表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

塵哀

作者: 疎谷陸
掲載日:2025/10/16

 夜がまだ明けきらず薄暗い街の路肩には、大量のゴミ袋や食い破られたゴミの残骸が無造作に置かれていて、まるで死者だった。電線に止まる空腹の烏達が声でガアガアと鳴いている。ちょっとでも目を離せば奴らはすぐに群がり出す。

 袋の中身は大抵が悪臭を放つ生ゴミで、後はくだらない消耗品が行き着く可燃ゴミや不燃ゴミである。眠い目を擦りながらそれらを拾い、ゴミ収集車の投入口に放り込む。扉が大きく開いているそれは、まるで巨大な獣の口にも見えた。

 毎朝五時から七時までの間に収集車に乗って指定エリア内のゴミを集め、中が一杯になったら東淀川のゴミ焼却施設へと帰る。

 元々夜型人間である俺にとってこの作業は最初とてもきつかったが、徐々に慣れていき、今は完全に適応している。慣れって怖い、そう呟きながら小さく欠伸をした。通りのゴミは全て投入口に突っ込んだので、次のエリアへと向かう。

 車を運転しながらモニターに映る日付を見て、この仕事を始めてもうすぐ五年目になることに気づいた。

 東淀川市のゴミ焼却施設で働き始める前までの俺はいわゆる引きこもりと呼ばれる人種で、母の少ない稼ぎと亡き父の遺産を頼りに毎日だらけきっていた。毎日が日曜日とは良く言ったもので、余りある時間をゲームやネット掲示板に注ぎ込み、生産的な活動を何一つとしてしなかった。十八の頃に大学受験に失敗して以来、十数年もの間そんな日々を過ごしてきたのだが、三十三の時に母親が倒れた。肺癌だった。年々金遣いが荒くなる俺のせいで定期検診にも行けず、発見が遅れたらしい。既に全身への転移が進んでいて治療も出来ないことはないが大金が要ると医者に言われた。 好き勝手やってきたツケが回ってきたのだ。

 俺は絶望した。高卒社会経験なしの三十代男性の就職難易度はそれほどまでに高かった。大人しく生活保護を申し込もうと思った。しかし、その時急に母親の顔が浮かび、決断を躊躇させられた。

 鬱だとただ怠けているだけの俺に文句一つ言わなかったことや、俺が欲しいと言ったものは無理をしてでも必ず用意してくれたことなどが今更ながらありがたく思えた。

 生活保護を申し込むのをやめ、俺は罪滅ぼしのために働くことに決めた。 式自体には行かなかったが、式のために買ってくれたスーツはあった。十数年ぶりに取り出したので、酷く埃を被っていた。

それに腕を通して挑んだ就職活動は案の定とてつもなく過酷だった。何十社もの不採用通知を目にした。その中で今の焼却施設だけが俺を受け入れてくれた。

いざ働き始めると三交代制の業務は決して楽ではなかった。しかし、単純作業故に慣れれば簡単な点と余り人と話さなくても良い点が気に入った。また、学歴無関係で悪くない給与が貰える点も良かった。

稼ぎの殆どを治療費に使っているお陰で病気の進行はとても緩やかだった。

 完全な除去手術をするにはまだ資金が足りていないが、毎月の貯金を続けていれば三年後には受けさせてやれそうだった。ATMで残高を見るたびに最低でもそれまでは必死に働かなければならないと、思わされた。

 次のエリアに到着したので俺は車を停めた。相変わらずゴミ袋が溜まる路肩には、酔い潰れた中年女や悪事を自慢する非行少年達も居た。

 

 焼却施設に帰ってきた時には八時を少し過ぎていた。プラットフォームと呼ばれる広い空間に車を停めた後、投入口の扉を開ける。

 天井いっぱいに詰め込まれたゴミ袋が窮屈だと叫んでいた。袋を一つ一つ手で掴んで地面に置いていく。全て出し終えた後、積みあがった袋の山を見て億劫になった。

 一人の若い男が駆け寄ってきた。永山と言って去年入ってきたばかりの男だ。四月入社の奴らが入ってきたことで焦っているのか、この頃は良く働いている。

「お疲れ様です。今日も大量っすねぇ」

「ほんと、全く気が滅入るよ」

「毎朝毎朝、こんなにもゴミが生まれているなんて信じられないっすよね」

「心なしか昨日よりも増えてるような気もするしな」

そう言うと、永山は「まさか」と言って笑った。二人で手分けして袋を運びゴミピットに投げ込む。二週間分のゴミが貯蓄されたピットは凄まじい異臭を放ち、まさにこの世の地獄だった。

 投入された多種多様なゴミはクレーンによって混ぜ合わされる。そうすることで袋内の成分が溶け合い、安定して燃えやすくなる。水分が多いゴミばかりだと燃えにくいのでこの手間はどうしても必要になってくる。それが終わればゲームの要領でクレーンのアームが一定量の袋を掴み、焼却炉の入り口であるゴミ投入ホッパに入れる。

 焼却中は地獄の業火を思わせる物凄い音が鳴る。もしもゴミの中に生き物が混ざっていたら、と思うと本当に胸が冷える。クレーンがゴミをし始めた。それを黙って眺める。永山が徐に口を開いた。

「そう言えば、近々新しい人が来るらしいですよ」

「そうか。中途採用は大体九月始まりだもんな」

今日は八月三十日なので大体明後日くらいだろうと思った。

「まだはっきりしたことは僕も知らないんですけど、どうも訳ありらしいんですよ」

「ここじゃ珍しくもない。俺も訳ありと言えば訳ありだし」

 何の訳もない真っ当な人間がゴミ焼却施設で働くことなんてほとんどない。

「そうですね。ここにいる人は大抵訳ありか。 それにしてもどんな人が来るんだろう。楽しみだなぁ」

「せいぜい追い抜かれないようにしろよ」

「わかってますって」

 そう言って笑った永山の声にはどこか真剣さを感じさせる響きがあった。

「じゃあ俺、上がるから」

二十二時から八時までが今日のシフトだった。

「お疲れ様です」

 永山と別れてタイムカードを切りに行った。事務室にはPC作業をしている従業員がいたので邪魔にならない声で「お先に失礼します」と言った。その後、ロッカールームへと向かう。

 作業着に染みついたゴミの匂いにはもう慣れ、脱ぐ時に顔を顰めることもなくなった。 以前までは鼻をつんざくような悪臭にとても耐えきれそうにないと思ったものだが、慣れとは不思議なものだ。 普段着に着替えている間、頭の中ではずっと近々来るらしい新人のことを考えていた。今の所、性別すら定かではないがもしも女だったらすぐにやめてしまうだろうと思った。 たまに女性の新人が入ってくることがあるが、殆どは嫌気が差して一ヶ月も経たずにやめてしまうからだ。 男性なら期待を持てるが果たしてどちらなのだろうか。カードを切る時に施設長に聞いておくべきだった、と今更気づいた。  

 中途採用の新人が来たのはそれから三日後だった。と言う若い女だった。二重瞼の大きい目と高い鼻が印象的な顔と背丈の小さい女で、化粧は薄くセミロングの茶髪は少し傷んでいた。

 一見普通だが、よく観察してみると何かありそうな要素が散見される、そんな風な外見だった。

「よろしくお願いします」

 音山の声は明朗だったが只明るいと言うよりかは内面の暗さを無理矢理に誤魔化しているような明るさだった。 その後、新卒中途関わらず新人には教育係をつけなければならないのだが、なんの因果かそれが俺になった。面倒だと思いつつも仕事なので施設内を色々と案内してやることにした。

「です。改めてよろしくお願いします」

「俺は、こちらこそよろしくお願いします」

 音山はこちらが何か言えば耳心地の良い声で笑うが、自分からは何も言わなかった。俺にはそれが緊張故か秘密主義故なのかわからなかった。どちらにしたって余り触れない方が良さそうな感じがした。 だが、ゴミピットの前に来た時、彼女は初めて自発的に口を開いた。

「これはなんですか?」

 余りにか細い声だったので、気づくのに一瞬遅れた。数秒空いて答える。

「ああこれはゴミピットって言って、東淀川の街から収集したゴミを集めておく場所だよ」

「この大量のゴミはこれからどうなるんですか?」

「あのクレーンで引っ張り上げて焼却炉で燃やすんだよ」

「焼却炉はあれですか?」

 音山がホッパの黄色い扉を指差しながら言う。

「そうだね。あれが稼働した時の音は本当に凄くてね。実際に見たことはないが地獄の業火のようだよ」

「そうなんですね」

 音山は悲しく笑って唐突に沈黙した。若干の気まずさを覚えながら俺も黙っていると、程なくして音山が遠い記憶を見ているような目で虚空を見つめながら、短く呟いた。

「私の嫌な思い出も全部燃やしてくれればいいのに」

 その声は先ほどと同じかそれ以上に細かったが、何故かはっきりと聞き取れた。 賑わう街の中心に立っている時に聞こえる雨音のようだった。 返す言葉に迷っていると音山が「今のは忘れてください」と言った。

 忘れられる訳がなかった。何故ならそれは俺も何度も思っていたことだったからだ。悲哀の意味合いで同族の親近を感じた。

「俺もそう思うよ。ゴミと一緒に焼却してしまいたい思い出がいくつもある」

 そう言った時、俺を見る音山の目に初めて親しみの火が灯った気がした。

「蓼川さんにもそういう過去がおありなんですね」

「そうだな。ここで働いている奴は皆訳ありだよ」

「どういった経緯で蓼川さんはここで働き始めたのか、良かったら教えて欲しいです」

「いいよ」

 俺は音山に、母親の稼ぎを頼りに長い間引きこもり生活をしていたが母親が倒れたことをきっかけに、罪滅ぼしと母親の入院費を稼ぐためにここで働き始めたことを話した。音山は終始静かだった。の籠った目で俺を真っすぐに見つめ、時折小さく頷いた。

「大きな精神的ショックを受けたら暫く何もしたくなくなりますよね。その気持ちわかります。でも、お母さんのために重い腰を上げたのは凄いです」

「そんなことはないよ。今は働いているけどそれも止むを得ないと思ったからだし、根底の部分はどうしようもないクズだよ。俺は」

「そんなことはありませんよ。蓼川さんは立派な人です。本当にどうしようもないクズなのは私の方ですから」

 音山の顔が変化した。自分自身のことを心の底から責めている人間のが現れた。この表情は演技ではとても出来ないと思った。一体どんな闇があるというのだろうか、俺は俄かに湧いてくる好奇心を抑えることが出来なかった。

「音山さんはどういう経緯でここに来たの?」

 が濃くなった。自らの心に封印した痛みと格闘しているかのように顔が歪んだ。俺は慌てて言葉を継ぎ足した。

「嫌なら別に話してくれなくても良いんだよ」

「いえ、蓼川さんに話してもらって私だけが話さないと言う訳にはいきません」

 苦しそうに笑う音山に些かの憐憫を覚えた。彼女は握り潰すように胸に手を置きながら、ゆっくりと語り始めた。

「そんなこと気にしなくても良いんだよ。俺が勝手に話しただけだから」

「そうですか……、でも少しだけ話します。私はある失態を犯し、今は両親のために働いています。これ以上はすみません、とても恥ずかしくて言えません」

「なるほど、親のために働いているのか。俺と一緒だね」

「いえ、蓼川さんの方が遥かに優れた動機です」

「そんなことないよ。俺の動機は全然立派じゃない」

「そんなことはありません」

 このままでは堂々巡りになりそうだったので、俺は敢えて沈黙した。少し漂う気まずさはおよそ数十秒間続いた。どのくらいこのままでいようかと頭を悩ませた時、突然、音山が口を開いた。

「あの、良かったらこれからも蓼川さんとこういう話がしたいです。なんと言うか波長が合っているような気がして」

 少し意外だったが、教育係として少しでも心を開いてくれているのなら良いなと思った。

「いいよ、いつでも話そう」

「ありがとうございます」

 その後、仕事上共に行動をすることが多かった俺たちは業務に取り組みながら、隙を見て色々な話をした。音山は徐々に心を開いてくれ、以前の職業は風俗嬢だったがストレスと病気を理由にやめたこと、ホストに通っていた時のお気に入りはソウヤと言う男だったことを教えてくれた。

 勿論、俺ばかりが一方的に教えて貰う訳ではなく、一つ音山から話を聞いたら俺も一つそれに相当するような過去を話さなければならなかった。引きこもり時代にたまに外出をした時、近所の人たちから後ろ指を指されて陰口を囁かれたことや、父親が死んだ時、葬式会場で叔父に胸倉を掴まれて「一族の恥だ」と罵られたことを差し出した。笑い話のつもりで話したのだが、思惑は外れて音山に慰められた。過去の話以外にも普通に世間話もした。リズムが同じなのか空気感が似ているのか、定かではないがそれらの会話はとても心地よかった。音山が言った通り、本当に波長が合っていたのだろう。

 そんな日々が一か月ほど続いたある日の夜、俺たちはついに一線を越えた。

 ある日音山が終業後に二人で飲みに行こうと誘ってきた。俺も音山も次の日は午後からのシフトだったので行くことにした。だが、その時点では泥酔を防ぐために終電までには帰ろうと思っていた。

 東淀川駅付近の適当な居酒屋に入り、酒を飲み交わしながら、暫くの間はいつもと変わらないような下らない会話を繰り広げた。だが、酔いが回るごとに話の内容がもっと深い秘密へと変わっていき、いつしか互いの初体験の話になった。音山は中学一年の頃に三年の先輩と、俺はそういう店以外での経験がない素人童貞であると告白した。

酒の力を借りなければ決して口に出さなかった生涯の秘密である。すると、淫魔のような笑みを浮かべた音山が「意外です」とった。

 その酒気を帯びて赤みがかった表情と妙に柔らかい声音にな魔力を感じ、に湧いてくる興奮と羞恥心を誤魔化すため俺は更にピッチを早めた。そうするうちにいつの間にか意識を失ってしまったらしく、目を覚ました時には零時を少し過ぎていた。閉店時刻が迫っていることを危惧した音山が起こしてくれたのだ。急いで会計を済ませ店を出たが、終電は既になく、音山のアパートに泊らせてもらうことになった。女性の家に泊ることなど生まれて初めてだった俺は何かあるのではないか、と激しく緊張した。部屋に入った時、彼女は「何も変なことしないでくださいね」と笑った。俺も「するわけないだろ」と笑い返した。

 しかし当然、男女なのでそういうことは起きた。

動いたのは俺からだった。風呂上がりのバスタオルを巻いた肢体に我慢が出来なかったのだ。こうなることを予め察していたのか抵抗はされなかった。むしろ受容されているように思えた。

 俺は生まれて初めて触れるビジネスライクじゃない体に無我夢中で甘えた。やがて彼女も積極的になった。灯りを消して目だけを頼りに薄っすらと白い身体を抱いた。きつくするたびに必ず向こうもきつく抱き返してくれた。きっと俺も彼女も心の内にどうしようもなく巨大なを飼っていたのだろう。寂しさは放置すると冷たくなる。身体を重ねる熱だけがその冷気を忘れさせてくれる気がした。

 停止すればまた冷たさに追いつかれると焦った二つの肉体は、深淵の秋の闇が薄明るい払暁の空に変わっても、飽きることなく抱擁を繰り返した。とっくに体力は限界を迎えていたが、今止まれば駄目になると思った。ついに性根尽きてベッドに倒れ伏してしまうまで、心内に堆積されたのようなを互いの熱で燃やしあった。

 交際はしなかったものの、その日以来俺たちは更に親密になった。就業中にもボディタッチが増えた。わざとそうしていた訳ではないが、やはり以前の距離のままと言う訳には行かなかった。終業後に互いの家に赴いたりすることも相変わらずあったため、密度はその度に深まり、やがて仕事も満足にこなせなくなっていった。底なしの沼に沈んでいくような二人だった。

 ある日、とうとう看過できないミスをした。ゴミ収集の担当エリアの一つを巡回することを忘れてしまったのだ。そんなミスは五年間で初めてだった。早く戻って音山と会いたいと思い過ぎたが故の忘却だった。 とうとう見兼ねた施設長は俺を教育係から外し、新しくと言う男に替えた。木崎は素行態度が悪く、勤務時間中に喫煙所以外の場所で喫煙することを度々注意されていた。俺は木崎が嫌いだった。加えて奴は音山に対して邪な欲望を抱いているような節があった。汚らしい蛮族のような目をしながら、良く話しかけていた。だから、木崎と音山が二人きりになることには内心強く反対していた。しかし一度失敗をしている以上、下された命令には何も言うことが出来なかった。

 教育係を外されてから俺は音山と殆ど会わなくなった。今思えば意図的に遠ざけられていたように思う。たまに始業や終業の際に話す機会があっても、すぐに木崎によって妨害された。

 そうなると連絡先も交換していなかったので、必然的に関わらなくなった。

 日常から音山の存在が消えた後、特にプライベートで遊ぶような友人は居なかったので、母を見舞う機会が多くなった。久しぶりに見た母の姿は最後に見た時よりも随分痩せさらばえており、なんとなく闘病生活の辛さが伺い知れた。それでも俺が来た時には精一杯元気な母を演じるのが健気で痛々しかった。母は俺に色々な質問をした。仕事は精一杯頑張っているかとか、職場に友人は出来たかとか、殆どが他愛の無いことだった。俺は適当に前向きな返事をしていたが、ただ一つだけ死ぬまでに孫を見せてくれるか、と言う質問には少し困った。「なんとか頑張るよ」とは言ったものの、内心では無理だろうな、と思った。

 暫くそうやって話していると、病室に医者が来た。医者は「お伝えしたいことがあります」と俺に耳打ちした。内容はなんとなく予想がついていた。俺は母をそれとなく誤魔化し、医者とともに病室を出た。

 母の余命が持って四か月と知らされたのは、診察室の椅子に座ってからすぐのことだった。モノクロのレントゲン写真を見せられながら、予想以上に癌の転移速度が早いと言われた。既にステージ4に突入しているらしい。

 薄々察してはいたが、それでも「もう手の施しようがない」と明言されたのはショックだった。その事実をどこかのタイミングで母に伝えなければならないことを思うと憂鬱になった。病室に戻ると、何も知らない母から「二人してどこ行ってたの?」と聞かれたので、俺と医者は口裏を合わせて「病気が前よりも良くなってるって話をしてたんだよ」と応えた。

「そう」と言って笑う母に胸が痛んだ。

 命が残り僅かだと知った母は一体何を思うのだろうか。俺としては少しでも長く生きて欲しいと思っているが、母は果たしてそれを望んでいるのだろうか。

 俺は不安になった。


 いつかは伝えなければならないと思いながらも勇気が出ず、一月二月と過ぎた。母の病室に足を踏みいれる度に今日こそはと思うのだが、弱っていく母の姿を目に映すたびに決意は幻のように消え失せる。来るかも分からないここぞと言うタイミングの到来を信じて、自らの意気地がないことを正当化し、先延ばしを幾度も繰り返した。

 しかし、残酷な運命は俺の甘さをいつまでも許してはくれなかった。母の容態が急変したと、勤務中に電話が鳴った。残っている仕事を投げ出し、すぐに駆け付けたが一足遅く、既に母の息は絶えていた。病室のベッドで眠る安らかな母の寝顔を見下ろしながら俺は茫然と立ち尽くした。


 親戚一同の協力もあって、その後の流れは円滑に進んだ。俺を罵倒した叔父も流石に今回は同情の言葉を掛けてくれた。仕事は有給を使って休んだ。通夜も葬儀も二日間ともに実に多くの人が参列してくれた。中には悲しみの余り涙を流している人も居た。こんなにも多くの人から母は愛されていたのだと初めて知った。

 喪主の挨拶を述べている時、失われた実感が麻痺した心に哀しく染み入り、時たま声が震えた。本当の意味で存在の大切さに気づくのはいつだって喪失した時だ。

 二日間の全てが終わり、アパートに戻ってきた俺は何をする気にもなれず、火葬場で焼いた母が収められている骨壺をただ静かに眺めていた。随分小さくなったそれを母として見ることはやはり出来ず、大きな目的が消失した感触を覚えた。

 ふと、今の仕事を辞めようと思った。



 辞めるのであればせめて十分に貯蓄してからにしよう、と思いモラトリアムな時間を労働に費やした。元々、物欲がないのと給与の殆どを母のために使っていたお陰で、金はみるみる内に貯まり、すぐに百万を超えた。増大する口座の金額を見るのが唯一の趣味になった。辞めることを決意した後の労働は以前よりも集中できた。僅かだが頭の片隅にあった木崎のことも、完全に気にならなくなった。

 やがて二百万を超し、そろそろ辞める話を施設長にしようかと迷い始めた矢先、ある日の朝礼でなんの因果か音山が今週いっぱいで辞めると言い出した。両親から帰ってきて実家の手伝いをしろと言われたことが原因らしい。少し驚いたが、音山は既に俺の日常には居ないものとなっていたため、特に哀しくはなかった。木崎は知らされていなかったのか酷く驚いた表情をしていた。

 彼女にとって最後の就業終わり、随分久しぶりに音山と話した。あっちが駆け寄ってきて話かけてきたのだ。そこで俺は本当のことを知った。音山は昔ホスト狂いで多額の借金を作った。それを両親に肩代わりしてもらったのだが一つ条件があった。それは働いていつか必ず返せと言うもので、そのためにここで働いていた。そして先月、ついに全額を返し終えたので辞めると言うことだった。

「それは中々言えないね」

 そう言って苦笑すると、音山は「そうなんです」と恥ずかしそうに俯いた。

「まあでも良く頑張ったね。お疲れ様」

「ありがとうございます」

「これからはのめり込みには注意が必要だね」

「はい。何事も適度に楽しむことが必要だと感じました」

「そうだね」

 会話が一区切り着いたことによって沈黙が生まれた。だからと言う訳でもないが、俺はやはり言うことにした。

「実は俺も辞めようと思ってるんだよね」

「そうなんですか⁉」

 音山は驚きで目を何度かしばたたかせた。

「ああ、病気の母親が居るって言ってただろ? 癌で亡くなっちゃってさ」

「それはお気の毒ですね」

「だから働く目的を失っちゃったんだ。貯金も大分貯まったし、暫くは次の目的を探そうと思う」

 嘘だった。支えを失ったままいつまでも働き続けることに嫌気がさしただけだった。

「良いと思います。何か見つかることを願ってます」

「ありがとう。それにしても辞めるタイミングが殆ど同じなんて凄い偶然だよね」

「ほんとですね。よかったら今日私のアパートで送別会しません? ほら、もう少しで引き払っちゃうから」

 音山の思いがけない提案は魅力的であるように思えた。

「いいね、行こう」

 施設を出た時、喫煙スペースではないところで煙草をふかず木崎に声を掛けられた。

「今からどこいくの? もしかして音山ちゃんの送別会?」

「貴方には言いません」

 音山が冷然とした声で応えた。

「そんな冴えない奴じゃなくてさ、俺とやろうよ」

 木崎が俺を指差して嘲り笑いながら言う。

「お断りします」

 そう答えたきり、音山はすたすたと歩きだした。

「えー、音山ちゃんちょっと冷たくね?」

 木崎の不満げな言葉は残念ながら届かなかった。音山の歩幅に追いつこうと歩いている途中、一度だけ振り返ると木崎が凄い形相で俺を睨んでいた。こころなしか煙草を握る力も先ほどより強くなっているように見える。きっとこれからやけになって吸いまくるんだろうな、と思った。

 前と同じ居酒屋を訪れ、二人席に腰掛けた時、俺は好奇心で尋ねてみた。

「なんで木崎に対してあんなけんもほろろな態度なの?」

 そう聞くと音山は心底不快なものを思い浮かべるような表情で言った。

「だってあの人、気持ち悪いんですもん。ずっと言い寄ってくるし、口も臭いしで最悪ですよ。後、さっきの煙草みたいにマナーすら守れない人って私大嫌いなんです」

「そうだったんだね。確かに木崎のマナーは良くないよなあ」

「ほんとそうですよ。蓼川さんと離された後の毎日は本当に苦痛でした」

「じゃあ、本当に辞めれてよかったね」

「はい」

 俺は木崎を哀れに思うのと同時に、少なくとも音山からは良く思われていることに優越感を覚えた。そのせいか、久しぶりの飲む酒は妙に酔いが回るのを早めた。


 その後、音山のアパートに訪れたのは大体夜の九時頃だった。暫くはテレビを観たり、何気ないことを駄べったりと心地よい前振りの時を過ごしたが、互いにシャワーを浴び終えた後は、まるで決められた仕事のような自然さで床に入った。久しぶりの抱擁はこれまでより一層熱が入っていたように思う。頭ではもう興味を失ったとばかり思っていたが、本能では音山を求めていたことを知った。それは恐らく音山も同じだった。ただ一言、寂しかったのだ。空白が知らず知らずの内に膨張させていた寂寞を一晩で埋めきろうとしていた。だが、決して愛は口にしなかった。そのような美しい関係ではないと互いに理解していたからかもしれない。

 一体何度目の時だっただろうか。突然、けたたましいサイレンの音が鳴った。中断して窓から外を伺うと、数台の消防車が丁度道の上を通過した。どこかで火事が起こったのだ。他人事のようにそう思った後、カーテンを閉めて続きをした。

 翌朝、施設長からの入電を通じて、焼却施設が炎上したことを知った。根本の原因は煙草の火の不始末らしかった。それを聞いて俺は不思議と落ち着いていた。何か働く目的や哀しさや寂しさがゴミと一緒に燃やし尽くされたような気がしたのだ。これから先も俺を縛り付けるだろう葛藤や後悔の一切合切がなくなった感じがあった。 

 その後、施設の修繕のために暫く営業を停止すると聞いた時、俺は胸の内で前々から用意していた台詞を実に滑らかに引き出すことが出来た。

「仕事を辞めさせてください」

 それを言い終えた時、胸中を一陣の風が柔らかく吹き抜けたような感覚があり、とても清々しかった。(完)

 




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
主人公の行動や感情の一つ一つに裏付ける理由やエピソードがあった。ゴミ処理の設定を主人公や音山の過去に紐つける比喩は、壮大だった。ベットシーンでも秋の風景を使った一文は美しかった。 なにより母親が不憫だ…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ