の仲間だと名乗れるような気がした。
ざわりと背筋が総毛だった。無音の圧力にうなじがちりちりする。追跡者がすぐそこまで来ているのだ。
ジェムはすぐ傍の繁みをがむしゃらに掻き分けて行く。
細かい枝の先がジェムの頬を引っかいた。だがそんな痛みに頓着はしていられない。早く早く。
だが――、
「――えっ」
突然身体が沈んだ。踏み出したはずの足の先、そこにあるはずの地面はなかった。
(――間違っても逆の方に行くなよ。ちょっとした崖があるからな)
今更になって、スティグマの忠告がよみがえる。だがもはや遅い。ジェムはまるで黄泉の世界へ引きずり込まれるように斜面を滑っていく。
「うあっ、あっ……、うわぁぁぁ――っ……」
ジェムの身体はなすすべもなく崖を転げ落ちていった。