魔王を倒した勇者が、俺のアパートに亡命してきた
仕事から帰ったら、玄関の前に勇者がいた。
比喩ではない。
銀色の鎧。腰には剣。背中には赤いマント。
そして、ものすごく疲れた顔をした若い女。
「……あの」
「はい」
「ここ、俺んちなんだけど」
「存じています」
怖い。
俺は一歩下がった。
「なぜ知ってる」
「女神様に、異世界で最も安全な場所へ送ってほしいとお願いしました」
「それで俺んち?」
「はい」
「女神、人選ミスってない?」
女は答えなかった。
代わりに深々と頭を下げた。
「お願いします。私を匿ってください」
「警察呼ぶぞ」
「ケイサツとは?」
駄目だ。
会話が通じているのに話が通じない。
そのとき、ポケットのスマホが震えた。
会社の上司からだった。
『悪い、今度の日曜なんだけど、出られない?』
日曜。
特に予定はない。
『大丈夫です』
送信。
スマホをしまう。
「で、あんた誰?」
女は顔を上げた。
「勇者エリシアです」
「勇者」
「はい」
「何の?」
「魔王を討伐し、世界を救いました」
「すげえじゃん」
「ありがとうございます」
「じゃあ帰れよ」
勇者エリシアは泣きそうな顔になった。
「帰りたくありません」
意味が分からない。
◇
とりあえず部屋に入れた。
正直、入れたくなかった。
しかし玄関前に鎧姿の女を放置して、隣の佐藤さんに見つかるほうが面倒だった。
「そこ座って」
「はい」
「剣、壁に当てんなよ。賃貸だから」
「チンタイ」
「俺の家じゃないってこと」
「領主様からお借りしているのですね」
「まあ、だいたいそんな感じ」
エリシアは妙に納得した。
俺はスーツの上着を脱いで、冷蔵庫から水を出した。
「飲む?」
「いただけるのでしたら」
ペットボトルを渡す。
エリシアはしばらく眺めていた。
「開け方分かる?」
「……申し訳ありません」
キャップをひねってやる。
勇者は世界を救えるが、ペットボトルは開けられないらしい。
一つ勉強になった。
「で」
俺は向かいに座った。
「なんで世界救った奴が亡命してんの?」
「ボウメイ」
「国から逃げて、別の国に住むこと」
「なるほど」
「お前の場合、別の世界だけどな」
エリシアはペットボトルを両手で持ったまま、少し黙った。
「魔王を倒せば、終わると思っていたのです」
「何が?」
「勇者が」
よく分からない。
「十五歳で神託を受けました。魔王を倒し、世界を救う使命を与えられました」
「十五歳」
「はい」
「中学生じゃん」
「チュウガクセイ」
「いや、いい。続けて」
「剣を学び、魔法を学び、各地を巡り、仲間とともに魔王城へ向かいました。五年かかりました」
「じゃあ二十歳か」
「はい」
「大変だったな」
「ですが、倒しました」
「おめでとう」
「ありがとうございます」
「じゃあ終わりじゃん」
「私もそう思いました」
エリシアは遠い目をした。
「王都へ戻った翌日、陛下から王国騎士団総長への就任を命じられました」
「嫌なの?」
「……はい」
「じゃあ断れば?」
エリシアが止まった。
「……はい?」
「嫌なんだろ?」
「はい」
「じゃあ断ればいいじゃん」
「ですが、陛下の命令です」
「俺、そこの事情知らんし」
王様に逆らったら首を切られる世界なら話は別だ。
「その翌日には、西方諸国との和平の象徴として、親善大使になってほしいと」
「嫌なの?」
「はい」
「断れば?」
「大神殿からは、次代の聖騎士たちを指導してほしいと」
「嫌なの?」
エリシアは少し考えた。
「……それは、少し興味があります」
「じゃあやれば?」
「ですが、すべてを引き受ける時間は――」
「全部やる必要ある?」
「私は勇者です」
「それ理由になってる?」
エリシアが黙った。
「国民からは、魔物に襲われた地域を巡って復興を励ましてほしいと頼まれました」
「行きたい?」
「それは……」
「うん」
「分かりません」
「じゃあ考えれば?」
「考える」
「うん」
「私が?」
「他に誰が考えるんだよ」
エリシアは完全に黙り込んだ。
何だこの話。
「それで逃げてきたの?」
「はい」
「なんで俺んち?」
「女神様に『誰も私を勇者として知らない場所へ』と願いました」
「なるほど」
それなら確かに条件は満たしている。
俺はエリシアを知らない。
そもそも魔王がいたことすら知らない。
「しかし」
エリシアが不安そうに俺を見る。
「逃げてしまって、本当によかったのでしょうか」
「知らん」
「……」
「俺、お前の国の人間じゃないし」
「ですが、勇者が責任を放棄すれば――」
「魔王は?」
「倒しました」
「じゃあ一番でかい仕事終わってるじゃん」
「まだ魔物は残っています。復興も必要です」
「それ、お前一人でやるの?」
「いえ」
「じゃあいいじゃん」
「ですが私は勇者です」
「今は俺んちで水飲んでる無職だろ」
エリシアがペットボトルを見た。
何かものすごくショックを受けている。
事実を言っただけなのだが。
「あなたには……使命はないのですか?」
「ないよ」
今度は俺が聞かれた。
「では、国から命じられることは?」
「ない」
「国王陛下からは?」
「国王がいない」
「……国王がいない?」
そこに一番驚くのか。
「では、誰の命令で毎日働いているのです?」
「会社」
「カイシャ」
「まあ、組織」
「騎士団のような?」
「たぶん全然違う」
「なぜそこで働いているのですか?」
「金」
エリシアが固まった。
「……お金」
「そう」
「それだけですか?」
「今の会社を選んだ理由なら、家から近かったから」
「……」
今日一番の絶句だった。
失礼な奴だ。
「仕事とは、そんなものなのですか?」
「知らん。すごい志を持って働いてる奴もいるんじゃない?」
「あなたは?」
「ない」
「では、なぜ続けているのです?」
「別に辞めるほど嫌じゃないから」
エリシアは黙り込んだ。
俺は腹が減ってきた。
「飯食う?」
「……よろしいのですか?」
「俺が食いたいから作るだけ。食うなら二人分作る」
「いただきます」
「じゃあ鎧脱げよ」
「なぜですか?」
「飯食う格好じゃないだろ」
◇
勇者にジャージを貸した。
俺のだ。
サイズが合わず、袖が余っている。
世界を救った勇者が、スーパーで千九百八十円だった俺のジャージを着ている。
異世界というのは恐ろしいところだ。
「これは動きやすいですね」
「だろ」
「防御力は?」
「ゼロ」
「ゼロ」
「たぶん」
エリシアが不安そうに袖を触った。
「ここには魔物はいないのですか?」
「いない」
「盗賊は?」
「たぶんいない」
「敵国の兵士は?」
「来たらニュースになる」
「……平和なのですね」
「まあな」
冷凍餃子を焼いた。
味噌汁はインスタント。
ご飯は朝炊いた残りをレンジで温める。
テーブルに並べると、エリシアは目を丸くした。
「こんなに用意していただいて……」
「餃子焼いただけだぞ」
「ギョウザ」
「食え」
食べ方を教えた。
一個食べた。
エリシアの目が見開かれた。
「おいしいです」
「よかったな」
二個目。
三個目。
速い。
「これほどの料理を毎日?」
「いや、今日は餃子」
「昨日は?」
「カレー」
「その前は?」
「コンビニ弁当」
「コンビニ」
「説明めんどくさいから後で連れてく」
エリシアの箸が止まった。
「後で?」
「行きたいんだろ?」
「……よろしいのですか?」
「何が」
「私が行きたいという理由で、あなたの予定を変えても」
「別に予定ないし」
「ですが」
「俺が嫌なら断るよ」
また止まった。
今日はよく止まる勇者だ。
「……断る」
「うん」
「嫌なら、断る」
「普通だろ」
「普通」
エリシアは小さく呟いた。
「それが、こちらでは普通なのですね」
「場合によるけどな」
「では」
エリシアは少し迷ってから言った。
「コンビニへ行きたいです」
「おう」
勇者が初めて、自分がしたいことを口にした。
行き先はコンビニだった。
◇
エリシアはコンビニで三十分悩んだ。
「決めろよ」
「多すぎます!」
「何が」
「全部です!」
おにぎりだけで十種類以上あることに衝撃を受け、アイス売り場で動かなくなり、雑誌コーナーで「この世界では本がこんなに安いのですか」と驚いた。
店員が、
「いらっしゃいませー」
と言っただけで剣を探したので、それは止めた。
結局、エリシアはアイスを一つ選んだ。
「それでいいの?」
「はい」
「もっと高いやつもあるぞ」
「これが食べたいです」
「じゃあそれでいいじゃん」
レジへ持っていった。
帰り道。
エリシアはコンビニ袋を大事そうに抱えていた。
「不思議な場所ですね」
「コンビニが?」
「この世界が」
「一時間くらいしか見てないだろ」
「それでも分かります」
「何が?」
「誰も私に、何も求めません」
街灯の下で、エリシアが笑った。
「店員の方は、私が勇者だと知りません」
「俺も知らなかったし」
「道を歩いている方々も」
「そりゃそうだ」
「あなたも」
「うん」
「私が魔王を倒したことなど、どうでもよいのですね」
「まあ、俺には関係ないからな」
エリシアはまた笑った。
「それが、こんなに楽だとは知りませんでした」
俺にはよく分からなかった。
世界を救ったことなんてないから。
ただ。
「じゃあ、しばらくいれば?」
そう言ってみた。
エリシアは立ち止まった。
「よいのですか?」
「家賃は取るぞ」
「お金を持っていません」
「じゃあ駄目だな」
「働きます」
「お前、在留資格あるの?」
「ザイリュウシカク」
「駄目だな」
異世界人が日本で働くのは、魔王討伐より難しいかもしれない。
◇
翌朝。
目を覚ますと、エリシアはもう鎧を着ていた。
「帰るの?」
「はい」
「もういいのか?」
「はい」
「昨日はあんなに帰りたくないって言ってたのに」
「帰りたくないわけではなかったのだと、分かりました」
「じゃあ何だったの?」
エリシアは少し考えた。
「帰ったら、また『勇者』にならなければならないと思っていました」
「勇者じゃん」
「はい」
エリシアは笑った。
「ですが、勇者であることと、言われたことをすべて引き受けることは違うのでしょう?」
「まあ、そうなんじゃない?」
「騎士団総長にはなりません」
「うん」
「親善大使も断ります」
「うん」
「聖騎士の指導は引き受けます」
「やるんだ」
「はい。考えてみたら、私は人に剣を教えるのが好きでした」
「じゃあやれば?」
「はい」
昨日より、その返事がずっと速かった。
「魔物に襲われた村にも行きます」
「頼まれたから?」
「いいえ」
エリシアは首を振った。
「私が行きたいからです」
「そっか」
「はい」
それなら、いいんじゃないだろうか。
俺には異世界の事情なんて分からない。
勇者がどう生きるべきかなんて、もっと分からない。
ただ、自分で決めたなら、昨日よりはマシだろう。
「あなたのおかげです」
「俺、何もしてないぞ」
「たくさん教えていただきました」
「コンビニの使い方くらいだろ」
「嫌なら断ってよいことも」
「それ、俺が許可することじゃないけどな」
「はい」
エリシアは頷いた。
「自分で決めることですから」
足元に光の輪が広がった。
本当に帰れるらしい。
「ありがとうございました」
「おう」
「いつか、また来てもよいでしょうか」
「事前に連絡しろ」
「方法がありません」
「じゃあ来るな」
「そのとき考えます」
「お前、たった一日でだいぶ自由になったな」
エリシアが笑った。
「では」
光が強くなる。
「行ってきます」
「おう。行ってらっしゃい」
光が弾けた。
エリシアの姿が消えた。
部屋が静かになった。
昨日まで知らなかった奴が一人いなくなっただけなのに、妙に広く感じる。
まあ、いい。
帰りたいところへ、自分で帰ると決めたんだから。
そのとき、スマホが震えた。
会社の上司だった。
『悪い。日曜の件なんだけど、朝から一日お願いしてもいい?』
画面を見る。
そういえば昨日、出られると返事をした。
予定はない。
別に出てもいい。
いつもなら、そう思った。
俺は少し考えた。
『すみません。やっぱり日曜は無理です』
送信。
十秒もしないうちに返信が来た。
『了解。じゃあ田中に頼むわ』
俺はスマホを見つめた。
「……それだけかよ」
あれだけ勇者に偉そうなことを言っておいて、俺も大して変わらなかったらしい。
世界を救った勇者ほどじゃない。
俺が救ったのは、日曜日一日だけだった。




