プロローグ 「誰がために雪は降る」(1)
「ごめんなさいっ! 通りますっ、通して下さいぃぃ!!」
勢いよく肩をぶつけられた人間が、不愉快そうに顔をしかめて舌打ちする。
それに必死になって謝りながら、懸命に群衆を掻き分けていく小さな姿があった。
ここは北の大陸<ノルズリ>において、最大の貿易港を持つ街エリドール。
各大陸から、沢山の旅行者や商売人たちが日々やってくる。
長い手足に尖った耳を持つのは、東の大陸から来た商人だろう。
あの弦楽器を手にした綺麗な若者は、きっと西の大陸の吟遊詩人だ。
浅黒い肌に大柄の体躯の男性は、南東の諸島の船乗りに違いない。
そんな多種多様な人種が入り混じる、興味深い人ごみを掻き分けながら、濃い茶色の髪の小柄な少年は涙目になって走っていた。
「うわぁぁ、もう間に合わないぃぃっ!」
彼は今にも倒れそうな顔色に死にもの狂いの表情で浮かべ、半泣きになりながら悲鳴をあげた。
「ごめんなぁぁぁいっ!」
なぜ彼がこれほどまでに焦っているのか、その理由はおよそ二ヶ月前にさかのぼる。
◇ ◇ ◇
窓の外に目をやると、ちらちらと小雪が舞っていた。
「寒いと思った……」
少年は、はぁとかじかんだ手に息を当てる。白く色付いた吐息が彼の指先にほのかなぬくもりを与えた。
ページをめくる音が普段より硬い気がするのは、雪が湿気を吸い取っているからだろうか。誰もいない書庫では紙の擦れる音と、燭台の炎の揺らめく音、そしてペンを走らせるカリカリという音がやけに大きく聞こえた。
彼がインク壷の中にペン先を浸したその時、何の前触れもなく扉が開いた。
「ああ、やっぱりここにいたんだな」
冷たい隙間風と共に室内に飛び込んで来たのは、制服をだらしなく着こんだ少年だった。
「部屋にいないからここだろうと思った。しっかし、寒いなぁ、ここは。ほとんど外と変わらないじゃないか」
両手を組んでごしごしと二の腕をこすりながら、親しげな仕種で隣の席に腰をおろす。
図書室の横にある書庫は本棚と机があるだけで、暖炉どころか暖房器具のひとつもない。
それでもここは、少年のお気に入りの場所だった。
「寒いほうが頭がはっきりして効率が上がる……ような気がするんだ」
「まあ、外套を着てるなら風邪もひかないだろうけどな。あれか。また追試論文を書いているのか?」
彼の言葉に少年はうなずいた。
「このあいだの試験、落としちゃったから」
「おいおい、またかよ。もしかすると全科目落としてるんじゃないのか!」
「いや……、まだあと二つ返却残っているし」
「つまり、それ以外は落としてるってことだな」
後から入ってきた方の少年はため息をつき、首を振る。
「おまえ、論文課題だとかなりいい点取れるのに……。だから教授たちも、そっちで挽回させてくれてるんだろうけど」
「人より緊張に弱いのかもしれないね」
「なに他人事みたいに言ってんだよ」
以前はそうじゃなかったんだろ、言われるがそれに曖昧な微笑みを返し、少年は首をかしげた。
「ところで君はいったいどうしたんだい。なんだかぼくを探していたみたいだけど」
「そうだった」
彼はふいと顔をしかめ口篭もる。
「今の話を聞いた後だと、言い出しづらいな」
「悪い話?」
「さあ、分からない。ただ学長がおまえを呼んでいるらしいんだ」
途端に、少年の顔が強張る。
学長と言えば、この学院でもっとも偉い人間だ。そんな人物に呼ばれるとは、並大抵のことではない。
「とりあえず、すぐに学長室に行ったほうがいいぞ」
級友の言葉に、彼は焦ってうなずいた。