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猫が諦めない夜

作者: 星渡リン
掲載日:2026/01/09

 別れた夜から、帰り道がなくなった。

 正確には、家はある。鍵も、住所も、ベッドもある。ただ、帰ってしまうと、その出来事が「終わったもの」になる気がして、足が向かなかった。


 駅前の明かりはいつも通りで、コンビニも、バス停も、終電を逃した人の顔も、何一つ変わらない。変わったのは、私だけだ。世界は平然と続いているのに、私の時間だけが、途中で引っかかっている。


 彼が言った言葉を、何度も頭の中でなぞる。

 ごめん、という言葉。

 嫌いになったわけじゃない、という前置き。

 もう続けられない、という結論。


 優しさは刃物だ。

 刺さるとき、音がしない。


 私は駅裏の路地に入り、街灯の下で立ち止まった。ここは少し暗くて、風が溜まりやすい。誰かの視線も届きにくい。立ち止まるには、ちょうどいい場所だった。


 そこで、猫を見た。


 灰色で、少し痩せている。耳の先が欠けていて、目つきは鋭いのに、動きは妙に慎重だ。猫は地面に落ちている何かをくわえ、数歩進んでは落とす。それをまた拾い、くわえ直す。


 段ボールの切れ端だ。

 湿って、角が潰れている。どう見ても、役に立ちそうにない。


 猫はそれを引きずり、植え込みの影まで運ぼうとしているらしい。途中で何度も止まり、口を開け、やり直す。失敗しても、立ち去らない。


 私は街灯にもたれて、その様子を見ていた。

 意味があるのか、ないのか。

 成功しているのか、していないのか。

 わからない。ただ、猫の手は止まらない。


 ――馬鹿みたい。


 胸の奥で、そう思う。

 同時に、羨ましいとも思った。


 私は、たった一言で止まってしまった。

 あの言葉を聞いた瞬間、動けなくなった。考えられなくなった。次に何をすればいいのか、わからなくなった。


 なのに、猫は違う。

 誰に評価されるでもなく、誰に感謝されるでもなく、同じ動作を繰り返している。


 その夜は、結局、猫が段ボールを運びきれたのかどうか、わからないまま終わった。私が先に、その場を離れたからだ。


 翌日も、眠れなかった。

 目を閉じると、彼の声が近づいてくる。開くと、天井がよそよそしい。


 深夜、私はまた駅裏へ向かった。

 期待していたわけじゃない。けれど、路地に入った瞬間、胸が少しだけ軽くなった。


 猫は、いた。


 同じ街灯の下で、同じように何かを運んでいる。今日は、布切れだった。どこかの店の包装の切れ端かもしれない。猫はそれをくわえ、やはり途中で落とし、また拾う。


 昨日より、少しだけ上手くなっている気がした。

 気のせいかもしれない。

 でも、そう思えた。


 私はその場にしゃがみ込み、膝を抱えた。

 彼のことを考えないようにしようとして、余計に考えてしまう。連絡先を消す勇気もない。ブロックするほど、嫌いにもなれない。


 別れたという事実だけが、宙に浮いている。


 猫が、私の足元に布切れを落とした。

 私は反射的に拾い上げる。


 薄くて、汚れていて、価値がない。

 捨てても誰も困らない。


 そのとき、ほうきの音が近づいてきた。


 路地の入口から、清掃員が現れる。蛍光色のベストを着て、黙々とゴミを集めている。私と猫を見て、一瞬だけ足を止めた。


 そして、ほうきを動かしながら、独り言のように言った。


「それ、子猫の寝床に持ってくんだよ」


 それだけだった。


 説明も、補足もない。

 猫に向けたのか、私に向けたのかも、わからない。


 清掃員はそのまま通り過ぎ、角を曲がって消えた。


 私は、手の中の布切れを見つめた。

 子猫。

 寝床。


 猫は、こちらを見ない。ただ、私の足元を回り、布切れをくわえ直す。私は抵抗しなかった。猫はそれを引きずり、昨日と同じ方向へ進んでいく。


 胸の奥で、何かがほどけた。


 この猫は、結果を気にしていない。

 うまくいくかどうかも、考えていない。

 ただ、今夜の役目をやっている。


 失恋は、私の世界を終わらせたわけじゃない。

 私が、終わったと思い込んでいただけだ。


 猫の背中を見送りながら、私は立ち上がった。

 膝が少しだけ痛む。冷えた証拠だ。


 スマートフォンを取り出す。

 未送信のメッセージが、まだ残っている。

 言い訳のような文章。取り消す勇気も、送る勇気もなかったもの。


 私はそれを、消した。


 消しても、胸は痛い。

 でも、痛いまま立っていられる。


 夜明け前の空は、青と灰色の境目だった。

 猫は植え込みの奥へ消え、姿が見えなくなる。


 私は、路地を出て、家へ向かう。

 完全に立ち直ったわけじゃない。

 彼を忘れたわけでもない。


 それでも、今夜、私は一つ運んだ。

 未練を、少しだけ先へ。


 朝が来る。

 猫が諦めなかった夜は、私にも残っている。


 鍵を開け、玄関の灯りをつける。

 部屋は静かで、ちゃんと私を待っていた。


 私は靴を脱ぎ、深く息を吐いた。

 諦めない、というのは、勝つことじゃない。

 明日まで、生きものを運ぶことだ。


 そのことを、あの夜、猫が教えてくれた。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

失恋の痛みは、心を派手に壊すというより、日常の輪郭を少しずつ削っていくものだと思います。世界が何事もなく回り続けることが、いちばん残酷に感じる夜がある。


この短編で描きたかったのは、「立ち直る」ではなく「夜を越える」です。

猫がやっていたのは、勝ち取るための努力ではなく、誰かが眠れる場所を運ぶ作業。諦めないとは、明日までの分を、ひとつずつ運ぶこと。


もし今、あなたにも帰れない夜があるなら、今夜は“完治”ではなく“持ち運べる分だけ”で十分です。

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