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恋愛小説のはずでした

【連載化あり】婚約破棄された私を「可愛げがない」と笑った婚約者に、侍女が顔面ケーキをお届けしました【後日談追加】

作者: 堀吉 蔵人
掲載日:2026/07/03

「リディア・フォン・クラウゼル。君との婚約を、今この場で破棄する」


 王宮の大広間に、よく通る声が響いた。


 楽団の音が止まる。


 踊っていた人々の足も止まる。


 視線が一斉にこちらへ集まった。


 声の主は、私の婚約者であるフェリクス様だった。


 侯爵家の嫡男で、顔立ちは整っている。背も高い。装いにも隙がない。社交界では、穏やかで理知的な紳士として通っている。


 けれど私は知っている。


 フェリクス様は、穏やかな声で人を傷つけるのが、とても上手な方だった。


「理由をお聞きしても?」


 私は、できるだけ静かに尋ねた。


 ここで声を荒らげてはいけない。


 婚約破棄を突きつけられた令嬢が取り乱せば、周囲は理由など聞かない。


 やはり彼女に問題があったのだ、と納得するだけだ。


 だから私は微笑んだ。


 笑顔とは便利な仮面である。割れそうな時ほど、厚く貼りつけるに限る。


「君は冷たすぎる」


 フェリクス様は、深く息をついた。


 その仕草は、まるで出来の悪い生徒を諭す教師のようだった。


「僕がどれほど歩み寄っても、君は伯爵家の娘としての礼儀ばかりを気にする。妻となる女性には、もっと柔らかさが必要だ。僕を立て、僕に寄り添い、僕の言葉を素直に受け入れる心がね」


 ああ。


 またそれか。


 私は少しだけ首を傾げた。


「素直に、でございますか」


「そうだ。君はいつも理屈を並べる。父上との話し合いでもそうだった。僕の考えに疑問を挟み、家の帳簿のことにまで口を出した」


「婚姻後の共同財産に関わることでしたので」


「そういうところだよ」


 フェリクス様は、困ったように笑った。


 優しい顔だった。


 優しい顔で、私を黙らせようとしていた。


「女は少しくらい、知らないふりをしていた方が可愛げがある」


 大広間の空気が、わずかに揺れた。


 今の言葉は、さすがに聞こえたらしい。


 私の背後に控えていた侍女のマリアが、一歩だけ近づいてきた。


 そして、たいへん静かな声で囁く。


「お嬢様」


「何かしら」


「私が転ぶふりをして、あの方に頭突きしてまいります」


「やめなさい」


 私は即答した。


「まだ何もしておりません」


「今、予定を聞きました」


「予定ではございません。ご提案です」


「もっと悪いわ」


 私たちは小声で会話していたつもりだった。


 けれど、広間が静まり返っていたせいで、近くの数人には聞こえたらしい。


 誰かが扇の陰で目を丸くした。


 フェリクス様は眉を寄せた。


「何をこそこそ話している」


「失礼いたしました。侍女が少々、足元を気にしておりまして」


「足元?」


「ええ。転ばないように」


 マリアが、無表情のまま小さく頷いた。


「はい。転ばないように努めます」


 努めるだけなのが怖い。


 私は軽く咳払いをした。


「フェリクス様。婚約破棄のお話でしたら、正式な場で、両家の立会いのもと進めるべきです。このような夜会の場で宣言なさることではございません」


「君はまだ状況が分かっていないようだね」


 フェリクス様の隣に、淡い桃色のドレスを着た令嬢が進み出た。


 マリアンヌ嬢。


 フェリクス様が最近、親しくしていると噂されていた子爵令嬢である。


 彼女は潤んだ目でフェリクス様を見上げていた。


「僕は真実の愛を見つけた。マリアンヌは、君と違って僕を疑わない。僕を責めない。僕のために涙を流してくれる」


「涙ですか」


 私はマリアンヌ嬢を見た。


 たしかに彼女の目元は潤んでいる。


 けれど、その視線はフェリクス様よりも、周囲の反応を気にしているように見えた。


 泣く位置取りが上手い方だ。


「リディア」


 フェリクス様は、一歩こちらへ近づいた。


「君も伯爵家の娘なら、ここは潔く身を引くべきだ。騒ぎ立てれば、君の家にも傷がつく。僕は君のためを思って言っている」


 君のため。


 その言葉が出る時は、だいたい言っている本人のためである。


「君は謝罪し、僕たちを祝福すればいい。そうすれば、僕も君の次の縁談には口を利いてあげよう」


 なんて親切なのだろう。


 顔にケーキを乗せて差し上げたいくらいである。


 もちろん、私はしない。


 淑女なので。


「お嬢様」


 また背後から、マリアの声がした。


「今なら、自然に転べます」


「自然に転ぶとは何」


「あちらの絨毯の端が、少し浮いております」


「確認しないで」


「足を取られたことにして、額から」


「額から行かないで。あなたの額が痛むわ」


「ご心配いただき、光栄です」


「心配はしているけれど、許可はしていません」


 フェリクス様のこめかみが動いた。


「リディア。君はこの場でもふざけるのか」


「ふざけているのは、どちらでしょうか」


 私は笑みを消した。


「婚約破棄を公衆の面前で宣言し、理由として私の性格を挙げ、別の令嬢との真実の愛を語り、そのうえで私に謝罪と祝福を求める。ずいぶんと盛りだくさんですわね」


「君は本当に可愛げがないな」


「その点は、先ほども伺いました」


「だから君は選ばれなかったんだ」


 その声には、はっきりとした侮りが混じっていた。


「女は、賢いふりをして男を困らせるべきじゃない。君のような女は、誰の妻にも向かないよ」


 広間の奥で、誰かが息を呑んだ。


 私は何も言わなかった。


 言わなかったのではない。


 言うより先に、マリアが動いた。


「お嬢様。申し訳ございません」


「マリア?」


「転びます」


「待ちなさい」


 待たなかった。


 マリアはすっと一歩踏み出した。


 それは、あまりにも優雅な一歩だった。


 けれど次の瞬間、彼女の靴先が本当に絨毯の端に引っかかった。


「あ」


 マリアが小さく声を漏らした。


 転ぶふりではなかった。


 本当に転んだ。


 彼女はとっさに、近くのテーブルクロスを掴んだ。


 白い布が引かれる。


 銀の皿が跳ねる。


 グラスが傾く。


 そして、夜会用に飾られていた大きなデコレーションケーキが、ふわりと宙を舞った。


 たいへん美しい弧だった。


 白い生クリーム。


 赤い苺。


 砂糖細工の薔薇。


 それらが燭台の光を受けて、きらきらと輝きながら飛んでいく。


 向かう先は、フェリクス様の顔面だった。


 べちゃり。


 広間に、柔らかく、重たい音が響いた。


 沈黙。


 フェリクス様の顔が、ケーキになっていた。


 生クリームが、彼の額から鼻筋を通り、ゆっくりと顎へ垂れていく。


 つい先ほどまで、彼は私を見下ろしていた。


 女は知らないふりをしていた方がいいとか。


 可愛げがないとか。


 誰の妻にも向かないとか。


 たいへん立派な顔で、たいへん立派ではない言葉を並べていた。


 その立派な顔に、今は苺が乗っている。


 広間は静まり返っていた。


 いや、違う。


 静まり返ろうとして、失敗していた。


 誰かが小さく噴き出した。


 それを誤魔化すように、咳払いが続く。


 扇で口元を隠す令嬢が三人。


 肩を震わせる令息が二人。


 壁際の楽師に至っては、完全に横を向いている。


 マリアンヌ嬢は、口元を押さえていた。


 泣いているのかと思った。


 違った。


 笑うのを堪えていた。


「……貴様」


 フェリクス様が低く唸った。


 けれど頬を滑り落ちたクリームのせいで、少しも怖くなかった。


 マリアが床に片膝をついたまま、深く頭を下げる。


「申し訳ございません」


 その声は、いつも通り淡々としていた。


「頭突きではございませんでした」


「そこではないわ」


 私は思わず返した。


「ですが、お嬢様。私は頭突きをしておりません」


「ええ。そこは認めます」


「事故です」


「そうね。大変、不幸な事故だったわ」


 フェリクス様の顔から、苺がひとつ落ちた。


 ぽとり。


 それだけで、広間の端からまた小さな音がした。


 今度は咳払いでは誤魔化せていなかった。


「リディア!」


 フェリクス様が叫んだ。


「これは侮辱だぞ!」


「私も、先ほどまでずいぶん侮辱されていた気がいたします」


「僕を誰だと思っている!」


「私の婚約を破棄された方です」


「まだ正式に破棄していない!」


「あら」


 私は目を瞬いた。


「では先ほどの宣言は、取り消されますか?」


 フェリクス様が言葉に詰まった。


 顔からクリームを垂らしたまま、彼は周囲を見回した。


 けれど誰も助けに入らない。


 当然だ。


 彼は自分で大広間の中央に立ち、自分で婚約破棄を宣言し、自分で私を貶めた。


 そこにケーキが飛んできただけである。


 たしかに印象は変わった。


 劇的に。


「……今のは、事故ですわ」


 マリアンヌ嬢が、か細い声で言った。


 フェリクス様が彼女を見た。


「マリアンヌ?」


「だって、侍女の方は本当に転んでいらしたもの。頭突きではありませんでしたし」


 マリアンヌ嬢は真剣な顔で続けた。


「それに、フェリクス様。先ほどの発言は、その……少し、あまりにも」


 少しではない。


 けれど、彼女の立場ではそれが限界なのだろう。


 マリアンヌ嬢は、ようやく気づいたような顔をしていた。


 自分が愛されたのではなく、都合よく泣く女として選ばれただけなのだと。


 フェリクス様の顔が赤くなった。


 クリームの下で赤くなっているので、やや苺に似ていた。


「君まで僕を笑うのか」


「笑ってはおりません」


 マリアンヌ嬢は言った。


 その直後、彼女の肩が小さく震えた。


 笑っている。


 完全に笑っている。


「失礼。少し、咳が」


 周囲からも、また咳払いが起きた。


 夜会でこれほど咳が流行したのは、王国史上初めてかもしれない。


 その時、大広間の入口から重々しい声が響いた。


「何の騒ぎだ」


 フェリクス様の父君である侯爵閣下だった。


 閣下は広間の中央を見た。


 婚約破棄を宣言された私。


 床に膝をつく侍女。


 笑いを堪える招待客。


 そして、顔面にホールケーキを受けた息子。


 侯爵閣下は、長い沈黙のあと、ゆっくりと目を閉じた。


「フェリクス」


「父上、これは」


「黙れ」


 その一言で、フェリクス様は口を閉じた。


 やはり親は強い。


 侯爵閣下は私に向き直った。


「クラウゼル嬢。息子が大変な失礼をした」


「いえ」


「この件は、後日正式に話し合いの場を設けさせていただく。もちろん、今夜の発言についてもだ」


「承知いたしました」


「それと」


 侯爵閣下は、床の上のマリアを見た。


「そちらの侍女は」


 マリアが顔を上げた。


「はい」


「怪我はないか」


「ございません」


「それはよかった」


 侯爵閣下は、少しだけ遠い目をした。


「ケーキは残念だったが」


「申し訳ございません」


「いや」


 侯爵閣下は、息子の顔を見た。


「用途としては、そう悪くなかったかもしれん」


 広間のあちこちで、今度こそはっきりと吹き出す音がした。


 フェリクス様は震えていた。


 怒りか、屈辱か、寒さか。


 クリームはまだ垂れている。


 私は淑女として、ハンカチを差し出すべきか少し迷った。


 やめた。


 私のハンカチに罪はない。


「参りましょう、マリア」


「はい、お嬢様」


 マリアは立ち上がり、何事もなかったように私の後ろへ控えた。


 私は侯爵閣下に一礼し、広間を出ようとした。


 その途中で、マリアがまた耳元に近づく。


「お嬢様」


「何かしら」


「次回は、もう少し自然に転べるよう練習しておきます」


「次回がある前提で話さないで」


「失礼いたしました。では、万一に備えて」


「備えないで」


「承知いたしました」


 絶対に承知していない声だった。


 私は小さく息を吐いた。


 婚約破棄された夜に、侍女が転ぶふりをして頭突きしようとし、結果として婚約者の顔面にケーキが飛ぶ。


 人生には、予想できないことが多すぎる。


 けれど一つだけ、はっきりしていることがある。


 あの顔に乗った苺を、私はきっと一生忘れない。


お読みいただきありがとうございます!

面白かったと思われましたら評価、ブックマークなどいただけると嬉しいです。


侍女マリアシリーズ第二弾公開しました。

「断罪された私を笑う王子に、侍女が証拠書類とインク壺をお届けしました 」


侍女マリア視点と、その後の二人を加えた連載版を始めました。

『私の侍女が顔面ケーキをお届けします。』

本作のダイジェスト、マリア視点、後日譚を掲載しています。

ページタイトル上のシリーズ「恋愛小説のはずでした」からどうぞ。


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― 新着の感想 ―
下の方の、そのガチャ見かけたら教えてください!ぜひ!! 人目も憚らず笑いながら回す自信がある。 とても笑いました。破壊力満点の絵面でした。 家で読んで良かった。 殺生能力高すぎて。(笑) タイトル…
やばい、ニヤニヤして読み終わってタイトル見たら、恋愛小説のはずでした、って書いてある。腹がいたい。
ざまぁ! maybe. 婚約破棄劇場を開催するトンチキは除籍されてしまえ。
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