猫の可愛さには抗えない?
「……さて、今のうちに逃げるか。……あ、違うわ。逃げる必要はないんだ」
レオヴィルが後ろ髪を引かれまくるどころか、後ろの毛が全部抜けるんじゃないかという勢いで出勤させられていった後。私は一人(一匹)、誰もいなくなった豪華な寝室で立ち尽くしていた。静かね……。
前世なら、上司がいなくなった隙に溜まったメールを捌くか、トイレにこもって五分だけ仮眠を取るかの二択だったけれど、今の私に課せられた業務は「自由」である。
「……とりあえず、歩く練習ね」
四本の足を交互に動かす。右、左、右後ろ、左後ろ。
……よし。だいぶ慣れてきた。私は再度ピンと尻尾を立てて、開けっ放しになっていた扉から廊下へと躍り出た。
公爵邸は、どこもかしこも「金」の匂いがした。
磨き抜かれた大理石の床、飾られた彫刻、そして等間隔に配置された使用人たち。彼らは私が通りかかるたびに、ハッと息を呑んで直立不動になる。
「……見たか、今の肉球の音を」
「ああ、まるで祈りが天に届くような可憐な音だった……」
(もう怖い……。仕事して。本当に怖いから……。私を見る目が『可愛い』じゃなくて『神を拝む信者』のそれなのよ!)
使用人たちの熱視線(重圧)から逃れるように、私は庭園へと続くテラスへ飛び出した。
そこは、色とりどりの魔界の花(?)が咲き乱れる美しい庭だった。
太陽の光が心地よい。前世では窓のないオフィスで人工灯に体を焼かれていた私にとって、この日差しは最高の贅沢だ。
「ふにゃああ……(生き返るわぁ……)」
(やっぱり、なんだかんだいって、猫って気楽よね♪)
芝生の上でゴロンと寝返りを打った、その時だった。
「……あら。それが、兄様が拾ってきたという例の『こ汚い猫』かしら?」
冷ややかな、けれど鈴を転がすような高い声が響いた。
見上げれば、そこにはレオヴィルと同じ銀髪を背まで伸ばした、気の強そうな美少女が立っていた。
年の頃は十六、七。フリルたっぷりのドレスを着こなした、いかにも「高貴な令嬢」という佇まいだが、その目は私を鋭く射抜いている。
(うわ、出た。悪役令嬢(公爵令嬢)……レオヴィルの妹さんかな? 完全に敵意の眼差しなんですけど! でもいいな、悪役令嬢って。私も色んなドレス着たかった……。猫よりは……マシよね。一応人間だし)
「カトリーナ様、危のうございます! その、その生物はあまりに可愛すぎて、心臓への負担が……!」
後ろに控える侍女が必死に止めるのを、カトリーナと呼ばれた少女は扇子で制した。
「下がりなさい。私は兄様ほど愚かではないわ。動物なんて、毛がつくし、鳴き声は騒がしいし、何より私は重度の動物アレルギー……はっ、はくちゅんっ!」
カトリーナは私から三メートル以上離れているというのに、大袈裟にくしゃみをした。
そして、忌々しげに私を指差す。
「いい? 私はあなたを認めないわ。兄様の正気を奪い、騎士団の規律を乱す不浄な生き物。今すぐこの屋敷から――」
(……あ、そっ。じゃあ、失礼しますね。私もあなたに関わりたくないし。寝直しよ)
面倒なことに巻き込まれるのが一番嫌いな私は、あっさりとその場を去ろうとした。
だが、四足歩行の猫の体というのは思い通りにいかない。
去り際に、つい「日向で温まった石」に躓いてしまい、無様にゴロゴロと転がってしまった。
「にゃ、にゃうんっ!?」
勢い余って、私はカトリーナの靴の先まで転がっていき、彼女の足首にふわふわの体が「ギュッ」と密着する形になってしまった。
「……っ!? 触れ、触れたわね!? 私の純潔なドレスに! くるな、あっちへ行きなさい! 鼻が、鼻がムズムズして……ムズムズ……」
カトリーナが言葉を失った。
彼女は自分の鼻を抑え、目をパチパチさせている。
「……して、ない? 目も痒くないし、息も苦しくない……?」
(……え? そ、そういえば……。レオヴィルがなんか言ってたわね。『ステラ・キャットには何かの力がある』とか何とか。どうやら私は……歩く空気清浄機の力を授かっていたいみたいね。)
私が「にゃ~(害はないわよ)」と暢気に鳴くと、カトリーナの顔が劇的に変化した。
それまでの剣呑な表情はどこへやら。彼女の瞳は潤み、頬はバラ色に染まり、震える指先がじりじりと私に近づいてくる。
「……あ、アレルギーが出ないなら、話は別よ。不浄どころか、これは聖なる毛並み……。ちょっと、ちょっとだけ検分してあげるわ。動くんじゃないわよ、この獣……!」
そう言って彼女が私を抱き上げた瞬間。
「カトリーナ、私の至宝に何をしている」
冷気。
背後から、文字通り「氷の騎士団長」としてのプレッシャーを纏ったレオヴィルが立っていた。
(嘘でしょ……クビフラグ。早いよ! まだ昼休みにもなってないでしょ!? 仕事はどうしたのよ!)
「に、兄様!? これは、その、検品を……!」
「嘘をつけ。お前のその手は、今まさに『顎の下を撫でよう』という角度だった。離せ。その子は私の、私だけの天使だ」
「嫌ですわ! アレルギーが出ない猫なんて初めてですもの! この子は今日から私が面倒を見ます!」
(……待って。引っ張らないで。私、伸びるタイプの猫じゃないから! 毛が、毛が!! 毛が抜ける!!)
兄妹が私を挟んでバチバチと視線を散らす中、私は悟った。
スローライフへの道のりは、想像以上に険しい。この屋敷には、まともな人間が一人もいないのだ。いや、幸い一人いた。でもたった一人……。
(誰か……誰か私に、静かな昼寝をちょうだい……!)
私の切実な願いは、レオヴィルの「さあ、私の胸へ戻っておいで!」という熱烈なハグによって、虚しくも遮られるのだった。




