1、「始まりの神殿」(1)
『――始め、この世界には何もなかった。
空白の世界で《絶対なるもの》は、まず地神と空神の『双生神』を創った。
すると世界に大地と大空が生まれた。
次に《絶対なるもの》は、地と空を隔てそして結ぶものとして海神を創った。
すると世界に大海が生まれた。
《絶対なるもの》は世界の要となるこの『三柱神』にすべてを任せ、この世界を去った。
残された『三柱神』は樹神と火神を創った。
こうして生まれた神々を『五大神』と言う。
これが世界の始まりである……』
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大通りを必死な様子で駆けていた少年は、そのままの勢いで街の中心に位置する神殿に飛び込んだ。
「遅れてしまって申し訳ありません。北の大陸代表のジェム・リヴィングストーンですっ」
彼は勿論、雪の降る学院で退学と引き換えに巡礼者に指名されてしまった不運な学生、ジェムである。
彼が駆け込んだのは、この街ではもっとも伝統ある建造物『始まりの神殿』だった。
代々の巡礼者は、各大陸の神殿をどのような順番で回るかを各自の裁量に任されている。
しかし最初に集まる場所だけは『始まりの神殿』とするのが、昔からの習わしだった。もちろんこれまでの例に漏れず、今回の巡礼もここが集合場所となっていた。
ジェムが生活していた学院は山奥にあったため、隣町にいくような気軽さで辿り付ける場所ではなかったけれど、同じ大陸であるため他の巡礼者に比べればずっと楽だ。
しかも準備期間は一ヶ月もあり、そもそもの集合期間も十五日間用意されていたためかなりの余裕がある日程だったはずだった。
ならばどうして、彼はここまで慌てていたのか。
それもそのはず。
その集合期間はとっくのとうに、正確に言えば五日も前に過ぎていた。
これは言うまでもなく、大遅刻だった。
ジェムは半べそをかきながら、その場でぺこぺこと頭を下げた。
「本当にごめんなさい。これにはやむにやまれぬ事情があったんです……」
釈明ならいくらでも言える用意が、ジェムにはあった。
しかしそれはけっして、彼が言い訳に長けた人間だからと言うわけではない。
彼の言葉通り、ここまでの道中にやむにやまれぬ事情と言うものがこれでもか、と言うほど彼の身に降りかかっていたのである。
あえていくつか例をあげるとすれば、こうである。
まず、出掛け間際に季節はずれの大雪が吹き荒れ、三日三晩学院内に閉じ込められ。
ようやく出発できたと思えば今度は雪解け水で川が氾濫し、あれよあれよと言う間に目の前で橋が流されて足止めを食らい。
頼みの渡し舟は、ここぞとばかりに賃金値上げを言い張り営業を止め。
そのほか乗り合い馬車が事故に遭ったり、宿が火事になったりと上げ連ねればキリがない。
これは幸先が悪いと言うどころか、むしろ何かに呪われているようだった。
そんなジェムを神殿で待っていたのは、一人の神官だった。
しかしぱっと見た感じは、ただでさえあまり体格が良くない上に頬はこけ、顔色は青白いあまりにもさえない様子のただの中年である。
その場で謝罪の言葉をまくし立てていたジェムだったが、そんな彼に目を向けた途端思わずたじろいだ。
何しろその神官は、唯一ランランと光っていたその目をかっと見開き、聖職者にはあるまじくがっつんがっつんと足音を響かせジェムに迫って来たのだ。それもかなりの速さがある。
そのあまりに異様な迫力に半泣きだったジェムすら言葉をなくし、思わず目をつぶり身をすくませた。
神官は骨ばった指でがしっとジェムの手を掴む。
「良くぞ、良くぞいらして下さったぁぁあ!」
「は?」
おそるおそる目をあけてみると、神官はジェムの手をぶんぶんと振りながら涙ぐんでいた。
いったい何がなんだか分からないが、とりあえず手を握られたまま鼻汁を擦られそうになり、慌てて両手を取り返す。
少なくとも伝統ある巡礼に遅刻した不届き者にするにしては、あまりにも熱烈な歓迎振りであった。
「そ、そんな、遅れてしまって大変恐縮しております」
「いえいえ、来て下さっただけでも有難いことですよ」
神官は手ぬぐいを取り出してそっと目尻をぬぐう。
神官の過敏な反応に混乱は隠せないものの、とりあえず怒られることはなさそうだと分かりジェムはほっと胸をなぜ下ろした。
巡礼を任された早々に遅刻というとんでもない失敗をやらかしてしまい焦ったが、どうやらとても心の広い神官が担当であるらしい。
ともあれひと安心したジェムは気を取り直し、早速一番気がかりだったことをたずねることにした。
「あのぅ、他の使節の皆さんはどこにいらっしゃるんでしょう?」
神官に叱責は受けなくても、他の巡礼の仲間には一言謝らなくてはならない。
そう考えたゆえのジェムの疑問だったが、返された神官の答えは予想からかなりはずれたものだった。
「……おられません」
「はあ?」
ジェムはとっさに自分の耳を疑った。そしてはっと思いいたる。
「ああ、ぼくが遅いので先に行ってしまったんですね。それじゃあ……」
「いいえ、違います。そうではなく、いらっしゃらないのです」
やけにはっきりとした神官の声に不穏なものを感じつつも、ジェムは首をかしげた。
「それって、どういう意味でしょうか?」
「他の皆さんは、まだ一人もおいでになってないのです……っ!」
あまりの答えにジェムは言葉を失った。神官は再び目を潤ませ、ずずーっと鼻汁をすすっている。
そんなこと一番最初に否定した、いや、むしろ思い付きさえもしなかった展開である。
神官のあそこまで熱烈な歓迎にようやく納得がいった。
なるほど、予定の日時から五日も過ぎてまだ誰ひとりとして神殿に来ていないとなれば、泣きたくなるのも無理はない。もちろんジェムの目の前も真っ暗になった。
「えっと、本当に紛れもなく、誰も来ていないんですか?」
自分も遅刻した負い目もあってか、何とか気を取り直したジェムはえぐえぐと泣きじゃくる神官にもう一度確認を取る。神官は首を横に振った。
「いいえ、十日ほど前にお一人だけここにいらした方がいます。しかしその方は、まだ誰も着いてないならまだいいか、と出ていかれて、それきり何の音沙汰もなく……」
「その人が今どこにいるのかご存知ですか?」
たずねるジェムに神官はどこか自信なさ気に答える。
「偶然その店に入る所を見かけたと言う者がいるというだけで、確かな情報ではないのですが……」
「それでも構いません。ぼくが行って確かめてきます」
おずおずと告げられた店の名前を脳裏に刻むと、ジェムは急いで神殿を後にした。