第三章 それぞれの学び舎[後編]
アズハとユキハの灰色の学生生活と、ささやかな癒し……そして不安。
「ハァ!」
突き出された刀を己の剣で下から受け流し、ユキハはガラ空きになった相手の懐に片掌を叩き込む。息が詰まって動きが止まった隙を見逃さず、払ったばかりの剣を斜めに振り下ろして相手の首筋を殴打した。続けて崩れ落ちる身体を踏み台に宙返りし、ちょうど背後から刀を振り下ろしてきた相手の項を踏みつけて意識を奪うと、袖口から取り出した剥き出しの小刀三本を指に挟んで投げた。
小刀は手の甲や足首、肩を軽く掠めて床に刺さり、三方向から己に迫ろうとしていた男たちの動きを一斉に停止させる。その隙にユキハは半円を描くように駆け、三人の腹部に峰打ちをくらわせた。
「そこまで!」
最後の一人が地面に伏すのと同時に、審判兼教官である白い袴姿の年配男性が鋭く声を飛ばす。続けて四方で目を光らせていた黒子たちがサッと動き、気絶している男たちを担ぐと傍にある扉から出ていった。ユキハは彼らの姿と気配が遠ざかるのを見送ると、ようやく剣を鞘に収める。
「流石はユキハ様! 現役軍人五人を相手に息一つ乱さないとは、お見事です!」
「……次は、もう少し人数を増やしてほしい」
わざとらしい笑みを貼り付けた教官に控えめに意見し、ユキハは道場を出る。といっても道場そのものが彼岸の中にあるため、一歩踏み出せばそこにはまだ冷たいコンクリートの廊下が広がっていた。
等間隔に並ぶ四角い窓とその向こうに覗える鮮やかな緑、さらにその奥に広がる街……さながら絶海の牢獄より俗世間を見渡している気分だった。ユキハは窓から顔を背けると、早歩きで裏の林へ向かう。スケジュール通りなら、姉は今そこでブラッドタイプの訓練をしているはずだった。
ガラガラガラッ――スパッ!
林に近づくにつれて、音が大きくなっていく。的に間違われないよう注意を払いながら、ユキハは林の開けた場所を覗いた。アズハは前後左右からランダムで飛んでくる丸太を、その場から殆ど動かずにレイピアで斬り落としていた。
「っ、く!」
正前から飛んできた丸太を屈みながら頭上で裂き、そのまま軽く跳躍して身体を捻ると、後ろから飛んできた丸太を斬りつけた。着地と同時に回転斬りで左右から迫った丸太を散らし、剣を交互に持ち替えながら続々と迫りくる丸太をひたすらに斬っていく。どの動きも、視線より先に手足が動いていた。ブラッドタイプの風を使って周辺の音を拾い、次にどこから丸太が飛んでくるのか予測しているのだ。
「ラストッ」
眼前に飛んできた丸太を叩き割ると、アズハは詰めていた息を短く吐き出す。教官が最初に提示した丸太の数は五十、たった今斬ったのがその五十本目のはずだが、
「っ!」
所詮はただの目安。アズハはレイピアを素早く逆手に持ち替え、振り返りながら五十一本目の丸太を斬った。横一文字に綺麗に入った割れ目から真っ二つに丸太が裂けると、その隙間から赤い袴の巫女服を纏った女教官の姿が覗く。鼠色の長髪を前髪ごと頭の高い位置で結った彼女は名を南・マヤといい、鬼士祈祷部隊【参】の指揮官を務める大尉だった。
「流石デス」
黒い睡蓮の刺繍が施されたマスクの向こうで、マヤがモゴモゴと口を動かす。マスクで祈祷の力を強く抑制しているため、片言且つ棒読みでしか喋れないようだった。マヤがすっと片手を上げると、黒い布で顔を隠した白装束の祈祷師が二人、背後から物静かに現れ左右に広がった。
鏡合わせのように同じタイミングで同じ形に両手を組むと、散らばっていた丸太が独りでに浮き上がり、建物のほうへ飛んでいく。薪として再利用するつもりなのだろう。アズハもそのつもりで、切り口に段ができないように斬っておいた。
「休憩、十分。ユキハ様トアズハ様、交代デス」
「はい」
「分かりました」
二人が頷くと、マヤもまた頷いて両脇の祈祷師に視線を送る。すると彼らは袖口から魔法瓶と紙コップをそれぞれ取り出し、アズハとユキハの前に跪いて瓶の中身をコップに注ぎ、差し出した。白くとろみがあって米粒のようなものが表面に浮いているその液体は、甘酒だった。
甘酒が好物らしい彼女は季節を問わず水筒に―夏は冷やしたものを―淹れて携帯しており、稽古を終えるとおすそ分けしてくれる。最初こそ毒や薬が含まれているのではと警戒して遠慮していたが、アズハが祈祷を使って薬の有無を直接確認したところ、「そのようなものは入っていません」とマヤが答えたため、今では受け取っている。
「ぁ、ありがとうございます」
「……どうも」
紙コップを受け取りながら礼を言うと、祈祷師たちは恭しく頭を垂れてマヤの傍に戻り、そのまま三人は連れ立って林の奥へと消えていく。無礼ではないが一線を越えて近づくこともしない――死乃宮の軍人や上層部は、強者とそうでない者の境界を明確にしていた。
アズハとユキハが訓練で相手にする軍人は、年の離れた少数のベテラン及び退役して教官の職に就いている元軍人ばかりで、年の近い新人を交えて稽古をしたことは殆どない。いつだって壁の向こう側で稽古に励んでいる新人や同僚の掛け声をBGMに、教官が組んだ特別メニューを二人だけで熟し、たまに行われる団体戦で周囲の実力を把握していた。
――へぇ、死乃宮ってそんなハッキリ分かれてんだ
――こっちはどっちかってーとゴチャ混ぜだな、その分訓練のレベルは下がるけど
――本気出すと死人が出るからな
基本の訓練は合同で、それ以上を求めるなら空き時間に自分たちで励むように。いつかリンラとヒバルから聞いたスパイラルアカデミーの方針は、そんな感じだった。自分たちのレベルに合わせた訓練を受けられるという点では、確かに彼岸の方針のほうがいいだろう。だが本心を言えば二人は、多少稽古のレベルが落ちるとしても、その他大勢の軍人たちと同じ場所で同じ訓練を受けてみたいと思っていた。
「所詮は、無いもの強請りなんだろうけど」
「仕方ないよ。それが`人`だから」
大木の幹に凭れながら、双子は甘酒を片手にボソボソと意見を交わす。
「ねぇアズ姉」
「ん?」
「リラに会ってから、願いごと増えたね」
「……単に欲深くなっただけよ」
願い事なんて綺麗なものじゃないと自嘲するように言い、甘酒の残りをぐっと飲み干す。斯く言うユキハも、ヒバルに会ってから口数や人に意見する回数が増えた。この世界で純粋に信じていい人は、姉だけなのだと思っていた。
常に姉の背中を支え、手を貸し、脅威になりそうな存在は遠ざけてきた。従者の如く、彼女の後ろにいることが当たり前だった。アズハはユキハが従者呼ばわりされることを酷く嫌がっていたが、ユキハはそれでも構わなかった。後に生まれたというだけで、無条件に護られるか弱い存在で終わりたくはなかったから。
――従者ではない、弟だ
あと個人的に、普段よりも凛とした雰囲気と声音を放つ姉の背中を見るのは……嬉しかったりもする。
(だから、ヒルと会って驚いた)
常に一歩後ろに控えることしか知らなかったユキハを、ヒバルは「そこじゃねぇ、こっち」とぐいぐい引っ張って隣に並ばせ、下がることを許さなかった。最初こそ違和感しか覚えなかったが、ヒバルが時折見せる強引さは甘えたい気持ちを遠回しに表に出しているのだと、アズハが己に寄せる信頼とはまた違う意味で頼りにされているのだと分かってから、少しずつ馴染んでいった。
隣に立っていても、支えられる。明確に求められなくても、自分の意見や気持ちを口に出していい。言葉にできなくても表情で伝えられることもある。あの金髪コンビに出会ってから気づかされたことは多い。長年固く密閉されていた瓶の蓋が少しずつ開かれていくような、この感じは何と言葉にすればいいのだろう。好奇心と、その底に密かに纏わりつく不安感……。
「私、そろそろ行くね」
「っ、あ……」
ハッと我に返ったユキハの手から空になった紙コップを抜き取ると、「ついでに捨ててくるから」とアズハは自分の紙コップと重ねた。遠ざかっていく見慣れた背中が、なぜかいつになく物悲しく瞳に映る。ユキハは咄嗟に姉を呼び止めようとしたが、
「……チッ」
急に怪しくなってきた頭上の雲に気づき、踏み止まる。舌打ちをするようになったのもあの二人に出会ってからだなと思い起こすのもそこそこに、戦闘態勢に入った。
「ブラッドタイプ、アクティベート」
ピリリと身体に電気が這うのを確認し、上空を仰ぎ見る。一瞬の点滅後、痺れるような轟音を響かせながら暗雲が雷土を落とした。ユキハは額の前に手を掲げ、パチンと指を鳴らす――と、足元に黄色い蛇のような光が走り、ついで物凄い勢いを伴って上昇した。その過程で蛇は龍へと進化し、雷土とぶつかって閃光を撒き散らしながら砕ける。すかさずユキハはレイピアを引き抜き、腰を少し落とした。微かだが地が震えていた。
「っ!」
ユキハは重心を一気に上へ向け、地面から離れた。地鳴りと共に地面は罅割れ、ボコボコとブロックのように突き出してくる。さらに雷鳴が再び息を吹き返し、空と地から挟み撃ちにされるが、ユキハのなかに降参の文字はなかった。
指に挟んだ小刀二本に電気を纏わせて上空へ投げ、雷土と衝突する刹那、電流の威力を一気に上げた。即席の電気爆弾が雷土を相殺したのを尻目に、四角く波打つ地面に足をつける。地面の動きに合わせ、兎のように跳ねながら移動した。
「っ!」
そんなユキハの行く手を遮るように掌サイズの石礫がわらわらと浮上し、一斉に襲いかかってきた。ユキハは剣と小刀を逆手に構え、まず半分を剣だけで叩き落とす。器用に手首を高速で動かす様は、傍目には燕が羽ばたいているようだった。
胴体を狙った残りの石礫は放電によって衝撃を殺し、ただの石ころに戻して地面に落とす。続けて深く息を吸うと、剣と小刀に再度電気を流す――今度はただ流すだけでなく、それを刃と盾の形に変えた。ただし本格的に盾となったのは小刀のほうだけで、剣のほうは刃に沿って刃渡りが長くなっているだけだった。
「っ、ふぅ……!」
鋭く息を吐きながら振り返り、盾と化した小刀を顔の前に掲げた。念力によって作られた空気弾がその盾とぶつかり、腕がじんと痺れる。
一発はどうにかそのまま受け流し、もう一発は強化した剣で斬り裂いたが、盾と剣にはすぐさま歪みが生まれる。一定以上の威力をもつ電流を特定の形に保ち続けるのは難しい。今にも弾け飛びそうなほどギチギチに詰め合せた、パズルのピースのようだ。
どうせならとユキハは初めて地面の動きに逆らって走り、剣に流れる電流すべてを移した小刀を投げ飛ばし、残りの空気弾を薙ぎ払った。急激に圧縮されたのち爆散した電流は周辺の木々も巻き込み、半径十メートルほどは伐採跡地のように切り株だらけとなる。
「オ見事」
その跡地と元の林のちょうど境目に、マヤたちは立っていた。
「……お疲れ様でした」
訓練が済めば彼らに用はないし、彼らもまた自分に用はない。無表情に戻ったユキハは剣を鞘に収めて踵を返すが、
「少シ、話ガアリマス」
なぜか今日に限ってマヤが呼び止めてきた。ここでは何だから場所を変えようと、マヤは彼岸とは反対方向へ歩き出す。こちらが付いてくることをまるで疑っていない足取りは、彼女が今現在教官という立場にあるためか。訝しみながらも、とりあえずユキハは訓練生として付き従う。
「…………」
辿り着いたのは、麓の街を見渡せる高台のような場所だった。こうした場所に来ると、ユキハの目は自ずと街外れにあるフォグを、その隣に並び建つ壁を追ってしまう。死乃宮にチラホラ覗える山や密林は鮮やかな緑色をしているが、フォグだけは灰色がかった薄暗い緑色のため目に付きやすい。無機質に国の境を強調している壁は言わずもがなだ。
「貴方、頭ガイイ」
「……?」
「コノ国ノ在リ方ト、ソノ歪ミ。気ヅイテル」
マスクを顎まで下げ、巫女服の袖口から取り出した甘酒の瓶を傾けつつマヤが言う。漆黒の瞳は無感情に景色を映しているように見えるが……発言内容を踏まえるとそんな単純なものではないだろう。続きを促すようにじっと見つめれば、マヤは顔をぐるりとユキハのほうに向けた。
ギョロッとした眼球の動きにユキハは密かに息を飲むも、マヤは「戦ウ相手、違ウ」と戦意を見せないまま甘酒をもう一口飲む。ギョロ目は相変わらずで、言動と表情のチグハグさゆえにユキハは前にも後ろにも動けない。
「私ハ、国ヲ変エタイ」
「…………」
「曖昧ナ戦争ヲ、終ワラセタイ」
「……言葉には気をつけたほうがいいですよ」
暗黙の了解を揺るがすような発言をすれば、上層部は軍人だろうが躊躇せず消しにくる。ましてやここは国が用意した訓練施設、どこからどんなふうに盗撮・盗聴されているか計り知れない。ユキハは賛成も反対もせず、忠告だけを残して建物のほうへ歩き出した。マヤはマスクを引っ張り上げながら、遠ざかっていく背中を目で追いかけ、
「貴方も、ね」
空になった瓶を、躊躇なく足元に落とした。
◇◇◇◇
「今日はここまでにしましょう、お疲れ様でした」
「……お疲れ様です」
剣の稽古を普段通りの高成績で締め括ったアズハは、教官に一礼して道場を後にする。ユキハはまだ施設内で体術の稽古をしているが、アズハは一足先に街に下りた。実は二人には行きつけにしている小さな駄菓子屋があり、週に一度は商店街で夕食用の食材を買ってから訪れていた。
「……こんばんは」
「あ! アズちゃんおかえり!」
店の硝子戸を開いて声をかけると、甚平を身につけたオカッパ頭の幼女が奥からトタトタと駆けてきた。ラムネ菓子や煎餅が綺麗に並べられている棚は、彼女でも作業が可能なように低めに作られている。
「今日はいつもより早いんだね! お仕事はもう終わったの? ユキちゃんは?」
無邪気な笑顔とともに幼女が腰に抱きついてくると、アズハもまた表情を緩めて彼女の髪を撫でた。リンラの浮かべる勝気で自信に満ちた笑顔も好きだが、稽古の後はこの子のふにゃっとした笑みに迎えられるほうが心が安らぐ。
「今日はもう終わったよ。ユキはもう少ししたら来るから」
「ほんと!?」
嬉しそうに顔を上げる幼女に「ほんとよ」と返すと、アズハは彼女の目線に合わせるように膝を折った。
「だからいつもみたいに、台所貸してくれる?」
「うん! ミユ、アズちゃんの炊き込みご飯とお吸い物食べたい!」
「そう言うと思って、ちゃんと材料も買ってきたよ」
いい具合に膨らんだ買い物袋を掲げると、幼女――ミユは「ありがとう! お母さんも喜ぶよ!」とはしゃぎながら硝子戸に閉店の札を引っ掛け、アズハの手を引っ張って店の奥へ向かった。レジカウンターの奥にある引き戸から先は、ミユとその母の住居となっており、こざっぱりした廊下と和室が広がっている。
「お母さん、アズちゃんが来てくれたよ! 今日の晩ご飯は炊き込みご飯とお吸い物だよ!」
「あらあら」
スパーッンとミユが襖を全開にすると、卓袱台の上で電卓を片手に紙面にペンを走らせていた着物姿の女性が、目を丸くして振り返った。ミユによく似た色合いの髪をシニョンしたその女性はミユの母親で、名をユウカという。
「……お邪魔します」
今日は顔色が良さそうだと安堵しながらアズハが挨拶すると、ユウカもふんわりと微笑んで「おかえりなさいアズちゃん。いつもありがとうね」と正座の姿勢を崩さず身体ごと向き直ってくれる。
アズハは小さな声で「いえ」と照れたように言うと、来て早々にすまないが台所を借りると続けて廊下に出た。襖で途切れる寸前に見えた横顔には照れの色が滲んでおり、ミユとユウカは小さく笑う。
「もう慣れてくれてもいいのにね」
「ねー」
ミユはユウカの膝の上にちょこんと座ると、二人とも恥ずかしがり屋だからと少々お姉さんぶった口調で言ってみる。ユウカは「そうね」と頷きながら愛娘を背中から包み込んだ。
ミユとユウカがあの双子と出会ったのは、二年ほど前のことだ。商店街での買い物中に、ある発作を起こして倒れたユウカと泣きじゃくっていたミユを、偶然同じように買い物に訪れていた双子が助けたことがきっかけだった。
「そういえば、ユキちゃんは?」
「もう少ししたら来るって言ってたよ」
「ミユちゃん、お米研ぐザルどこー?」
「あ、しまう場所変えたの忘れてた!」
ミユは兎のように跳ねながら立ち上がると、「ちょっと待ってー」と言いながら台所へ走っていく。その様子をユウカは微笑みながら見送っていたが、少しすると頭痛を堪えるように頭を片手で押さえた。ユウカもミユもステアードは北で、ブラッドタイプもノーマルだが……ユウカは少々特殊で、風属性に成り損ねた欠損型ノーマルタイプだった。
極稀に生まれつきの体質がブラッドタイプと噛み合わず、能力の種を持っているのに発現しない者や、反対に力が発現しても体質ゆえに制御が利かなくなる者がいるのだ。蒼魔灯時代からこの症状は【欠損・氾濫型ブラッド症候群】と名付けられており、未だに完全な治療法が確立されていない病気だった。
欠損型の者は力を使っていないにも関わらず力を使いすぎた時と同じ症状が現れるため、風属性に成り損ねたユウカは頻繁に強い頭痛に襲われ、それが発作の域に達して倒れてしまうことがあった。頭痛に効く市販の漢方薬は服用しているが、今のところはその場凌ぎの効果しかなく、店番もミユに頼んでばかりいる。
ありのままの命と大層な文句を掲げている一方で、不治の病に苦しんでいる一部の国民のことは見て見ぬふり。これだからリヴドシティの民からは自ら命を投げ出す愚者……`贄`だなんて蔑称で呼ばれるのだ。
「痛っ、う……」
「大丈夫ですか?」
聞き慣れた低い声につられて顔を上げると、ユキハが傍に膝をついて背中を摩ってくれていた。ユキハはひとまず畳の上にユウカを横たえると、頭の下に折り畳んだ座布団を差し込む。ついで隣室から毛布を拝借して彼女の肩にかけ、隣に座ってもう一度顔色を確認した。微弱な痛みは続いているようだが、ユウカ曰くの脳が割れるような痛みはないようだ。
「…………」
ふっと息を吐いて卓袱台に目を向け、その上に広げられた書類を手に取って内容を確認すると、ペンと電卓を引き寄せて書類に記入し始めた。もちろんユウカの容態に変化があってもすぐに分かるように、彼女の姿は視界に入っている。
「っ、ユキちゃん……」
「すいません。勝手に上がらせてもらって、勝手に書かせてもらってます」
「ええ、おかえりなさい……それより書類はいいわよ? 仕事で疲れてるでしょ?」
「俺がやりたいだけなんで、気にしないでください」
「……ありがとう。いつもごめんなさいね」
ユウカは申し訳なさそうに、そして精一杯の感謝を込めながら礼の言葉を紡ぐ。ユキハはユウカに代わって経営関連の書類整理をしてくれることが多かった。頭の回転の良さもあって、正直なところユキハが手伝ってくれるようになってからのほうが店の経営は安定している。それでも稽古帰りの子供に店のことまで任せるなんて情けないと、ユウカの罪悪感は消えなかった。
「…………」
一方でユキハは、もしここがリヴドシティだったらとペンを動かしながら考えていた。ブラッド症候群に関してはこっちの医学も手を焼いていると以前ヒバルが言っていたが、死乃宮よりは症状を緩和させる薬が出回っているはずだ。
薬を用意してくれるように、或いは完全な治療法の研究がどこまで進んでいるか教えてくれと頼んでみようかと考えて、ユキハは頭を小さく横に振る。前者はともかく、後者は国の内部に探りを入れてくれと言っているようであまり気が進まない。
(ヒルは共犯者じゃない、友達だ。けどこれ以上ユウカさんの症状が悪化したら……くそっ)
良くない方向へ傾きかけた思考を、ユキハは書類への記入と整理に没頭することでリセットする。結果、夕食の支度を終えたアズハとミユが戻ってくるまでに全て片付いてしまい、卓袱台はオフィスデスクから団欒の場に戻った。
ミユは横たわっている母を見て酷く心配したが、「大丈夫、もう楽になったわ」とユウカが笑って起き上がると安心したようで、アズハがよそってくれた炊き込みご飯を元気よく掻き込んでいる。
「ねぇねぇアズちゃん、ユキちゃん! ミユたちと一緒に住むこと、考えてくれた?」
お吸い物の茶碗を傾けながら、ミユが期待を隠すことなく尋ねた。二人は揃って箸を動かす手を止め、アズハは「あぁ、あれね」と曖昧に微笑む。すっかり双子に懐いてしまったミユは、いつからか「ここで一緒に住もう!」と誘うようになった。
ミユは死乃宮が隣国と戦争をしていることは知っているが、双子がその最前線で戦っている軍人であることまでは知らない。そのため、双子が大人と同じように働いているのは親がいないからだと思っている。あながち間違いではないため、そしてミユがまだ幼いため、誰も訂正していなかった。
「まだ考え中?」
「うん……ちょっとね」
「もしかして、あの剣のお友達のこと?」
――アズちゃんとユキちゃんの刀、綺麗だね
――刀じゃなくて、剣っていうんだよ
――あと、これは俺たちのじゃないんだ
――剣? 誰かに貰ったの?
――……友達に、貸してもらってるの
――その友達は遠くにいるから、滅多に会えないけど
絶対に他言無用という約束のもと、ミユとユウカには少しだけ幼馴染のことを教えていた。
「お友達が一緒でも、ミユもお母さんもいいと思ってるよ?」
「こらミユ、無理を言っちゃダメでしょ」
ぐいぐい迫るミユをユウカが諫め、「ごめんなさい」と謝ってきた。双子はいえいえと微苦笑を零しながら首を横に振るも、その視線は自然と傍らに置いたレイピアに向いてしまう。ミユとユウカ、そしてリンラとヒバルと一緒に暮らす――なんて理想的で現実味のない未来だろう。
「……今度会ったら、話してみるね」
「うん!」
ミユは満面の笑みを浮かべ、おかわりした炊き込みご飯を夢中で掻き込んだ。喉詰まっちゃうわよと注意する傍ら、ユウカは双子のことが心配になる。ユウカは賢い大人だ。あの剣が敵対関係にある隣国の軍人の武器であることも`お友達`がその軍人だろうことも、そこに国同士の複雑な関係が絡んでいるであろうことにも気づいている。
双子を信頼しているゆえに何も口を出していないが、この先も彼らがその`お友達`と、そして死乃宮の上層部と今まで通りの関係でいられるのかと考え出すと不安しかない。正直な話、娘の願いは実現には程遠い夢物語、さらに上層部の耳に入れば自分たちの生活すら危うくなる禁句にも等しいと思っていた。
「大丈夫ですよ」
「っ、え?」
「何が起きても、お二人を巻き添えにすることはしませんから」
ユウカの不安を見透かした双子はきっぱりと宣言するが、
「……そんなこと言わないで」
それはそれで、寂しい。
「私もミユも、貴方たちと`お友達`の味方よ。貴方たちみたいに強くはないけど、帰る場所にはなってあげられるから」
「そうだよ! `お邪魔します`じゃなくて`ただいま`って言っていーんだよ!」
ユウカに続いて、ミユも手を差し伸べてくる。感極まる余り双子はボロボロと泣きそうになったが、ゆっくり目を瞬くことでどうにか耐えた。あの金髪少女に影響されたわけではないが、親しい人の前で格好悪い姿は見せたくない。
「……ありがとう」
それでも目尻からは一滴だけ涙が溢れてしまい、頬を伝うそれを慌てて手の甲で拭い取りながら、アズハは精一杯の微笑みを浮かべて礼を言った。ユキハは言葉で感謝を表す代わりに、自分の炊き込みご飯に入っていた大きな鶏肉をすべてミユの茶碗に移した。そうして夕食を終えた四人は食器を台所へ下げると、冷蔵庫で冷やしておいた水羊羹の残りをデザート代わりに頂いた。
「へぇー、口が悪いほうのお友達って釣り下手なんだ?」
「そうね。揺らすなって何度注意しても竿をプラプラ動かすし、大人しくなったと思ったら鼻提灯作って爆睡してるだけだったし」
その間も、五人の談笑は続く。
「ぼんやり時間を過ごすことが釣りの醍醐味って、分かってない」
「ボーッとするの楽しいのに……ねぇお母さん?」
「ええ。でもその子はきっと、身体を動かしているほうが好きなのよ」
そうでしょとユウカが首を傾けると、アズハは一瞬の間をおいて頷き返す。驚いた。`口が悪いほうのお友達`が自分と特に仲良くしている相手だと言った覚えはなかったのだが、ユウカはユキハではなくアズハを見て確認してきた。これが所謂女の勘、いや母親の勘というやつか。
「もう一人のお友達は、めちゃくちゃ賢いんでしょ?」
水羊羹の最後の一切れを頬張りながらミユが尋ねると、ユキハは「うん」と頷き、半分残った自分の水羊羹を皿ごとミユに差し出した。`賢い友達`とのボードゲームでの勝敗率は五分五分で、裏をかいたと思いきや更にその裏をかかれることもあり、彼は一方的に追い詰められても逆にやる気を漲らせるのだとユキハは言う。
「クールに見えて、中身はけっこう熱血な子だよ。言ったら嫌がるけど」
「え、どうして?」
「さっき話した、釣りが下手な子と一緒にされるのが気に入らないって」
「ふふっ、その二人も仲良しさんなんだね!」
「……うん」
あの母にしてこの子あり、娘のほうも中々に鋭かった。
「今までも色々なお話を聞かせてもらったけど」
ユウカは空になった四つの湯呑に、急須の茶を注いでいく。
「ユニークで格好よくて強い、自慢のお友達ですね」
「……はい」
少々照れながらもユキハはしっかりとユウカの目を見て頷いたが、
「そう、ですね」
同じように頷き返したアズハの声は僅かに沈んでおり、笑顔もどこかぎこちなかった。封じ込めたはずの苦い思い出まで不意に掘り起こしてしまったかのような、揺らいだ紅い瞳を前にユキハとユウカは小さく息を飲み、ミユも「どうしたの?」と心配そうに見つめてくる。しかしアズハは一瞬で微笑み顔を作り直して「ごちそうさまでした」と手を合わせると、茶を淹れ直してくれたユウカに礼を言ってから湯呑に口をつけた。
「強すぎて、少し怖いくらいです」
目頭が微かに熱を孕んだのは、お茶から立ち上る湯気が目に染みたせいに違いない。
◇◇◇◇
「…………」
「…………」
駄菓子屋からの帰り道。藍色と静寂に包まれた世界を、双子は無言かつ無表情で歩いていた。あの母子と過ごしている最中にこんな重苦しい空気を生んだばかりか、帰路にまで引きずることなど初めてで、らしくないと二人して溜息を吐く。
「……ミユの願いのことだけど」
先に沈黙を破ったのはアズハだった。足を止めた姉に倣って立ち止まったユキハに、彼女は「叶えられると思う?」と問いかける。普通に考えてミユの夢は今のままではどうしたって叶いっこない絵空事だが、アズハが尋ねているのはその`今のまま`を壊し、己のすべてを懸けて足掻けば――死乃宮に対して反逆を起こせば叶えられるかという意味だろう。
「……もし」
訓練所でも戦場でも、用意され整えられた敵としか交戦したことがない。ましてや生活の後ろ盾を担ってくれている国の上層部を敵に回すだなんて、戦略シミュレーション中ですら考えたことがなかった。戦闘能力で負ける気は万に一つもないが、その後自力できちんと生きられるのだろうかという不安は付き纏う……ただ、蜘蛛の糸が垂れていないわけではない。
「リラたちと協力すれば――」
「あの二人と武器を交換した夏のこと、覚えてる?」
「へ?」
急に話を遮ってきたアズハの声は、鉛を絡めたように重い。アズハとリンラの武器が入れ替わったのは本当に偶然、戦闘中に切っ先と切っ先がぶつかり、互いの手元からレイピアと小太刀が放れたのが原因だった。隙を作るまいと無我夢中で柄を掴んでみれば、それは見慣れた小太刀ではなく金で装飾された細身の剣で、自分の小太刀はリンラの手に収まっていた。
返したほうがいいか、いや敵に武器を返すなどと逡巡しつつも両手は接着剤で固めたように剣を握り締めており、むき出しの細い刃からは少々焦げ臭さが漂っていた――そこまで思い出せるのに、リンラがどんな顔で小太刀を握っていたのかが思い出せない。
「憎々しげに見下ろしてたのか、無感情に見つめてたのか……それとも嗤ってたのか…」
「十二年も前のことだし、仕方ないんじゃない?」
「ユキもヒルの顔を覚えてないってこと?」
「覚えてないよ」
「「嘘ヲ吐くナ!」」
「「っ!」」
アズハの叫びに重なるようにして鼓膜に、或いは脳裏に無機質な声が響く。双子は気配を尖らせ、抜刀の構えを取って警戒した。アズハは耳栓を付け直しながらブラッドタイプの風を飛ばし、巡り巡って吹き返してくるそれらから音を拾おうとする。ユキハも空いているほうの手で左目の包帯の結び目に手をかけながら、不審な動きをするものがないか視線を這わせた。
「アズ姉」
「少なくとも半径五十メートル以内に、不審人物はいない」
アズハが構えを解くと、ユキハもそろりと柄から手を放す。すぐさま近くの建物の屋根に揃って跳び乗り、姿形だけでなく気配までもを夜闇に溶かして駆けた。屋敷に着いてからも警戒は怠らず、寝床に横になり意識を手放してやっと、二人の心身は自然体に戻る。
――嘘ヲ吐くナ!
ただアズハの頭からはあの無機質な声が、ユキハの頭からは慟哭にも似た姉の鋭い声が離れなかった。
【欠損・氾濫型ブラッド症候群】
極稀に生まれつきの体質がブラッドタイプと噛み合わず、能力の種を持っているのに発現しない者や、反対に力が発現しても体質ゆえに制御が利かなくなる者がおり、症状を和らげる薬はあるが、完全な治療法は確立されていない。