【連載化あり】婚約破棄された私を「可愛げがない」と笑った婚約者に、侍女が顔面ケーキをお届けしました【後日談追加】
「リディア・フォン・クラウゼル。君との婚約を、今この場で破棄する」
王宮の大広間に、よく通る声が響いた。
楽団の音が止まる。
踊っていた人々の足も止まる。
視線が一斉にこちらへ集まった。
声の主は、私の婚約者であるフェリクス様だった。
侯爵家の嫡男で、顔立ちは整っている。背も高い。装いにも隙がない。社交界では、穏やかで理知的な紳士として通っている。
けれど私は知っている。
フェリクス様は、穏やかな声で人を傷つけるのが、とても上手な方だった。
「理由をお聞きしても?」
私は、できるだけ静かに尋ねた。
ここで声を荒らげてはいけない。
婚約破棄を突きつけられた令嬢が取り乱せば、周囲は理由など聞かない。
やはり彼女に問題があったのだ、と納得するだけだ。
だから私は微笑んだ。
笑顔とは便利な仮面である。割れそうな時ほど、厚く貼りつけるに限る。
「君は冷たすぎる」
フェリクス様は、深く息をついた。
その仕草は、まるで出来の悪い生徒を諭す教師のようだった。
「僕がどれほど歩み寄っても、君は伯爵家の娘としての礼儀ばかりを気にする。妻となる女性には、もっと柔らかさが必要だ。僕を立て、僕に寄り添い、僕の言葉を素直に受け入れる心がね」
ああ。
またそれか。
私は少しだけ首を傾げた。
「素直に、でございますか」
「そうだ。君はいつも理屈を並べる。父上との話し合いでもそうだった。僕の考えに疑問を挟み、家の帳簿のことにまで口を出した」
「婚姻後の共同財産に関わることでしたので」
「そういうところだよ」
フェリクス様は、困ったように笑った。
優しい顔だった。
優しい顔で、私を黙らせようとしていた。
「女は少しくらい、知らないふりをしていた方が可愛げがある」
大広間の空気が、わずかに揺れた。
今の言葉は、さすがに聞こえたらしい。
私の背後に控えていた侍女のマリアが、一歩だけ近づいてきた。
そして、たいへん静かな声で囁く。
「お嬢様」
「何かしら」
「私が転ぶふりをして、あの方に頭突きしてまいります」
「やめなさい」
私は即答した。
「まだ何もしておりません」
「今、予定を聞きました」
「予定ではございません。ご提案です」
「もっと悪いわ」
私たちは小声で会話していたつもりだった。
けれど、広間が静まり返っていたせいで、近くの数人には聞こえたらしい。
誰かが扇の陰で目を丸くした。
フェリクス様は眉を寄せた。
「何をこそこそ話している」
「失礼いたしました。侍女が少々、足元を気にしておりまして」
「足元?」
「ええ。転ばないように」
マリアが、無表情のまま小さく頷いた。
「はい。転ばないように努めます」
努めるだけなのが怖い。
私は軽く咳払いをした。
「フェリクス様。婚約破棄のお話でしたら、正式な場で、両家の立会いのもと進めるべきです。このような夜会の場で宣言なさることではございません」
「君はまだ状況が分かっていないようだね」
フェリクス様の隣に、淡い桃色のドレスを着た令嬢が進み出た。
マリアンヌ嬢。
フェリクス様が最近、親しくしていると噂されていた子爵令嬢である。
彼女は潤んだ目でフェリクス様を見上げていた。
「僕は真実の愛を見つけた。マリアンヌは、君と違って僕を疑わない。僕を責めない。僕のために涙を流してくれる」
「涙ですか」
私はマリアンヌ嬢を見た。
たしかに彼女の目元は潤んでいる。
けれど、その視線はフェリクス様よりも、周囲の反応を気にしているように見えた。
泣く位置取りが上手い方だ。
「リディア」
フェリクス様は、一歩こちらへ近づいた。
「君も伯爵家の娘なら、ここは潔く身を引くべきだ。騒ぎ立てれば、君の家にも傷がつく。僕は君のためを思って言っている」
君のため。
その言葉が出る時は、だいたい言っている本人のためである。
「君は謝罪し、僕たちを祝福すればいい。そうすれば、僕も君の次の縁談には口を利いてあげよう」
なんて親切なのだろう。
顔にケーキを乗せて差し上げたいくらいである。
もちろん、私はしない。
淑女なので。
「お嬢様」
また背後から、マリアの声がした。
「今なら、自然に転べます」
「自然に転ぶとは何」
「あちらの絨毯の端が、少し浮いております」
「確認しないで」
「足を取られたことにして、額から」
「額から行かないで。あなたの額が痛むわ」
「ご心配いただき、光栄です」
「心配はしているけれど、許可はしていません」
フェリクス様のこめかみが動いた。
「リディア。君はこの場でもふざけるのか」
「ふざけているのは、どちらでしょうか」
私は笑みを消した。
「婚約破棄を公衆の面前で宣言し、理由として私の性格を挙げ、別の令嬢との真実の愛を語り、そのうえで私に謝罪と祝福を求める。ずいぶんと盛りだくさんですわね」
「君は本当に可愛げがないな」
「その点は、先ほども伺いました」
「だから君は選ばれなかったんだ」
その声には、はっきりとした侮りが混じっていた。
「女は、賢いふりをして男を困らせるべきじゃない。君のような女は、誰の妻にも向かないよ」
広間の奥で、誰かが息を呑んだ。
私は何も言わなかった。
言わなかったのではない。
言うより先に、マリアが動いた。
「お嬢様。申し訳ございません」
「マリア?」
「転びます」
「待ちなさい」
待たなかった。
マリアはすっと一歩踏み出した。
それは、あまりにも優雅な一歩だった。
けれど次の瞬間、彼女の靴先が本当に絨毯の端に引っかかった。
「あ」
マリアが小さく声を漏らした。
転ぶふりではなかった。
本当に転んだ。
彼女はとっさに、近くのテーブルクロスを掴んだ。
白い布が引かれる。
銀の皿が跳ねる。
グラスが傾く。
そして、夜会用に飾られていた大きなデコレーションケーキが、ふわりと宙を舞った。
たいへん美しい弧だった。
白い生クリーム。
赤い苺。
砂糖細工の薔薇。
それらが燭台の光を受けて、きらきらと輝きながら飛んでいく。
向かう先は、フェリクス様の顔面だった。
べちゃり。
広間に、柔らかく、重たい音が響いた。
沈黙。
フェリクス様の顔が、ケーキになっていた。
生クリームが、彼の額から鼻筋を通り、ゆっくりと顎へ垂れていく。
つい先ほどまで、彼は私を見下ろしていた。
女は知らないふりをしていた方がいいとか。
可愛げがないとか。
誰の妻にも向かないとか。
たいへん立派な顔で、たいへん立派ではない言葉を並べていた。
その立派な顔に、今は苺が乗っている。
広間は静まり返っていた。
いや、違う。
静まり返ろうとして、失敗していた。
誰かが小さく噴き出した。
それを誤魔化すように、咳払いが続く。
扇で口元を隠す令嬢が三人。
肩を震わせる令息が二人。
壁際の楽師に至っては、完全に横を向いている。
マリアンヌ嬢は、口元を押さえていた。
泣いているのかと思った。
違った。
笑うのを堪えていた。
「……貴様」
フェリクス様が低く唸った。
けれど頬を滑り落ちたクリームのせいで、少しも怖くなかった。
マリアが床に片膝をついたまま、深く頭を下げる。
「申し訳ございません」
その声は、いつも通り淡々としていた。
「頭突きではございませんでした」
「そこではないわ」
私は思わず返した。
「ですが、お嬢様。私は頭突きをしておりません」
「ええ。そこは認めます」
「事故です」
「そうね。大変、不幸な事故だったわ」
フェリクス様の顔から、苺がひとつ落ちた。
ぽとり。
それだけで、広間の端からまた小さな音がした。
今度は咳払いでは誤魔化せていなかった。
「リディア!」
フェリクス様が叫んだ。
「これは侮辱だぞ!」
「私も、先ほどまでずいぶん侮辱されていた気がいたします」
「僕を誰だと思っている!」
「私の婚約を破棄された方です」
「まだ正式に破棄していない!」
「あら」
私は目を瞬いた。
「では先ほどの宣言は、取り消されますか?」
フェリクス様が言葉に詰まった。
顔からクリームを垂らしたまま、彼は周囲を見回した。
けれど誰も助けに入らない。
当然だ。
彼は自分で大広間の中央に立ち、自分で婚約破棄を宣言し、自分で私を貶めた。
そこにケーキが飛んできただけである。
たしかに印象は変わった。
劇的に。
「……今のは、事故ですわ」
マリアンヌ嬢が、か細い声で言った。
フェリクス様が彼女を見た。
「マリアンヌ?」
「だって、侍女の方は本当に転んでいらしたもの。頭突きではありませんでしたし」
マリアンヌ嬢は真剣な顔で続けた。
「それに、フェリクス様。先ほどの発言は、その……少し、あまりにも」
少しではない。
けれど、彼女の立場ではそれが限界なのだろう。
マリアンヌ嬢は、ようやく気づいたような顔をしていた。
自分が愛されたのではなく、都合よく泣く女として選ばれただけなのだと。
フェリクス様の顔が赤くなった。
クリームの下で赤くなっているので、やや苺に似ていた。
「君まで僕を笑うのか」
「笑ってはおりません」
マリアンヌ嬢は言った。
その直後、彼女の肩が小さく震えた。
笑っている。
完全に笑っている。
「失礼。少し、咳が」
周囲からも、また咳払いが起きた。
夜会でこれほど咳が流行したのは、王国史上初めてかもしれない。
その時、大広間の入口から重々しい声が響いた。
「何の騒ぎだ」
フェリクス様の父君である侯爵閣下だった。
閣下は広間の中央を見た。
婚約破棄を宣言された私。
床に膝をつく侍女。
笑いを堪える招待客。
そして、顔面にホールケーキを受けた息子。
侯爵閣下は、長い沈黙のあと、ゆっくりと目を閉じた。
「フェリクス」
「父上、これは」
「黙れ」
その一言で、フェリクス様は口を閉じた。
やはり親は強い。
侯爵閣下は私に向き直った。
「クラウゼル嬢。息子が大変な失礼をした」
「いえ」
「この件は、後日正式に話し合いの場を設けさせていただく。もちろん、今夜の発言についてもだ」
「承知いたしました」
「それと」
侯爵閣下は、床の上のマリアを見た。
「そちらの侍女は」
マリアが顔を上げた。
「はい」
「怪我はないか」
「ございません」
「それはよかった」
侯爵閣下は、少しだけ遠い目をした。
「ケーキは残念だったが」
「申し訳ございません」
「いや」
侯爵閣下は、息子の顔を見た。
「用途としては、そう悪くなかったかもしれん」
広間のあちこちで、今度こそはっきりと吹き出す音がした。
フェリクス様は震えていた。
怒りか、屈辱か、寒さか。
クリームはまだ垂れている。
私は淑女として、ハンカチを差し出すべきか少し迷った。
やめた。
私のハンカチに罪はない。
「参りましょう、マリア」
「はい、お嬢様」
マリアは立ち上がり、何事もなかったように私の後ろへ控えた。
私は侯爵閣下に一礼し、広間を出ようとした。
その途中で、マリアがまた耳元に近づく。
「お嬢様」
「何かしら」
「次回は、もう少し自然に転べるよう練習しておきます」
「次回がある前提で話さないで」
「失礼いたしました。では、万一に備えて」
「備えないで」
「承知いたしました」
絶対に承知していない声だった。
私は小さく息を吐いた。
婚約破棄された夜に、侍女が転ぶふりをして頭突きしようとし、結果として婚約者の顔面にケーキが飛ぶ。
人生には、予想できないことが多すぎる。
けれど一つだけ、はっきりしていることがある。
あの顔に乗った苺を、私はきっと一生忘れない。
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侍女マリアシリーズ第二弾公開しました。
「断罪された私を笑う王子に、侍女が証拠書類とインク壺をお届けしました 」
侍女マリア視点と、その後の二人を加えた連載版を始めました。
『私の侍女が顔面ケーキをお届けします。』
本作のダイジェスト、マリア視点、後日譚を掲載しています。
ページタイトル上のシリーズ「恋愛小説のはずでした」からどうぞ。




