猫が諦めない夜
別れた夜から、帰り道がなくなった。
正確には、家はある。鍵も、住所も、ベッドもある。ただ、帰ってしまうと、その出来事が「終わったもの」になる気がして、足が向かなかった。
駅前の明かりはいつも通りで、コンビニも、バス停も、終電を逃した人の顔も、何一つ変わらない。変わったのは、私だけだ。世界は平然と続いているのに、私の時間だけが、途中で引っかかっている。
彼が言った言葉を、何度も頭の中でなぞる。
ごめん、という言葉。
嫌いになったわけじゃない、という前置き。
もう続けられない、という結論。
優しさは刃物だ。
刺さるとき、音がしない。
私は駅裏の路地に入り、街灯の下で立ち止まった。ここは少し暗くて、風が溜まりやすい。誰かの視線も届きにくい。立ち止まるには、ちょうどいい場所だった。
そこで、猫を見た。
灰色で、少し痩せている。耳の先が欠けていて、目つきは鋭いのに、動きは妙に慎重だ。猫は地面に落ちている何かをくわえ、数歩進んでは落とす。それをまた拾い、くわえ直す。
段ボールの切れ端だ。
湿って、角が潰れている。どう見ても、役に立ちそうにない。
猫はそれを引きずり、植え込みの影まで運ぼうとしているらしい。途中で何度も止まり、口を開け、やり直す。失敗しても、立ち去らない。
私は街灯にもたれて、その様子を見ていた。
意味があるのか、ないのか。
成功しているのか、していないのか。
わからない。ただ、猫の手は止まらない。
――馬鹿みたい。
胸の奥で、そう思う。
同時に、羨ましいとも思った。
私は、たった一言で止まってしまった。
あの言葉を聞いた瞬間、動けなくなった。考えられなくなった。次に何をすればいいのか、わからなくなった。
なのに、猫は違う。
誰に評価されるでもなく、誰に感謝されるでもなく、同じ動作を繰り返している。
その夜は、結局、猫が段ボールを運びきれたのかどうか、わからないまま終わった。私が先に、その場を離れたからだ。
翌日も、眠れなかった。
目を閉じると、彼の声が近づいてくる。開くと、天井がよそよそしい。
深夜、私はまた駅裏へ向かった。
期待していたわけじゃない。けれど、路地に入った瞬間、胸が少しだけ軽くなった。
猫は、いた。
同じ街灯の下で、同じように何かを運んでいる。今日は、布切れだった。どこかの店の包装の切れ端かもしれない。猫はそれをくわえ、やはり途中で落とし、また拾う。
昨日より、少しだけ上手くなっている気がした。
気のせいかもしれない。
でも、そう思えた。
私はその場にしゃがみ込み、膝を抱えた。
彼のことを考えないようにしようとして、余計に考えてしまう。連絡先を消す勇気もない。ブロックするほど、嫌いにもなれない。
別れたという事実だけが、宙に浮いている。
猫が、私の足元に布切れを落とした。
私は反射的に拾い上げる。
薄くて、汚れていて、価値がない。
捨てても誰も困らない。
そのとき、ほうきの音が近づいてきた。
路地の入口から、清掃員が現れる。蛍光色のベストを着て、黙々とゴミを集めている。私と猫を見て、一瞬だけ足を止めた。
そして、ほうきを動かしながら、独り言のように言った。
「それ、子猫の寝床に持ってくんだよ」
それだけだった。
説明も、補足もない。
猫に向けたのか、私に向けたのかも、わからない。
清掃員はそのまま通り過ぎ、角を曲がって消えた。
私は、手の中の布切れを見つめた。
子猫。
寝床。
猫は、こちらを見ない。ただ、私の足元を回り、布切れをくわえ直す。私は抵抗しなかった。猫はそれを引きずり、昨日と同じ方向へ進んでいく。
胸の奥で、何かがほどけた。
この猫は、結果を気にしていない。
うまくいくかどうかも、考えていない。
ただ、今夜の役目をやっている。
失恋は、私の世界を終わらせたわけじゃない。
私が、終わったと思い込んでいただけだ。
猫の背中を見送りながら、私は立ち上がった。
膝が少しだけ痛む。冷えた証拠だ。
スマートフォンを取り出す。
未送信のメッセージが、まだ残っている。
言い訳のような文章。取り消す勇気も、送る勇気もなかったもの。
私はそれを、消した。
消しても、胸は痛い。
でも、痛いまま立っていられる。
夜明け前の空は、青と灰色の境目だった。
猫は植え込みの奥へ消え、姿が見えなくなる。
私は、路地を出て、家へ向かう。
完全に立ち直ったわけじゃない。
彼を忘れたわけでもない。
それでも、今夜、私は一つ運んだ。
未練を、少しだけ先へ。
朝が来る。
猫が諦めなかった夜は、私にも残っている。
鍵を開け、玄関の灯りをつける。
部屋は静かで、ちゃんと私を待っていた。
私は靴を脱ぎ、深く息を吐いた。
諦めない、というのは、勝つことじゃない。
明日まで、生きものを運ぶことだ。
そのことを、あの夜、猫が教えてくれた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
失恋の痛みは、心を派手に壊すというより、日常の輪郭を少しずつ削っていくものだと思います。世界が何事もなく回り続けることが、いちばん残酷に感じる夜がある。
この短編で描きたかったのは、「立ち直る」ではなく「夜を越える」です。
猫がやっていたのは、勝ち取るための努力ではなく、誰かが眠れる場所を運ぶ作業。諦めないとは、明日までの分を、ひとつずつ運ぶこと。
もし今、あなたにも帰れない夜があるなら、今夜は“完治”ではなく“持ち運べる分だけ”で十分です。




