聖獣の秘薬と消したい過去
「……ここは、本当の天国かしら」
視界がゆっくりと開ける。後頭部を壁にもろ強打したはずなのに、不思議と痛みはない。それどころか、後頭部を包み込んでいるのは、マシュマロよりも柔らかく温かい「膝枕」だった。
「あら、天使様。お目覚めですか?」
リネットの優しい声が降ってくる。彼女は私の白い毛並みを、まるでもろい宝物を扱うように、指先で丁寧に梳いてくれていた。
(リネットさん……あなた、いい人ね。レオヴィルと違って、愛が適温だわ……)
私がうっとりと目を細め、喉をゴロゴロと鳴らそうとしたその時。
「おい、そこをどけ。ここは俺の専用席だ」
ドスッ、という衝撃と共に、私はリネットの膝から無慈悲に蹴り落とされた。
空中で一回転した私の体が着地したのは、ふかふかした……けれど、妙に弾力のあるグレーの塊の上だった。
「……ふぎゃっ」
「モグ!? ごめんなさい、大丈夫!?」
「いいよぉ、ステラちゃん……。慣れてるから……ムニャムニャ」
下敷きになったモグは、潰れた大福のような顔で眠っている。私は慌てて飛び降りると、リネットの膝を占領して丸くなっている銀猫、ギルを睨みつけた。
「ちょっとギル! あんた何すんのよ! 私は今、壁に激突して重傷だったのよ!?」
「死んでないなら重傷じゃない。リネット、こいつを甘やかしすぎだ。ただの着飾った置物だろ」
ギルは私の抗議を無視して、リネットの手のひらに自分の頭をこすりつけて、ニャア、ニャア鳴いている。リネットは困ったように笑いながら、ギルを少し横に退けた。
「だめよギル。天使様はまだフラフラされているんだから。……はい、天使様。こちらへ」
再びリネットの膝に戻される私。それを見て、ギルの尻尾が左右に激しく揺れ、強く床を叩く。
「……すまねえな、モグ。変なのが降ってきて重かっただろ」
「いいよぉ、ギル……。あ、コカトリスの蒸し肉を食べてる夢の続きを見なきゃ」
「……キーーーーッ! ギル! あんた、モグには謝るのに私には謝らないわけ!? 腹立つわねこの銀猫!」
私がリネットの膝の上で毛を逆立てていると、リネットが優しく私を下ろし、何かを思い出したように棚へ向かった。
「そうだわ。昨日、庭園に珍しいお花が咲いていたから、少し錬金術で粉を作ってみたの。ンフフ♪ ギルも天使様も、仲良くしなきゃダメよ?」
リネットは少し錬金術の心得があるらしい。彼女が取り出したのは、私が昨日「激おこ爆発魔法」で咲かせた花の中に混じっていた、特殊な植物の粉末らしい。
「ごめんなさいね、天使様。ギルったら、昔はもっと甘えん坊で、私がいないと夜も眠れない子だったのよ〜」
「リネット! 余計なことを言うな!」
ギルが焦って叫ぶが、私にはしっかり聞こえている。私はニヤリと口角を上げた。
「へぇ〜、ギルちゃ〜ん。甘えん坊だったのねぇ〜? 意外だわぁ〜。今じゃこんなに尖っちゃって」
「……おい、その目はなんだ。殺すぞ」
「あら、何も言ってないわよぉ〜?」
そこへ、モグがとどめを刺した。
「ギル、小さい頃は、僕の耳をずっとチュパチュパ吸ってたんだよねぇ……。甘噛み痛かったなぁ」
「モグ! 黙れ!!」
ギルの顔が、毛の下で真っ赤になっているのがわかる。私は腹を抱えて笑い転げたかったが、リネットが差し出した「粉」が鼻先をかすめた瞬間、すべてが飛んだ。
(……!? な、なにこれ。すごく、いい匂い……いや、匂いっていうか、脳に、魂に、直接響く……)
リネットが用意したのは『猛獣使いの秘薬』の試作版らしい。しかし、材料が「聖獣(私)」の魔力で生成された超高純度のマタタビ成分だったのが運の尽きだった。
「さあ、二人とも仲良く……あら?」
最初に逝ったのは、私だった。
「にゃっ、にゃは、にゃはははは!!」
体の芯から熱い何かが突き上げ、理性のスイッチが強制終了した。
私は床に転がり、我を忘れて背中を畳(風の床)に擦り付け、空中を前足でフニフニと捏ね始めた。止まらにゃい。
「……っ、ふん、俺がそんな安っぽい粉に……にゃ、にゃおおおぉぉん!?」
ギルも陥落した。
あんなにクールぶっていた銀猫が、よだれを垂らさんばかりの顔で私の隣に転がり込み、「リネットおぉぉ、おしりトントンしてぇぇ」と、なぜかモグの尻尾を抱きしめ始めた。
「あはは! ギル、くすぐったいよぉ! 僕も楽しくなっちゃった!」
モグまで参戦。
三匹の猫(うち一匹は元社畜)が、床で団子状態になってゴロゴロ、スリスリ、フニャフニャと悶絶し、ラリり散らかす地獄……いや、リネットにとっては天国のような光景。
「うふふ、みんなとっても仲良しね♪」
微笑むリネット。彼女は気づいていない。この粉が、王国を揺るがすレベルの依存性を持っていることに……。
三十分後。
薬効が切れた私たちは、死体のように床に転がっていた。皿洗いをしている、リネットの鼻歌だけが聞こえてくる。
「…………」
「…………」
私とギルは、ゆっくりと体を起こした。モグは仮死状態だ。
お互いの顔を見られない。
私は、ギルが私の腹に顔を突っ込んで「ママぁ……」と呟いていたのを聞いたし、ギルは私がお尻を高く突き出して「もっとぉ!」と叫んでいた(ような鳴き声をしていた)のを見ていた。
「……おい。あんな姿、二度と誰にも見せるなよ」
ギルが、消え入りそうな声で、壁を見つめたまま言った。
「…………それはこっちのセリフよ。一生の不覚だわ」
私たちは、気まずい沈黙の中で、そっと視線を逸らした。
仲良くなったわけではない。
ただ、「共通の、死ぬほど恥ずかしい秘密」を抱えた運命共同体になってしまっただけだ。
(……あ、レオヴィルが帰ってきたら、このラリッ粉、絶対隠さなきゃ。あいつに見つかったら、この屋敷と私の脳が物理的に崩壊するわ……)
私は、少しだけ距離が縮まった(物理的にぶつかり合った)ギルの背中を見ながら、深く、深いため息をつくのだった。




